61 未来を語るより 『み』
朝食を食べ終えて掃除機をかけていたら、桂木さんがしんみりした感じで話しかけてきた。
「紗枝さん、江戸いろはかるたの『み』、なんだか知ってる? 『身から出た錆』だって。身も蓋もないよねぇ」
「そうですねえ」
私は苦笑しながら掃除機を動かしている。
私の両親が今、自由を奪われているのは身から出た錆だし、私自身に友人が少ないのも私の身から出た錆だから(おっしゃる通りでございます)としか言いようがない。
「後藤会長は結局離婚するんだって。奥さんがどうしても譲らないそうです。昨日、電話で長いこと詳細を聞かされました」
「それ、身から出た錆っておっしゃりたいんですか?」
「いや、違……違わないか。後藤さんは女性の話題が絶えなかったから」
「ああ……」
私は後藤会長の奥さんがどんな人か知らない。けれど長年にわたって何度も浮気で苦しんでいたのなら、義弟の逮捕をきっかけに『離婚したい』と感情のダムが決壊する気持ちはわからなくもない。
「紗枝さん? どうかした?」
「いえ、別に」
その話はそこで終わり、昼にバトーに行った。焼け出された日に連れて行ってもらったコーヒーの美味しい店だ。
そこで桂木さんは玉子サンド、私はミックスサンドを頼んで待っていたら、桂木さんが声のボリュームを下げて後藤さんの話を再開した。
「後藤会長の奥さんは物静かな人だったから、驚きました。あの年齢まで夫婦で暮らしてきて、いきなり独りになったら、後藤会長はどんな気持ちだろうか。どうしても我が身に置き換えて考えてしまう」
「物静かで控え目な人が、心の中で何も考えていないわけではありませんから」
「それ、紗枝さんのこと?」
「どうでしょう。私もあまり自己主張するタイプではありませんけど、何度も浮気されると……」
運ばれてきたサンドイッチを食べた。ミックスサンドはハムが上等で、辛子マヨネーズの風味が絶妙で美味しかった。桂木さんは玉子サンドを手に取ったまま私を見ている。
「あの、会長さんの奥さんがどうだったのかはわかりませんけど、誰であっても感情のダムは決壊することがあると思います。ただ、経済力がないからと我慢する人も多いでしょうね」
「男の側が反省して心を入れ替えても、女性の怒りは消えないものかな」
「何度も浮気する人は、心を入れ替えていないのでは? ペンキが剥がれた場所に上から塗り直しをしているだけのような。総二郎さん、やめましょうよ。私、よそ様の話で総二郎さんとギクシャクしたくないです」
「そうだね。やめよう」
バトーのコーヒーは相変わらず美味しくて、酸味のあるキリマンジャロがしみじみ美味しい。桂木さんの表情が心なしか元気がない。だんだん気の毒になってきた。
「私、桂木さんにはちゃんと言いたいことを言いますから。そんなにしょんぼりしないでください」
「僕は浮気するつもりは全くないのに、なんでこんなにへこんでいるんだろうね」
「さあ……」
苦笑しながらミックスサンドを完食したら、桂木さんが玉子サンドをひと切れくれた。それも美味しくいただいた。
「総二郎さん、まだ結婚もしていないのに離婚に怯えるのはやめてください」
「まあ、そうなんだけど。そもそも結婚してくれるかどうかも返事を貰ってないですし」
「そんな、駄々っ子みたいな口調で」
ニ十も年上の桂木さんが可愛らしくて、私は自分が優しい微笑みを浮かべている自覚があった。
「参ったなあ。もう僕と紗枝さんの力関係は決まってしまった」
「まさか私が総二郎さんを尻に敷いているとか言いませんよね? 私、威張ったことなんてないのに」
「威張ってない。全然威張ってないですよ。紗枝さんはむしろ控え目すぎてダムが淵まで満タンになっていたとしても気づかないほど静かな人だ」
「えええ」
そこで他のお客さんが隣のテーブルに四人座った。それをきっかけに、私と桂木さんは店を出た。
駐車していた車の中はサウナのように暑い。桂木さんがすぐにエアコンをかけ、発進した。
「総二郎さん、私、ずっと言えないでいることを今言ってもいいですか?」
「ぜひ聞かせてください」
「結婚したら……結婚したら……総二郎さんは子供を望みますか?」
桂木さんはウインカーを出して閉店したコンビニの駐車場に車を入れた。サイドブレーキペダルを踏んで、シフトレバーをパーキングに入れ、エンジンはつけたまま、私を見た。
「驚いた。紗枝さんはそれを悩んでいたの?」
「ええ」
「ずっと?」
「はい」
「そう……」
桂木さんはその先を何も言わず、私の肩をギュッと抱きしめてくれた。そして私の頭のてっぺんに顎を置いて、じっと動かない。これはどういう意味だろう。
「僕は子供が欲しいです」という意味?
「そんな先のことまで考えなくていいよ」という意味?
「考えてもみませんでした」とか?
桂木さんは私を抱きしめていた腕をほどいて、私の頬をそっと撫でた。
「紗枝さんはやっぱりまだ若いんだなあ。そうですか。僕が子供を望むんじゃないかと心配していたんですか」
車内が静かすぎて息苦しくなった。私は桂木さんに断ることなくカーラジオをつけた。アリアナ・グランデが「もう涙は残っていない」という意味の歌を歌っている。
「もしかしてそうかなとも考えたけど、僕から『子供までは望んでいません』と言ったらあなたを深く傷つけるかもしれないから。言い出せませんでした」
「望んでいないんですか?」
「なんて答えたらいいのかなあ」
桂木さんがそっと私の右手を包むように握って、黙って前を向いている。
「僕は、紗枝さんにずっと微笑んでいてほしい。それが一番の大きな願いです。子供がいたら楽しいと思う。でも、僕はこれ以上欲張る気はないんです」
私がずっと言い出せず、怖くて聞くこともできずに悶々と悩んでいたことを、桂木さんはとっくに想定済みだったのか。
「なんだ。私、ずっと不安で聞けなかったのに。桂木さんはとっくに答えが出ていたんですね」
桂木さんはそれには答えない。桂木さんの使っているコロンはグリーンノート系だ。深い針葉樹の森にいるような。落ち着く香り。
「ごめんね、僕は十年後、二十年後の遠い未来を語る自信がないんだ。紗枝さんと一日一日を大切に暮らせたらそれで満足です。僕は子供を持って育て上げるという未来を考えるより、今を笑って暮らしたい」
子を持つと考えただけで私にはしんどい。心穏やかに楽しく子供を育てられる自信がない。だから「子供はぜひ欲しいですよ」と言われるのが恐ろしくてプロポーズの返事を言い出せなかった。
でも、桂木さんはそこまで望んでいないと言う。心の力が抜けるような気がした。
「総二郎さん、冬になったら、またあの温泉旅館に行きませんか?」
「ええ。行きましょう。そのくらいの未来なら重くない。冬と言わず、来月でもいいんですよ」
もしかしたら、桂木さんは私の気持ちを汲んで「子までは望んでいない」と言ってくれているのかもしれない。
私の「いい母親になれる自信がない。不安だ」という気持ちを「それでもいいんですよ」と遠回しに受け入れてくれている気もする。
私には桂木さんの心の底まで見透かすことができない。だからその言葉をそのまま信じるだけだ。
相手の言葉を疑わずに信じること。
人を騙して生きる父と母を持つ私にとって、それは勇気がいること。
私は全力で勇気を出した。
「総二郎さん、私をあなたの妻にしてください。あなたの妻になって、笑顔で暮らしたいです」