57 夜が明ける 『さ』
私の半生記の二話目が載っている月刊誌『フルブルーム』が発売された。
発売から一週間が過ぎたところで、担当編集者の百田さんからメッセージが入った。
「アンケートに書かれた感想の数が、今までの平均の三倍です。どれも好意的な内容ですよ」
「よかったです。ホッとしました」
「ネットで話題になったからでしょうが、書店で購入している常連さんの他に、相当数の新規の読者がネット書店で通販しています。三話以降の反応が楽しみです」
「私もです。百田さんと編集長に感謝しております」
スマホの画面を閉じて顔を上げると、桂木さんが私を見ていた。
「嬉しそうだ」
「はい。月刊誌の反応がいいらしくて」
「あなたの文章は読んでいて引き込まれるよ」
「もしかして、フルブルームの文章を読みました?」
「もちろん。紗枝さんがなかなか見せてくれないので、書店で買いました」
「あっ、気が利かなくてすみません」
「いいんですよ」
まとまった文章を桂木さんに読んでもらうのは、心の中を家族にさらけ出すようで少し恥ずかしくて見せそびれていた。
「メディアストーンに紗枝さんが書いてくれた文章も好評で、初めて感謝の手紙が届きました。『老人にもわかりやすい文章をありがとう』って」
「極力カタカナを使わなかったのが良かったのかもしれませんね」
「普段僕らが当たり前のように使っている言葉も、読み手にとっては『なんのこと?』という場合があるからね。気をつけているつもりでも、まだまだ配慮が足りなかったらしい」
「お役に立ててよかったです」
私が主に担当したのは「初めての方へ」というアプリの使い方の説明だ。
私自身が通販するときに毎回迷うポイントに力を入れた。カード払いか、コンビニ払いか。前払いか後払いか、一回きりの購入か定期購入か。そこをわかりやすく書いたことが評価されたらしい。
「紗枝さん、僕は今日仕事休みですが、あなたは忙しい?」
「いえ。今日は寝具とカーテンを夏物に入れ替えるくらいしか」
「じゃあ、それは後回しにして、釣りに行きませんか? 堤防から釣れるんです」
「行きたいですけど、私、釣りは全く経験がなくて」
「大丈夫、サビキ釣りだから。準備が終わったら声をかけますね」
台所の拭き掃除をしていたら桂木さんから声をかけられた。
「準備が終わりました。日焼けにだけ気をつけて」
「はい」
日焼け防止のパーカーを着てつば広の帽子を手に車に乗って、すぐ堤防に到着した。加藤食堂の目と鼻の先にある堤防は、すでに何人もの釣り人がいた。
思ったよりも使う道具は少なくて、車から降ろした荷物は竿二本、クーラーボックス、四角いバッグのみだ。
正直を言うと(もしかして生きている餌を使うのだろうか)と少々腰が引けていたけれど、ミミズも足がたくさん生えている長いアレも使わないらしい。桂木さんが手際よくセットしてくれた釣り竿から伸びる釣り糸には小さなカゴがついていて、糸には何本も針がしかけられている。
「このペラペラしているのが餌の代わりですか?」
「そう。このカゴにチューブの中身を入れて、と。よし、やってみましょう」
全くわからないけれど、桂木さんの真似をして海に向かって釣り糸を垂れた。テトラポッドの上まで海面が来ている。カゴに入れたチューブの中身は何だろうと思いながら竿を上下に動かしていたら、クッ、クンッ! と二回手ごたえが来た。
「総二郎さん、釣れた気がします」
「もう? 早いな」
桂木さんが私の手元を見て「あっ、来てるね」と言いながら自分の竿を下に置き、「ゆっくり竿を立ててみて」という。恐々竿を上に持ち上げようとしたら「こういう感じに」と手を添えて竿をゆっくり動かしてくれた。釣り糸が左右にギュンギュン動く。魚の重さで持ち上げるのに結構な力が必要だ。
やがて、銀色に光る魚が海面から姿を現した。
「わ! わ! アジが! 四匹も!」
「おめでとう。いい型だ。針から外しますね」
針を外すことも自分でできるようになりたくて、桂木さんの指先を真剣に見た。ビチビチと跳ねるアジをつかむ作業が若干ハードルが高いが、(できる)と思った。
「最後の一匹は私にやらせてください」
「どうぞ」
生きて暴れるアジ。恐怖心に蓋をして桂木さんと同じように針を動かして外した。
「自分でやりたいんだね?」
「はい。これができればいつでも……」
