54 縁あって 『え』
まだ明るい午後四時。お祭りが始まった。
先頭は馬の尻尾の毛で作られたと思われる毛槍を持った若者の集団。その後ろからお神輿が階段を下りてきた。
真っ白なさらしを腹に巻き、青い法被を着た若者六人が、「そいぃ、そいっ!」の掛け声と共に毛槍をすくい上げるように動かしながら、大股に進む。
「総二郎さん、このあとです」
「見どころが?」
「はい」
私と桂木さんは手を繋いで道の端に立っている。観光客は少ない。
地元の人たちがワクワクしたお顔で大名行列を待っている。
シン、と静まり返った神社の参道に、拍子木が打ち鳴らされた。四人の男性が寸分のずれもなく同時に打ち鳴らした。四つの拍子木の音はひとつとなって、周囲の空間を切り裂くように鋭く響いた。
朗々と、厳かに木遣の声が辺りに広がる。
木遣がひと節進むと、男たちが全員で「そいぃ、そい!」と合の手を入れる。
神輿はゆっくり動き出した。
千鳥足の酔漢のように、ゆらりゆらりと左右に蛇行しながら運ばれる神輿。
担ぎ手はさらしを腹に巻き、膝までの長く白い法被を着ている。腰のあたりを縛っているのは帯ではなく荒縄だ。白い股引き、紺色の脚絆、白足袋は全員がお揃い。
ゆっくり、ゆっくり、神輿は進んでいく。木遣の声が神輿と一緒に私たちから離れて行く。
「総二郎さん、私たちもついて行きましょう」
「ええ」
私たちは地元の皆さんと一緒にお神輿の後をついて歩いた。
木遣の歌がなんと言っているのかは聞き取れない。でも、豊穣や豊漁や安全を願って歌っていることが胸に直接伝わってくる。
私は日本人なんだなあと思った。聞き慣れていない木遣に、こんなにも胸打たれる。
お神輿が進む道の両側には祭提灯がずらりとぶら下げられていて、四辻には杭が打ち込まれて細い竹が荒縄でくくりつけられている。
「紗枝さん、こんな静かで厳かなお祭りだったんだね」
「はい。テレビで見たとき、動けなくなってしまって。どうしてもこの目で見たいって、ずっと思っていました」
「ありがとう」
「ん? なにがです?」
「こんなにいい景色を見せてくれて。それと、あなたの旅に同行させてくれて」
そんなふうに感謝されると思わなかったから、ちょっときまりが悪い。私はふざけて返事をした。
「割り勘ですから。私に感謝しなくてもいいんですよ」
「ふふふ」
桂木さんは子供を見るような目で私を見おろし、笑った。
お神輿はゆっくりゆっくり進む。東京ナンバーの大きな四駆が狭い道の左側に停められていて、後ろから見ているとハラハラする。
「あっ」
左にゆらりと進んだお神輿が、黒い四駆にゴン! とぶつかった。
道の両側で、それまでトランス状態のように恍惚とした表情だった見物人がハッとした顔をした。
担ぎ手と毛槍の若者たちも、その鈍い音を聞いて動きを止め、我に返ったような顔でぶつかった車を見る。
するとお神輿に付き添って歩いていた青い法被の中年男性が、スッと神輿の前に出て声を張った。
「気にしなくていい。本日路駐禁止の貼り紙を山ほどしてあるんだ。保険も入ってる。このまま進め」
また木遣の声が流れ、お神輿はゆらゆらと進み始めた。
私はその人の言葉も、表情も、雰囲気もかっこよくて惚れ惚れした。驚かず焦らず、祭りを滞りなく進行させる影の黒幕みたいだ。
「紗枝さん?」
「はい?」
「そんなにうっとりした顔で他の男を見られると、ちょっとイラッとするんですが」
思わず目を大きく開いて桂木さんを見上げると、笑いを湛えた眼差しが私をひたと見つめていた。
「私、うっとりしていましたか?」
「ええ。誰が見てもわかるぐらいうっとりしていましたよ」
「今の仕切りが大人っていうか、かっこいいというか。そう思いましたけど、そうですか、顔に出ていましたか」
「紗枝さんは……」
「私は? なんです?」
そう尋ねても、桂木さんは答えずに笑ったままだ。
