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56 愛されると強くなる 『あ』

 お祭りを楽しみ、私たちは鯛埼町に帰った。とても満たされた旅行だった。

 帰りの新幹線の中で、私と桂木さんは視線が合うと毎回微笑んだ。

「この人は信じられる。何があっても私の味方でいてくれる」そう思える人がいる安心感は途方もなく大きい。


 鮎川シゲさんのことも美幸さんのことも味方になってくれる人だと思っていたけれど、桂木さんとは安心の種類が違う。その違いはなんだろうと考えていて、気がついた。


 桂木さんと私は一緒に生きていくと決めた。そこが美幸さんやシゲさんとは違う。

 美幸さんはいずれ誰かと結婚するだろうし、結婚しなかったとしても私が何度も甘えて寄りかかることはしたくない。

 私は「それぞれが自分の足で立っていること」が友情の基本だと思っている。

 シゲさんは高齢で病気だった。苦しい時に頼ることなど許されない状況だった。


 誰かに心から頼ることができる。それがこんなに心強いとは。

 つらいときに泣いてもいい、苦しい時に苦しいと言っていい。きっと桂木さんは何も言わずに私を受け入れてくれるだろう。そう思うだけで、つらいことも苦しいことも乗り越えられそうな気がする。

 食べたいお菓子が全く手に入らないのと、戸棚にお菓子が入っていていつでも食べられる状態で食べないのとでは、心が違う。


 鯛埼町の家で朝ごはんを食べているとき、桂木さんが何気ない感じに私に尋ねた。


「紗枝さん、僕は今日東京に行くけど、あなたは?」

「あっ、お車で行くなら私も乗せてもらえますか?」

「わかりました。編集部に?」

「はい」


 車で出発してから私も尋ねた。


「総二郎さんはどちらに?」

「お見舞いです」

「そうですか。帰りはどうしましょうか」

「メッセージを入れますから、待ち合せましょう」


 私は編集部が入っているビルの前で下り、打ち合わせを済ませ、別れてから三時間後にカフェで待っていた。着信履歴が二件。「電話をください」というショートメールが一件。全部水川刑事からだ。カフェを出て、電話をかけた。