いつでも一人で釣りができる、と言いかけてのみ込み、苦笑した。私はいつでも一人で生きていく前提でここまで来たけれど、これからは二人で生きていくことに馴染みたい。
「一人で来てはいけませんよ。『海は数千回に一回は大波が来る』と言われるんです。紗枝さんが一人でいるときに波にさらわれたら困ります」
「あっ、読まれちゃいましたね。でも一人で来られると思った気持ちには続きがあるんです。私ね、これからは二人で生きていくことに馴染みたいと思ったところです」
ふたりでしゃがみ込んで話をしていたのだけれど、桂木さんが目だけで微笑んだ。間近で見る美形の微笑は、何度見てもドキドキする。
「お熱いことですなあ」
背後から男性の声。誰? と振り向いたら年配の恰幅のいい男性がクーラーボックスを片手に笑っている。
「後藤さんじゃないですか。今日はお休みですか」
「年寄りですからね、ほどほどに働いてますよ。桂木さん、そちらは?」
私は慌てて立ち上がった。桂木さんの親しい人に会うのは六花さん以来だ。
「こちらは鮎川紗枝さん。僕のパートナーです。紗枝さん、こちらは鯛埼町の観光協会会長をなさっている後藤さん。ゴルフ仲間ですよ」
「鮎川です。初めまして」
「ああ、あなたが。桂木さんがさっぱりゴルフに顔を出さなくなったと思ったら」
桂木さんが苦笑しているから私も困った顔で笑うだけにした。余計なことは言うまいと思っていたら、桂木さんがまさかの鮎川自慢を始めた。
「紗枝さんはライターの仕事をしているんです。実に有能な方ですよ。私の会社でも文章を書いてもらっているんですが、年配のユーザーさんの評判がすこぶるいいんです」
「ほう、ライターさんですか」
後藤さんの目がキラリと光った気がした。
「じゃあ、鮎川さんに文章を書いてもらうには桂木さんを通せばいいのかい? 観光協会のパンフレット、十年も前に作ったまんまでさ、私が読んでも時代遅れなんだよね。黒くて四角いマークが……」
「QRコードですか?」
「それ。それも載せたいし、文章ももっと興味を引く内容にしたいんだ」
「紗枝さん、どうします?」
「私の過去の仕事を見ていただいて、それで問題がないようでしたら喜んでお受けします。家に戻りましたら、資料をお送りします」
後藤さんは小さくうなずいていたが、桂木さんの腕をポンと叩いた。
「しっかりしているね。もう、このやり取りだけで信用できる人だってわかるよ」
「しっかり者でがんばり屋で才能にあふれている人ですよ」
「いえ、もう、その辺で」
嬉しいけど恥ずかしい。卑屈な態度にならないように笑顔を保ったけど、冷や汗が。
「では資料をお待ちしています」
後藤さんは笑顔で帰って行き、私たちは釣りを再開した。私がアジを次々と釣り上げ、しばらくして私が釣れなくなったら、今度は桂木さんがイワシと小型のサバを釣り上げた。
家に帰り、クーラーボックスを開けてあらためて見ると大漁だ。
「深山さんにも食べてほしいですけど、東京から二時間も車を運転させてアジとサバとイワシじゃ、気の毒ですよね」
「今、聞いてみますよ」
桂木さんがメッセージを送り、三秒で返事が来た。
「来るそうです。深山君も休みですからね」
「わかりました。じゃあ、すぐに料理をしますね」
「さばくのは僕がやりますよ」
「では二人で。そのほうが早いですから」
魚をさばくのは貧乏暮らしの頃に習得した。旬の魚を買ってさばけば格安で美味しい魚料理が食べられる。長いこと「手間はゼロ円」が私のモットーだった。
それから二時間、深山奏が到着するまで魚をさばき、調理した。二時間で五品。上々だ。
「鮎川さん、お久しぶりです。腹を空かせてきました」
「深山さんお久しぶり。アジはなめろう、さんが焼き、塩焼き。サバは竜田揚げ。イワシは梅ショウガ煮です」
「紗枝さん、昼酒にしましょう」
「あっ、車で来るんじゃなかった!」
「泊まっていきなさい」
「いいんですか? では日本酒をいただきます」
「桂木さん、先に始めていてください。すぐ戻ります」
桂木さんと深山奏が上機嫌で飲んで食べている間に、後藤さんに送る資料をまとめた。長い間世間から身を隠して生きていた私に、次々と新しい仕事が入ってくる。今回は観光協会。以前の私には考えられなかったところからのお声がけだ。
『差し込む光で朝を知る』
私の長い夜が明けつつある。