6 桂木総二郎の納得
【桂木総二郎視点】
「こんばんは。遅くなりましたぁ。桂木さん、今日はマツバガニを持って……あっ、お客様でしたか。失礼しました」
「お隣さんだよ。鮎川さんだ」
「鮎川紗枝です。隣に引っ越して来たのですが、焼け出されました。桂木さんに助けていただいております」
「深山奏です。ソウは演奏の奏。桂木さんの家来をやってます。お隣がえらいことになってるなあと思って見てきたところですよ。災難でしたね。ご無事でなによりです」
「深山さんは家来、ですか」
家来という言い方は深山のお気に入りの冗談なのだが、聞く人によっては誤解を招くので用心してほしいところだ。鮎川さんはどう受け取るのかな、と顔を見ると楽しそうに笑っていた。笑うと両頬にえくぼができるのだと、初めて知った。
そうか、彼女は今まで本当の笑顔は見せていなかったのか。
「深山君、君、いい仕事したよ」
「え? 桂木さん、そんな蟹が食べたかったんですか?」
「ふふふ。そうだね。蟹を食べたかったかな」
「ついに俺も桂木さんと以心伝心の仲となりましたね!」
突然、鮎川さんが笑い出した。
声を出さず「くっくっくっく」と笑う。おなかを押さえて笑い続けている。
「そんなにおかしかったかな。なあ、深山君」
「私にはわかりませんが」
「すみ、すみませ……くっくっく。新居がわずか数時間の滞在で燃えちゃって、仕事は切羽詰まっていたし、私、かなり追い詰められていたんです。その割には実感が湧かなくて、ドラマを見ているみたいでした。でも、お二人のやり取りを聞いていたら、ちょっと落ち着きました。冷静になって考えたら、今の私の状況、一生使える鉄板ネタを手に入れたようなものだと思ったら、つい笑いが」
鮎川紗枝は笑い続けている。
「あれ? 鮎川さんは笑い上戸ですか?」
「違います。たぶん感情の振れ幅が大きすぎて、挙動不審になってるのかも」
「あなたは冷静だったよ。よく頑張った。燃える家を眺めている間、一度も取り乱さなかった。逆に心配になるほど冷静だった」
「え?」
「ああ、しまった。暇なオヤジがずっと見ていたなんて、気持ち悪いよね。申し訳ない」
だが、鮎川紗枝の口からでた言葉は思いがけないものだった。
「ずっと心配してくださってたんですね。ありがたいです。今日はいろいろ助けてくださってありがとうございました。このご恩は決して忘れません」
「いやいや、大げさですよ。なあ、深山君」
「気にしなくていいんですよ。桂木さんは暇を持て余している金持ちオヤジだから、いろんな人に親切にしていますから」
「深山君、金持ちオヤジって言い方は感じが悪いぞ」
そう言ったものの、深山のこういう陽気なところは得難い長所だと思う。
「桂木さん、深山さん、せっかく楽しくなってきたところですが、私は眠さの限界がきました」
「いいよ、寝てください。昨夜は徹夜だったんだ。きっとバタンキューだよ」
「では失礼します。おやすみなさい」
鮎川さんはそう言って二階に上がった。二階のドアが閉まる音を確認すると、そこまで愛想よくしていた深山が笑顔を引っ込め、責めるような表情で私に詰め寄る。
「桂木さん。泊めるんですか? まずいですよ。また週刊誌に載りますよ? それとバタンキューは死語です」
「週刊誌に載ったっていいよ。明日まではこの辺の宿泊施設は全部塞がってるんだ。それに今はもう何を書かれたって誰にも迷惑はかけないじゃないか」
「彼女は隣の家の人でしょう? 懐かれたらどうするんです? ずーっと隣にいるんですよ? 厄介なことになります」
「もし家をあそこに建て直すなら隣人だろうけど、どうかな。建て直すのかな。それと、おそらく彼女は僕には懐かない。っていうより誰にも懐く気がない人だと思うけど」
