60 手放さないでください 『め』
後藤会長を家に招き入れる前、桂木さんが私に近寄って早口で注意した。
「ごっちゃんの件はいったん忘れてください」
「はい。私がごっちゃんのことを正直に告白しても、なにもいいことはありませんから。言いません」
「そうしてください。ありがとう」
後藤会長は疲れた顔をしていた。
「食事時なのに申し訳ないね。少しだけ桂木さんと話をしたい。三十分でいいんだ」
「三十分だなんておっしゃらずに。私、これから夕食を作るんです。会長さんも食べていってください」
「いいのかい? ありがとう。申し訳ないね」
今夜はマイワシの梅生姜煮とスルメイカのお刺身、ナスの煮びたし、トウモロコシのかき揚げ、新じゃがとワカメのお味噌汁。
私が料理している間、桂木さんと後藤会長は小声で話をしていた。弟さんの話をしているのかと思ったら、そうではなかった。「女房が」という言葉が何度も聞こえた。
料理を並べ終わると、後藤会長が料理と私を見比べる。
「お若いのに、こういう料理を作るんですねえ」
「旬の物は安くて美味しいですから」
「紗枝さんは手間を惜しまない人なんですよ。会長、いただきましょう」
「はい、ご馳走になりますよ」
「どうぞ召し上がれ」
後藤会長は美味しそうに食べてくれて、最後に皮を剝いて冷やしておいたビワを出すと笑顔になった。
「皮を剝いてもらって食べるのは久しぶりだ。我が家は自分で剥くのがきまりでね」
「紗枝さんが甘やかすので、僕はだんだんダメな男になりつつありますよ」
「さりげなくのろけましたね」
会長さんと桂木さんのやり取りが楽しい。
私は家事に対価を支払ってもらっているとは言い出せず、微笑むだけにしておいた。
「桂木さん、女性の意見を聞いてもいいかね?」
「それは……どうかな。紗枝さん、会長さんのご家庭の話なんですが……」
かなり言いにくそうな桂木さんを見て、私はすぐに返事をした。
「私の感想がお役に立つのであれば」
「助かるよ。実は弟が逮捕されてね。女房が離婚したいと言うんだ。叔父さんが犯罪者では、子どもたちの肩身が狭くなるって。そんなことあるかね。二十年以上も音信不通だった俺の弟が犯罪を犯してたからってさ、俺たち夫婦が離婚は大げさすぎるだろう?」
「それは……」
ちらりと桂木さんを見ると、本当に困った顔をしている。しっかりしろ私。桂木さんに迷惑をかけないように答えなくては。
「それは結婚相手や恋人のお考え次第でしょうけれど」
「二人とも結婚してる。息子のとこには小学生の子供がいるし、娘のところは幼稚園だ」
「お相手のご実家がなんて言うかではないですか。お子さんが生まれているのなら、叔父さんが逮捕されたからと言って別れるには理由が弱い気がしますが」
会長さんの顔がパァッと明るくなり、続きを言いにくくなった。でも、会長さんの奥さんの不安は痛いほどわかる。他人の痛みをさらにつつくのが人間なのだ。桂木さんのような人は極めて珍しいことは、私が身をもって経験してきた。
「何が正解なのかは私にはわかりません。ですが、奥様の不安はわかる気がします」
「そういうものかい?」
「お子さんとお孫さんを守りたいのでしょうね。愛情からのご心配でしょうから、喧嘩せずに話し合ってみたら大丈夫なのでは」
「話し合うって、なにをだい? 女房は離婚するの一点張りなんだよ」
視野の端で桂木さんがすごくハラハラしているのが見える。私は桂木さんに笑顔で「大丈夫」とうなずいてみせた。
「会長さんご夫婦が離婚してもしなくても、言う人は言うと思いますよ。それなら、お子さんやお孫さんが傷ついたときに奥様が一人で慰めるより、会長さんと奥様の二人で慰めるほうがいいのではないでしょうか。そして外で何か言われたら、隠さずに話をしてくれと言ってあげるのが大切なのではないでしょうか」
「なるほどな」
「生意気を言いました」
「いや、ありがとうな」
「傷ついたときに、抱きしめてくれる人がいるかどうかで、痛みは変わりますから」
しまった。涙ぐみそうだ。ここで泣いたら絶対に変だ。
「お茶を淹れます」
そう言って台所に立ち、お茶を淹れた。もうおなかはいっぱいだろうが、昼間に桂木さんが買ってきた手焼きせんべいを袋から出した。
「おせんべい、総二郎さんが買ってきてくれたんですよ」
「いや、俺は帰るよ。女房を頭ごなしに怒鳴りつけて出てきたんだ。そうだよな。女房は子供や孫たちのことを心配したんだな。てっきりこれ幸いと離婚を切り出したと思い込んでいたよ」
桂木さんが車で送ると言ったけれど、会長さんは「歩きながら女房に謝るからいい」と断って帰って行った。門まで見送って家に入ると、桂木さんがふんわりと私を腕の中に包んでくれた。
「答えにくいことを答えさせてしまった。申し訳ない」
「いいえ。平気です。ただ、会長さんと奥様の関係が円満であることを祈るばかりです」
「うん?」
本当にわからない様子の桂木さんに、上手く伝えられる気がしなかった。「いえ」とごまかしたが、だめだった。
「いいよ、言って?」
「ええと……長年夫婦をして不満やすれ違いが積み重なっていなければ、ご夫婦で力を合わせて乗り越えられる話だと思いました。でも、もし、奥様が『ちょうどいいからこの機会に別れよう』と思ったのであれば、私の意見は余計なお世話だな、と」
「ああ、そういう……夫婦のことは他人にはわからないからね」
私は今、桂木さんとずっと一緒に仲良く、と思っている。十年二十年たっても、そう思っていられたらいいと思う。嫌いな人と暮らす日々は地獄だろうなと思う。その手の話は契約社員で働いていたとき、休憩時間にさんざん聞いてきた。
桂木さんの腕の中で、そんなことをぼんやり考えていたら、腕が緩んだ。私の肩に手を置いて、私をぐるりと自分のほうに向けながら、桂木さんが真面目な顔だ。
「紗枝さん、不満やすれ違いを感じたら、その場で僕に言ってくれる?」
「え? あ、はい」
「言いにくくても言ってね。あなたに嫌われるようなことを無自覚にしている自分を想像して、今、ゾッとしました」
「わかりました。ではお願いが一つあります」
さっそく言われるとは思わなかったのだろう。桂木さんの顔が引きつった。
「歯磨きチューブやシャンプー、まだ少し残っているのに新品に交換するのはやめてください。私は最後まで完璧に使い切るところに喜びを感じるので」
「……うん。わかった。ごめんね。あなたの手間を省いているつもりだった」
「それはわかっていたので、毎回我慢していました」
腰に両手を当て、わざと偉そうにそっくり返って返事をして、我慢できずに笑ってしまった。
『目を見て本音を語る』
こうしていかないと『もう別れたい』と思うことになる気がしたけど、これは経験してみないとわからない。「言わなくても察してよ」と思う日がくるのかもしれない。パートナーとして未知の経験を楽しみながら日々を積み重ねていける私でいたい。
「総二郎さん、私、楽しく暮らすための努力を惜しまず続けますから。だから、私を手放さないでくださいね」
「それは僕のセリフです」
ぽす、と桂木さんの胸に頭を置いたら、桂木さんが静かに頭を撫でてくれた。