お神輿は時間をかけて小さな港町のメインストリートを進み、最後は海岸に出た。
「この先、どうするのかな?」
「私にもわかりません。ニュースで見たと思うんですけど、そこは覚えていなくて」
「じゃ、二人でちゃんと見届けなくては」
「はい。見届けて、心のアルバムにきちんとしまっておかなくては」
朗々と続けられていた木遣が止まり、「せやっ! せやっ!」の掛け声と一緒に急にお神輿が荒々しく上下にゆすられ、担ぎ手の男たちは海に入って行った。
腿まで海に入り、神輿を担ぎ、祭りの集団は神社に戻るべく別の通りを進んで行った。
「見応えがありましたね。素晴らしかった」
「はい。来てよかったです。手配をしてくださってありがとうございます」
「僕もこんなに胸を打たれるお祭りを見られて、紗枝さんに感謝しています」
「よかった、期待外れだと思われたら申し訳ないと思っていたんです」
少し無言で歩いていた桂木さんが小さな声でなにか言った。
「え? なんて? 聞こえませんでした」
「あなたと同じことに感動できてよかった」
どういうことかしらと思ったけれど、脇から声をかけられて私たちの会話はそこで途切れた。
林靴店という古い看板がかけられている店が開放されていた。
縁台が置かれ、酒樽が置いてある。割烹着を着た五十代の女性が柄杓でお酒をすくって、キリンビールのロゴが印刷されているガラスのコップに三分の一ほど注いで差し出していた。
「奥さん、旦那さん、どうぞ一杯飲んでいってください」
「ありがとうございます。いただきます」
桂木さんが愛想よく応じて、私たちはコップを受け取った。見ていると地元の方々も次々とコップを受け取り、ひと口で飲み干してコップを返している。
私たちもコクコクと飲んでコップを返した。香りのよいお酒だ。
同じく割烹着を着た高校生ぐらいのお嬢さんがコップを受け取って竹で編んだザルに集め、奥へ運んでいく。今夜はそうやってずっとコップを洗って拭いて祭りのお手伝いをしているのだろう。
出発した時はまだまだ明るかったのに、今はもうすっかり夜だ。長い時間をかけて祭りは無事に執り行われたのだ。
道の向こうから、若者が二人やってくる。
一人は毛槍の青い法被。一人は担ぎ手の白い法被。二人がしゃべりながら私たちとすれ違う。
「帰ってきたの、久しぶりだろ?」
「祭りだからね。俺、長男だから担がないとだし」
「だよな」
祭提灯が赤く照らす通りを、私たちはゆっくり宿に向かって歩く。三口ほどの日本酒で、浅く酔いながら無言で歩いた。
前方にもう一か所、振舞酒をしている店があった。そこだけは煌々と明るい。私たちはそこでも「奥さん、はいどうぞ」「旦那さん、はいどうぞ」と声をかけられながらコップを差し出され、飲んだ。
いい気分で歩いて、あの角を曲がったら宿だな、と思ったところで桂木さんが足を止めた。
「こんな楽しい時間を過ごせて、紗枝さんには感謝しているんです」
「はい、私も感謝しています」
「縁あってあなたと暮らせて、よかった」
「本当に」
「火事のとき、あなたをあの古い家から引っ張り出したときには、まさかこんなにあなたと僕の人生が交わるとは思っていませんでした」
言われた言葉を三回頭の中で確認して、私は桂木さんの腕に手をかけた。
「あれ、総二郎さんだったんですか? 『パソコンなんていい! 早くしないと焼け死ぬぞ!』って言った、あの男の人が、総二郎さん?」
「そうですよ。あれ? 今まで気づいていなかったんですか?」
「言葉遣いが違うから、別の人だとばかり。探しようもなくて、何度も胸の中で手を合わせて感謝していたのに!」
「そうだったんだね」
私は総二郎さんの胸におでこをくっつけた。
「私を助けてくださって、ありがとうございました」
「どういたしまして。あの夜、僕はあなたを助けたけれど、その何倍もあなたに助けられましたから」