「桂木さん、それ何根拠です?」
「僕の経験」
「じゃあ当てにならないです。もし困ったことになったら早めに僕に言ってくださいね。僕が手を打ちますから」
「君に頼らなくても自分で対処できるよ」
「桂木さんはそう言ってズルズルしがみつかれるじゃないですか。心配なんですよ」
「はいはい。心配をかける社長で申し訳ないね」
深山は何度も「困ったことになる前に彼女を家から追い出してくださいよ」と言って帰って行った。
「いろいろだねえ」
人に心の内を見せまいとする鮎川紗枝さん。
社長の自分を過剰に心配する深山奏。
「そして僕は今以上の後悔を抱えるのが怖い人、か」
シャワーを浴び、寝室に入った。
ベッドに入り目を閉じるが寝付けない。燃える家を見ていた鮎川紗枝の、表情の抜け落ちた顔が目を閉じると浮かんでくる。
あの女子社員もあんな顔をして空を見ていたという記憶が、自分を不安にさせる。
会社の業績が右肩上がりで、自分を含めて会社中が目の色を変えて仕事をしていた。そんな中、一人の女性社員が自殺を図った。会社が急成長していたのもあり、週刊誌には過労による鬱が原因だと書かれた。それは嘘ではない。だから自分と会社がテレビやネットで叩かれても一切反論をしなかった。
幸い一命はとりとめたものの、彼女は今、首から上しか動かない。まだ二十八歳なのに。
毎月見舞いに行き、見舞金を置いてくる。彼女は自分を見ないし、なんの反応もしない。それが彼女の気持ちなのだろう。
彼女の人生を奪った原因は自分だと思っている。
女性社員の表情が抜け落ちている顔を見た時に、自分は行動すべきだった。
彼女の自殺未遂が労災と認定されたのをきっかけに、精神的に疲弊していた自分は会社を売って海辺のこの町に引っ越した。組織を引っ張るのには向いてない、と思った。また独りで何か始めよう、そのほうが向いている、と判断した。
鮎川さんは本当に大丈夫なんだろうか。なぜあんなに落ち着いているんだろうか。
今日、彼女が泣き出しそうになったときに咄嗟に話しかけて落ち着かせたが、あのまま泣かせてやったほうが彼女のためだっただろうか。
「情けない。何歳になっても正解がわからない」
子どもの頃、五十歳といったら酸いも甘いも噛み分けた分別のある大人、というより老人だと思っていた。だが今の自分の中身は三十の頃と大して変わらない。
金の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚は発達したし、商売の風の流れを読むことも上手くなった。
けれど肝心なところで大人になりきれていない。若い人の心の機微を読めず、後手を打った。せめて隣人となった鮎川紗枝には、あの女性社員のような道を選ばせたくない。
そこまで考えて、ハッと気づいた。
鮎川紗枝は、表情が抜け落ちていたことが似ているだけじゃない。自殺を図る前の女子社員と顔立ちが似ているんじゃないだろうか。
そうだ。なぜ今まで気がつかなかったのか。元女性社員は顔の筋肉が落ち、表情もなくなり、顔の雰囲気が変わってしまったせいか、実年齢よりもずっと年上に見える。
だが、社員として働いている頃のあの女性は、鮎川紗枝さんに似ていた。
「ああ、それで僕はこんなに彼女が気になるのか」
やっと探していた答えが見つかったようで、一気に眠気が訪れた。
寝返りを打ち、薄い羽毛布団を肩まで引っ張り上げる。
「明日の朝は、久しぶりに米を炊くか。焼き海苔はあったかな」
黙々とオープンサンドを食べているときの鮎川紗枝は、少しだけ素を見せていたような気がした。
言葉と旨いもの。それが鮎川紗枝の鎧が緩む鍵のような。
「あんなに気を張って生きるのは疲れるだろうに。いや、もう寝よう」
やっと眠れそうなことにほっとして目を閉じた。