「鮎川です」

「忙しいところ悪かったね。お母さんが大阪で捕まったよ」

「大阪……」

「寸借詐欺で捕まってね」

「そうでしたか。お世話になりました。ですが、私はもう……」

「うん。わかってますよ。事情聴取は済んでいるし、あなたの手を煩わせることはないと思います。ただ、犯人逮捕の連絡だけ」

「お世話になりました」


 縁を切ったはずの親に拉致監禁されて頬を叩かれた。

 その親を捕まえてくれてありがとう、というのも少し変な気がして、「お世話になりました」で終わりにした。

 寸借詐欺。よほどお金がなかったのだ。美人で陽気でな母は、道を選び間違えたまま五十過ぎまで生きてきた。真っ当な道に戻れるのだろうか。


「ううん。もうやめよう」


 私は自分の判断で両親と別れたのだ。後ろめたい気持ちも、気の毒に思うことも覚悟の上だ。


「紗枝さん?」

「あ、総二郎さん。お見舞いは終わったんですか?」

「会えなかった。彼女は退院していたんだ。だから手紙を貰ってきただけ」


 桂木さんはなんだか物悲しそうな顔だ。なんと声をかけたらいいのか迷っていたら、白い封筒を渡された。


「私が読んでいいんですか?」

「あなたにこそ読んでほしい」


 手紙は印刷された文字で、思いのたけが綴られていた。


『桂木さんへ

 これまで毎月欠かさずお見舞いに来てくださり、ありがとうございました。

 私は自宅に移ることになりました。

 機械に生かされていることに絶望していた時期もありましたが、縁があって、この状態の私を好きだと言ってくれる人と結婚することになりました。あの会社の元同僚です。

 その人は毎週お見舞いに来てくれていました。同情はいらないと断っても、面会に通って来る人でした。

 私は桂木さんを恨む気持ちはもうないのです。いえ、とっくにその気持ちは消えていました。

 けれど、なんと言えばいいのか、どんな言葉を選べば負け惜しみに聞こえずにちゃんと伝わるのか、わかりませんでした。

 私の存在があなたを不幸にしていることが、とても苦しくつらかった。

 それももうおしまいです。

 彼のおかげで前を向いて生きる勇気が出ました。

 だからもう、桂木さんのお見舞いはいらないのです。お見舞金も不要です。

 長いことお見舞いに来てくださり、お見舞金もたくさんくださってありがとうございました。

 互いの幸せのために、私たちはもう会わないほうがいいと思います。

 どうか桂木さんも幸せになってください。

    小藤綾   』


 なんて声をかければいいのか。

 桂木さんは、何も語らなかったけれど、ずっと彼女のことで苦しんで自分を責めていたはずだ。その桂木さんの前でドアは閉められた。

 けれど、これは単なる拒絶ではないと思う。


「僕がお見舞いに通うことが負担だろうと思ってはいた。でも知らん顔はできなかった。それが自己満足で、彼女を傷つけていたんだろうね」

「でもね、総二郎さん。この場合、どうすれば正解だったかなんて誰にも……総二郎さんにも小藤さんにもわからなかったんじゃないですか?」


 桂木さんは運ばれたコーヒーに手を付けず、窓の外を眺めている。


「時間にしか解決できないことだったのかもしれません。総二郎さんと小藤さんにとって、この件は時間が必要だったのではないでしょうか」

「そうかなあ」

「私が五年前に別れた人とだって、五年が過ぎていたから憎しみも悲しみも無しで終わりにできました。別れた直後だったら、あんなに冷静には対応できませんでした。時間と桂木さんが……私の傷を癒してくれたんです」

「そうだといいのだけど」


 桂木さんの手をそっと握った。


「小藤さんも総二郎さんも苦しんできました。小藤さんは総二郎さんが自分を許すきっかけをくれたのでは? 苦しむ総二郎さんを助けたいと思ったのではないかしら」

「小藤さんが……僕を助けたい?」

「桂木さんが幸せになることを、小藤さんは望んでいるんです。自分のせいで不幸な人がいるのは、自分が誰かに不幸にされる以上につらいものですから」


 総二郎さんは私の手を自分の口元に運んで、そっと唇で触れた。


「ありがとう」


 そう言ってしばらく桂木さんは黙り込んだ。それからゆっくり話し始めた。


「あなたも小藤さんも、とても強い人だよね」

「ええ。私、強い自覚はあります。人は……愛されると強くなれるから。小藤さんは同僚の方に愛されて強くなったのかもしれませんね。第三者の推測ですけれど」

「紗枝さん」

「なんでしょう」

「あの商店街のマンションに泊まらない? おでん屋さんでおでんを食べて、日本酒を飲みたい」

「ええ、お付き合いしますよ」


 その夜、私たちはおでん屋さんでたくさん食べてたくさん飲んだ。

 桂木さんはかなり酔ったが、小藤さんのことはなにも口にしなかった。

 きっと、桂木さんの心には山ほどの後悔が降り積もっていて、その痛みが薄れるまでには長い時間が必要なのだ。もしかすると後悔の痛みはずっと消えないかもしれない。


 桂木さんはかなり酔って、そのままベッドに寝ようとしていた。どうにか桂木さんのズボンとシャツと靴下を脱がせたところで私の力が尽きた。

 桂木さんの隣に潜り込んで顔を見た。弱っている桂木さんは、いつもより若く見えた。

 私は桂木さんの頭を抱え込み、額にキスをしてささやいた。


「大丈夫。あなたの傷が癒えるまで、私はずっと隣にいます。いえ、傷が癒えても癒えなくても、あなたの隣にいます」


 眠っていると思った桂木さんが私の鎖骨あたりで「お願いします」とつぶやいた。


「起きていたんですね? もう」

「ずっと隣にいてください」

「ええ、はい。ずっと」

「紗枝さん」

「なんでしょう?」

「飲みすぎました」

「気持ちが悪いんですか? 洗面器を持ってきますね」

「いや、そこまでは」

「でも念のために!」


 私はベッドから降りて浴室に走り、洗面器を抱えて戻った。


 


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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[一言] ああっ、なんだか終わりが近づいてて悲しい…
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