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55 手を払われた恋 『て』

 宿に帰り、夕食を食べた。

 座卓には港町らしい海の幸がぎっしりと並び、なぜかすき焼きの小鍋仕立ても並んだ。


「この町の山で育てた黒毛和牛です。自然放牧で育てているので、穀物肥育の肉とは風味が違うんですよ」


 料理を運んでくれた仲居さんが笑顔でそう説明してから下がった。


「美味しそう! 私、おなかぺこぺこです」

「夕食を遅くしてもらったからね。おなか空いたね」

「はい。すきっ腹で飲む日本酒は回りました。いただきます」

「はい、召し上がれ」


 モリモリと料理をたいらげる私。すき焼きも美味しくて白米が進む。

 桂木さんは夕飯のおかずを肴にして、ゆったりとビールを飲んでいる。


「紗枝さんは食べっぷりがいい。見ていて気持ちがいいです。あなたの食べる様子を見ていると、僕が食べている料理の味も上がるようです」

「夕食をこんなに食べちゃいけないのはわかっているんですけど。旅行中は別です」

「そうしてください」


 桂木さんは酔ってもあまり顔色が変わらない。目元がほんのり赤くなるぐらいか。今はビールの大瓶を一本空けて、焼酎のロックを飲んでいる。


「紗枝さん」

「はい、なんでしょう」


 私は船盛のお刺身を食べ、イカ刺しのウニ和えの小鉢もやっつけ、すき焼きの小鍋も完食して、今は海老と小さい帆立とカニの身がたっぷり入った茶碗蒸しを食べているところだ。その塗りのスプーンを箸置きに置いて、桂木さんの話を聞こうとした。


 そこでちょうど私のスマホがブーンブーンと鳴った。こんな時間に鳴るのはろくな理由ではない気がしたけれど、編集の百田さんかもしれないと画面を見た。

 画面には加藤正樹の名前。このところ、週に一度くらいずつかかけてきている人だった。前の前の恋人で、その人の親が私の身元調査をした結果、話し合うこともなく私から逃げるように姿を消した人。


「いいよ、出たら?」

「いえ、五年も前に縁の切れた人ですから。着信拒否にしていなくてごめんなさい」


 そう桂木さんとしゃべっている間もスマホは唸り続けている。

 気まずい。

 せっかくの旅行、せっかくのお祭り、せっかくのご馳走なのに。


 ブーンブーンは止まらない。しつこい。この人、こんなにしつこくスマホを鳴らす人だったっけ? と思い返すが、もはや加藤正樹の記憶はモヤモヤした霧の向こう側だ。

 彼は私の親のことを知ったら、大急ぎで私を切り捨てた。その気持ちはわかるから、傷ついたが腹は立てていない。捨てた女になんの用事だろう。


「すみません、電話に出ます」

「できればここで。あなたが困るようなら僕が対応します」

「ありがとうございます」


 画面の受話器のマークをタップした。ついでにスピーカーのマークにも触れた。桂木さんに心配をかけたくないからだ。


「はい」

「紗枝? 正樹です。やっと出てくれた。ありがとう」

「加藤さん、私今、旅行中なんです。なので手短にお願いします。ご用件はなんでしょうか」

「旅行中……。そう、そんなときにごめん。俺、ずっと紗枝に謝りたかったんだ。あのときは申し訳なかった。俺、人として最低だった」


 今? 五年もたってから? 


