59 夢を追って 『ゆ』
私の記憶を伝えたことがきっかけになったのかどうか。後藤秀晴逮捕のニュースが流れた。後藤秀晴の顔写真を見て、すぐに『ごっちゃん』だと気がついた。
十八年もたっているのに、ごっちゃんの口調や高圧的な雰囲気をすぐに思い出した。
パソコンでそのニュースを見てから一階に下りた。
(『ごっちゃん』は後藤ちゃんの意味だったのね)と思いながらコーヒーを淹れた。桂木さんは用事で出かけている。
コーヒーを立ったまま飲みながら大きな窓を眺める。夏の芝生は緑が美しい。
逮捕されたということは、四つ葉ハウス事件以降も犯罪に手を染めていたということだ。詐欺だろうか。父も母も人を騙すことに執着していた。後藤秀晴もそうだったのかな。
私は母の結婚詐欺の犯罪歴が原因で、小学校時代にいい思い出がない。
中学からは父の土地取引の詐欺が原因で施設で育ち、世間から距離を置き、距離を置かれてきた。
それがつらくて自らも犯罪に走る人もいるようだが、私はひたすら真面目に、後ろ指を指されないように生きてきた。後藤秀晴に子供はいるのだろうか。
反面教師というには影響が大きすぎた両親を持ったことは、『苦労した』などという言葉ではとても言い尽くせない、しんどい人生だった。
「でも、そのおかげで桂木さんと出会えた、のか。あまりに長い道のりだったけど」
私の正体を知ってもなお「あなたと一緒に生きていきたい」と言ってもらえる幸せがこんなに大きいものだとは知らなかった。
昔の恋人が私の両親のことを知って姿を消し、連絡も取れなくなったとき、私は相手を恨まなかった。
脱力して動けなくなったけれど、(そうでしょうね)と思っただけで泣きもしなかった。
生きることは苦しいことだった。
私は他人から嫌悪をぶつけられることに慣れていて、一生下を向き、背中を丸めて生きていくのだろうと思っていたのに。
「やっぱり夢みたい」
今、桂木さんを失ったら、私は立ち上がれるだろうか。
桂木さんの車が門の向こうに見えた。
急いで壁のボタンを押して、門の鍵を開けた。車がコンクリートのエントランスを進んで家の裏側に回り込むのを見て、車庫に急いだ。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。今日は暑いね」
目尻にシワを作って笑っている桂木さんを見たら、(この人がいない生活なんて、耐えられない)と思う。
「おや? どうかしましたか? なんだか留守番していた子供みたいな顔をしていますよ」
「ふふ。お見通しですね。総二郎さんがいなくて寂しいなと思っていたところです」
私の顔を見て、桂木さんが近寄ってきた。
「本当にどうかしましたか?」
「今が幸せだなと思ったら、この幸せを失うのが怖いなと思って……。心細くなっていたんです。変ですよね。幸せになったとたんに、不幸を恐れるなんて」
桂木さんが私の肩に手を回して、玄関へと促しながら歩き始めた。
「気持ちはわかります。僕も『今からの一人暮らしは耐えられないな』とよく思いますから。お互い、怪我と病気には気をつけましょう。紗枝さんは若いから、そのままでいいですよ。気をつけるべきは僕だな」
桂木さんは紙袋を持っていて、それは桂木さんがお気に入りのおせんべい屋さんの袋だった。
「おせんべいを買ってきたんですね」
「ああ、これは観光協会の後藤さんに差し入れにするつもりだったんだけどね、どうも後藤さん、急な用事でバタバタしているとかで、予定がキャンセルになったんですよ」
「そうでしたか。私のパンフレットの仕事のことでしたら、仕事がダメになっても気にしませんよ?」
「ああ、うん」
後藤秀晴逮捕のことを、ふと思い出した。観光協会の後藤さんは年齢的に親子ってことはない。せいぜい兄弟くらいの年齢差だ。
(まさかね)と思いながらお茶を淹れつつ聞いてみた。
「後藤さんて、下のお名前はなんておっしゃるんですか」
「後藤さんはたしか……後藤正晴だったかな。どうして?」
私は湯飲みを見つめたまま、一瞬動きを止めてしまっていた。
「紗枝さん?」
返事のしようがなくて、黙ってお茶を最後まで注ぎ、桂木さんのところに運んだ。自分もソファーに座り、(どうしよう)と途方に暮れて桂木さんの顔を見る。
「もしかして後藤さん、弟さんのことでバタバタしていたんでしょうか」
「そうだけど、なんで知っているの?」
「実は……」
子供のころの記憶を水川刑事に話したこと。ごっちゃんが後藤秀晴だったこと。もしかして協会長の後藤さんの弟なんじゃないかと不安になったことを話した。
「そうだったんですか。世間は狭いね。おそらく紗枝さんが思った通りなんじゃないかな。後藤さん、弟が長年行方知れずだと言っていたんだ。僕に断りを入れるとき、弟のことで東京に行くって言ってたから」
「私、余計なことをした……んですね」
「違いますよ。あなたはあなたの正義を行っただけ。それでもし、その後藤秀晴が協会長の弟だったとしても、あなたが申し訳なく思う必要はない。行方知れずの弟が見つかった、その弟は罪を犯していた、それだけです」
欲しい言葉を言ってもらっても、居心地の悪さは消えなかった。
「後藤さんの弟はね、夢を追いかけて東京に出たと言っていました。『ミュージシャンとして成功するんだ』と言っていたそうですよ。ところが途中からパッタリ音信不通になって、『もう生きていないのかもしれない』と後藤さんは心配していました」
「夢、ですか」
「そう、夢を追いかけて人は生きていくものだから」
そうか、と突然わかった気がした。
父も母も詐欺をやめられなかったのは、詐欺でお金を手にいれることが、父と母の夢だったのかもしれない。
計画し、話を持ち掛け、相手を自分の嘘の世界に引きずり込み、お金を出させる。
「ねえ、紗枝さん、あなたが落ち込む必要はないんですからね?」
「あっ、考え込んでしまいました」
「ああ、もう。あなたがそういう顔をするときは、『頭ではわかっているけど』っていうときですよ。はぁ……なんでもかんでも申し訳ないと思う悪い癖は、もうやめなさい」
桂木さんが私の隣に来て、手を握ってくれた。
「後藤さんの話はもうやめましょう。よし、今夜はどこかで美味しいものを食べましょう。そうだ、かるたを考えてみる? 紗枝さんは言葉を考えていると元気になるから」
「そうですね。言葉をいじくりまわしていると、その間だけは無心になれますね。今度は、ゆ……夢を追って道に迷う」
「それ、後藤さんの弟のこと?」
「あっ……」
桂木さんの「まだくよくよしているのか」という顔を見たら力が抜けた。
「桂木さん、母親みたい」
「母親はやめて? せめて父親でしょうよ」
口調と表情がおかしくて、笑ってしまった。
「やっと笑った」
桂木さんが安心したような顔になった。
夜になったが、外食には行かなかった。観光協会の後藤さんが、訪ねて来たからだ。