58 墓参り 『き』
商店街のマンションで目が覚め、習慣でスマホをチェックした。
水川刑事からのショートメールが一件。「連絡ください」のみ。静かにベッドから抜け出して服を着た。電話をかけると、すぐに水川刑事が出た。桂木さんを起こさないよう、玄関ドアに向かって小声でしゃべることにした。
水川さんはすぐに出た。
「水川です。電話をありがとう」
「いえ。何かありましたか?」
「署名が必要な書類が一枚あったんです。申し訳ないね、このご時世だけど、うちはいまだに紙なもので」
「わかりました。今東京にいますので、今日の午前中にはうかがいます。それと、私、思い出したことがあるんです。たぶんもう時効でしょうけど、四つ葉ハウス事件の父の仲間のことです」
「ほう。なんだろう。今聞かせてもらえますか?」
「はい」
ここ数日ずっと記憶を辿って思い出したことを全部話した。英語をちょいちょい使う男が四つ葉事件の犯人グループにいたこと。その男が「ごっちゃん」と呼ばれていたこと。
父よりだいぶ若く、背が高く、角刈りだったこと。仲間に対していつも偉そうな口調だったこと。
私が検索した限り、その男は逮捕されていない。その存在に触れた情報も出ていない。
「ごっちゃん、ですか。紗枝さん、四つ葉の件は時効ですが、それでもその男が仲間だったという情報はありがたいです」
「思い当たる人がいるんですか?」
私の質問に、水川刑事は答えなかった。
「お電話をありがとうございました。うちの署に来てくれたら、私がいなくてもわかるようにしておきます。身分証だけ持ってきてもらえれば」
「わかりました。では失礼します」
振り向いたら桂木さんが起きて歯を磨いていた。ちゃんと服も着ている。
「紗枝さんおはよう。昨夜は手間かけさせたんだね。僕は一人のときはたくさん飲んでも深酔いしなかったのに。これで二度目だ。あなたと一緒だと、どうも油断してしまうようです。全くもって面目ない。ごめんね」
「どうして謝るんですか。嬉しいですよ。私と一緒だと油断してしまうなんて、嬉しくてニコニコしてしまいます。どうぞこれからも油断してください。朝食は食べられそうですか?」
「ええ。美味しいパン屋さんがあるので買ってきます」
「私も一緒に行きます」
商店街は、出勤する人たちが足速に歩いている。私と桂木さんはのんびり歩いてパン屋さんに向かった。
亀山ベーカリーは私が子供の頃にあったような昭和の雰囲気が漂うお店だった。焼き立てパンの甘い香りとバターの香りが店内に満ちていて、思わず深々と息を吸い込んだ。
桂木さんは何を買うのかなと見ていたら豆パンと塩バターロールだ。私はクロワッサンを買った。まだ熱々だ。
「マンションにコーヒーがありましたっけ?」
「あります。僕が淹れますよ。昨夜面倒をかけたから、少し挽回させてください」
「面倒じゃありませんて。挽回する必要もないですけど、ではお願いします」
焼き立てのクロワッサンとコーヒーの朝食をゆっくり食べた。パリパリもっちりのクロワッサンは、噛むとバターの味と香りが口と鼻に満ちる。
最低限の物しか置いていないワンルームなのもあって、引っ越しの翌日みたいな気分になる。引っ越ししてすぐに焼け出されたことを、遠い昔のことのように思い出した。
「私、あの家が無事だったら、総二郎さんとお話しすることもなかったかも」
「お隣同士だから、挨拶くらいははするでしょう」
「挨拶くらいは。でも、総二郎さんがどんな人かもわからないまま深く関わるのを避けて『お隣さんは一人暮らしなのね』で終わっていたと思います」
「そういう未来になっていたかもね。そんな事態は恐ろしいな」
「私、シゲさんに『人嫌いの私が言うのもなんだが、若いあなたはもう少し人と関わったらいいんじゃないかな』って言われたんですよね。そのときは(無理です)と心で思いましたけど。燃えてしまったあの家は、この日につながる種だったのかも」
「種?」
「はい。『希望の種を手渡され』です。種から芽が出て、根と枝が伸びて。私、本当に変わりました」
そこまで言って、シゲさんへの懐かしさに胸が詰まる。
家が燃えたり、父が捕まったり、母に拉致されたりで、そう言えば引っ越し以降、シゲさんのお墓参りに行けていない。お墓参りするって約束したのに。
「引っ越ししてからシゲさんのお墓参りに行っていなくて。恩知らずだわ、私」
「一緒に行こうか。僕も鮎川シゲさんにお礼を言いたい。墓地はどこなの?」
「谷中です。今日、警察に行って書類にサインするんですが、そのあとでも大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。警察にも同行していい?」
「はい!」
朝食を終えて警察に出向き、書類にサインをし、谷中霊園に向かった。桜の季節は大混雑するけれど、この時期の霊園はひっそりとしている。
シゲさんは、六十代で墓石を用意したのだそうだ。仕事で成功して家を建て、ついでのようにお墓も用意したと言っていた。
お別れの直前、シゲさんは酸素マスクの下で穏やかに笑っていたっけ。
『いざお迎えが来る段になると、墓はいらなかったなあと思うよ。墓参りする人がいない』
『私がお参りします。私、もうシゲさんの娘じゃないですか』
『墓参りは別にいいんだ。豆大福を見たときにでもチラッと思い出しておくれ』
『はい』
『元気なうちに食べたかったなぁ。もう食べられないなあ』
途中で買ったお花を供え、お線香を置いて手を合わせた。
(シゲさん、遅くなってごめんなさい。私、好きな人と一緒に暮らしています。せっかくいただいた家は燃えてしまったけれど、あの家がご縁を結んでくれました。シゲさんにいつの日かまた会えたら、何があったのか、全部お話しさせてください)
和菓子屋さんで買ってきた豆大福をお供えした。
隣の桂木さんを見ると、まだ目をつぶって手を合わせている。私の視線を感じたのか、目を開けて私を見た。
「さあ、帰りますか、我が家へ」
「はい。帰りましょう。豆大福は持ち帰っていただきましょう」
私たちはアクアラインを経て帰宅し、熱い緑茶で豆大福を食べた。
甘くてしょっぱくて、シゲさんと食べた日のことがパーッと脳裏に浮かぶ。人生を全うして、旅立ったシゲさん。もう会えないシゲさん。自分を取り巻く世界を怖がっていた私を、あの家を通じて平和で優しい世界に導いてくれた人。私が変わるきっかけをくれたシゲさん。
我慢していた涙がじんわり滲む。
「紗枝さん?」
「これを食べているときのシゲさんの笑顔を思い出しちゃって」
桂木さんがテーブルの上の私の手に大きな手を重ねてくれた。
「また行きましょう、お墓参り。あなたの父親ですから僕の父でもあるんです」
「ええ。谷中周辺は楽しい散策コースがいろいろありますし」
「そうだね。そういう時間を大事にしましょう」
私たちは穏やかな日々を再開した。
『ごっちゃん』こと後藤秀晴容疑者の逮捕をニュースで知るのは、だいぶ先の話だ。