「加藤さん、あなたは私の素性を知っていきなりいなくなりました。それ以来、五年間、メッセージの一通もなかったのに、なぜ今ごろ謝罪の電話なんでしょうか。それと、あなたと私はもう他人なのですから、私の名前を呼び捨てにするのはやめてください」

「あっ、そうだったね。悪かった。つい癖で。……その、雑誌の連載を読んだ。たまたまだったけど、紗枝さんのことだとすぐにわかった。自分も紗枝さんを傷つけた一人として恥ずかしくて、申し訳なくて、どうしても謝りたかった……んです」

「そうですか」


 私はそれだけを言って口を閉じた。さて、どうしたものか。

「今更どうでもいい」と言って電話を切ったら、怒っていると思われる。そんな感情は欠片も私にはない。

 桂木さんを見た。桂木さんは手の中の焼酎のグラスを見つめて無表情。


「加藤さんは私に謝って心の重荷を下ろして楽になりたいということですか?」

「楽に? いや、そうじゃなくて……」

「私の心の傷を治すためですか?」

「怒られて当然だよね。俺、本当に最低で……」


 会話が噛み合わず、私はスマホを離して画面を眺める。日本語同士、恋人期間一年半。なのに全く会話が嚙み合わないのがシュールなコントみたいだと思った。


「私、今、すごく幸せなんです。私の生まれ育ちを全て知って、それでも私を大切にしてくれる人と出会えました。そのうち連載にも載りますから、よかったらそれを読んでみてください。興味があったらの話ですけど」

「あ、うん」

「加藤さん、あなたが今どれだけ言葉を尽くして謝ったとしても、あなたがしたことは無かったことにはならないし、私が傷ついた事実は消えません。でもね、私もあなたに家族のことを隠していたから、お互い様です。私も家族のことを隠していてごめんなさい」

「違うんだ、紗枝さんを責めているんじゃなくて」


 そういうことじゃなく、許しを得たいわけでもないなら、なんだろう。

 桂木さんとの貴重な旅の時間が減ってしまう。


「私はあなたを怒ったことは一度もないの。私はそういう人生だったから、慣れていました。あの時も、今も、全然怒っていないの。傷はついたけど、その傷の原因は私にありました。だから本当に、ずっと、怒りはないの」

「紗枝さん……」

「加藤さん、あなたが謝る必要はないし、こんなやりとりも必要ないんです。私は怒っていないので、ご心配なく。そういうことです」

「紗枝さん!」

「楽しい一年半をありがとうございました。優しくしてくれた加藤さんに感謝しています。これは社交辞令じゃありません。本心です。どうぞお元気で。加藤さんのお幸せをお祈りしています。失礼いたします」

「紗枝さん、一度会いたいんだ。会って話を……」


 そっと電話を切った。そして加藤正樹を着信拒否にした。


「お騒がせしました。冷たかったですかね。でも、ここでグダグダしたところで……あの、総二郎さん?」


 桂木さんは見慣れた微笑を浮かべていた。感情が読みにくい、穏やかな微笑みだ。


「あなたは大人だね。僕が思っていたより、ずっと大人だった。きっと、いろんな経験があなたを大人にしたんだろうと……そう思っているところです」


 桂木さんは焼酎のグラスを見たままそう言う。


「そんな立派なものじゃ」

「立派でしたよ」

「総二郎さん、いま、次のかるたを思いつきました。聞いてもらえますか?」

「喜んで」

「『手を払われた恋に別れを告げる』今、そんな心境です」


 桂木さんがグラスをテーブルに置いて立ち上がり、私の席の隣に座った。


「僕が見つけた子猫は、実は子猫じゃなくて大人の猫だった」

「ええ?」


 笑っている私の肩に、桂木さんがそっと腕を回した。


「僕に別れを告げるのは、僕があの世に行くときだけにしてください」

「そんな縁起でもないことを。人生百年の時代ですよ?」

「うん。それでも」

「わかりました。そうします。お出かけのお見送りは別ですからね?」


 茶化したけど、桂木さんは笑わなかった。


「今のやり取りを聞いていて、僕もひとつ決めたことがあります。それはあとで報告します」

「はい」


 冷えてしまった茶碗蒸しを完食して、私も焼酎のロックを飲むことにした。

 私たちはそのまま二人で並んで座っている。

 腕や手や肩、どこかを触れ合わせながら、昼間見たお祭りの話を肴に焼酎を飲んだ。


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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