53 旅行 『こ』
紗枝さんが珍しく「行きたいお祭りがある」と言ってくれた。
彼女が何かを要求することは珍しいから、僕は彼女の気が変わらないうちに急いで宿と新幹線を手配した。
僕と紗枝さんは新幹線で並んで座り、違う弁当を買って分け合いながら食べている。
病的に潔癖な母を見て育ったからだろうが、長年他人と食べ物を分け合うことができなかった。なのに紗枝さんだと何の抵抗もない。
(心はたやすく影響され、縛り付けられるけれど、軽々とそこから解放してくれる存在もいるんだな)
そう思っていることを言葉にはしない。自分の器の小ささを紗枝さんに印象づけたくはない。我ながら狭量な男だなと思う。
「美味しい美味しい」と繰り返しながら、幸せそうに笑う紗枝さんが隣にいる嬉しさ。ずっと手に入らなかった宝物をやっと手に入れた幸せ。それらを感じながら食べる駅弁は、ことのほか旨い。
「どうしようもないな」
「ん? なにがですか?」
「あなたのことが大切過ぎて、どんどん自分が小さい人間になってしまう」
紗枝さんが慌てて周囲の乗客の様子を窺った。きっと、『そんな恥ずかしいことを堂々と言葉にしないでほしい』と思っているのだろう。そういうところもまた可愛い。
お弁当を食べ、お茶を飲んでひと息ついたらもう降りる駅だ。
「紗枝さん、次の駅で下りて、在来線に乗り換えますよ」
「はい」
紗枝さんが荷物をまとめている間に僕が空の弁当箱を紙袋にまとめ、ペットボトルもそこに入れた。視線を感じて顔を上げると、惚れ惚れしている様子の紗枝さんの顔。
「なんですか?」
「総二郎さんて、欠点がないですよね。何もかも完璧で」
「紗枝さん、ゴミをまとめたぐらいで大袈裟です」
「いいえ。予約をササッとこなしてくださったのもそうですけど……総二郎さんを見ていると、小さきことにこそ人柄が表れると思うんです」
「なにそれ。『神は細部に宿る』みたいなセリフだね」
「うん?」
冗談を言ったら紗枝さんが首を傾げる。この人は知ったかぶりを決してしない。謙虚な人だ。
「芸術とかデザインの人たちがよく使うフレーズですよ。ゴッド イズ イン ザ ディテールズって」
紗枝さんの清潔で柔らかな顔に、一瞬だけ影のある表情が浮かんだ。
「どうかした?」
「それによく似た言葉を父の仲間が繰り返して使っていたのを思い出しました。でも、神じゃなかったような。なんだったかしら」
「もしかして……悪魔は細部に潜む、ですか?」
「それ! それです! 英語ではなんて言うんですか?」
「僕が知っているのは、ザ デビル イズ イン ザ ディテールズかな」
「それです。それだわ。いつも英語で言ったあと、日本語で繰り返していました。『悪魔は細部に潜むんだぞ』って父や他の仲間に教え込むような口調で……。十八年も前のことなのに、私、覚えていたんだわ」
そこで新幹線が駅に到着して、僕たちは在来線に乗り換えた。
在来線の電車は昔懐かしい四人がけの座席で、僕たちは向かい合って腰を下ろした。紗枝さんの楽し気な雰囲気は消えて、何かを考え込んでいる様子。両親の詐欺仲間を思い出しているのだろうか。
紗枝さんを喜ばせるための旅行なのに、余計なことを言ってしまった。
予約した宿は海のすぐ近くで、台風のときはさぞかし大自然の威力を見せつけられそうな場所に建っていた。宿の隣には石段。石段を上り切った位置に神社があった。
部屋は海に面した見晴らしのいい部屋で、和室にベッドが置かれている。ガクアジサイが生けられた花器が飾られ、アヤメが描かれた屏風も置かれていて日本情緒を強く打ち出していた。
「総二郎さん、清潔で気持ちのいいお部屋ですね。それにおしゃれ」
「気に入ってくれた? お茶を淹れるから飲もうか」
「ありがとうございます。いただきます」
用意されていたお茶請けは、塩漬けの赤シソで巻いた白あん入りの求肥だ。紗枝さんがひと口サイズのお菓子を大切そうに食べて笑顔になった。よかった。さっきの話題で思い出したことは忘れてくれるといいのだが。
「このお菓子、美味しい……宿で売っているでしょうか」
「売っていますよ。帰りに忘れずに買って帰ろうね」
「嬉しいです。総二郎さん、何から何までありがとうございます」
こんな些細な事にもいちいち礼を言う紗枝さんは以前、「旅行は贅沢だからあまり行けなかった」と言っていた。紗枝さんが喜ぶならこまめに旅行に連れ出したいのだが。
この人が毎回旅費を気にすることが少々厄介だ。
「紗枝さん? 今回はあなたが気にするから割り勘にしたけれど、できれば次からは僕に払わせてくれないかなあ。あなたを喜ばせるためだと思えば、仕事で稼ぐのにも張りが出るんだ。わかってほしいなあ」
「ええ……。そうですね……」
「結婚を申し込んだこととは切り離して考えてほしい。それとこれとは別だから。ね?」
「ええ……」
歯切れの悪い返事を聞いて、これ以上はやめておいた方が賢明だなと思った。
紗枝さんの価値観は僕とは違う。互いに生きてきた過去が違うのだから、僕の価値観を押し付けるのは避けたい。価値観の押し付けは、ある種の暴力だ。だから話題を変えた。
「隣に石段があったでしょう? あの階段の上にある神社からお祭りが始まるんですよ」
「あそこから始まるとは?」
「宿の人の話では、あの神社から神輿が出発するらしい。大名行列が神輿とともに町内を練り歩くらしいね」
「そうなんですか! うわあ、楽しみです。明日になったら、あの景色をこの目で見られるんですね」
「そうだね」
「本当にありがとうございます! 自分で手配したら、予約の段階でこの宿にたどり着いたかどうか。総二郎さんはやることに卒がないですねえ」
心の中で(あなたを笑顔にするためならいくらでも頑張るよ)と張り切る自分がいて、思わず笑ってしまう。紗枝さんは僕が何をしても喜ぶし感謝する。不機嫌さで相手を支配しようとする女性たちを知っている身としては、まるで天女のようだと思う。
どんな相手と出会って結ばれるかで、人生は大きく変わるのだろう。紗枝さんと出会ってから繰り返しそう思う。僕の人生は相性の悪い人との出会いが続いた。彼女たちとの生活に疲れ果て、女性と関わることになんの希望も持たなかった白黒の人生は、紗枝さんと出会ってから急に鮮やかに彩られた。
明日の大名行列が楽しみだ。
紗枝さんはきっと、えくぼを作りながら祭りを楽しみ、かるたを作るだろう。
紗枝さんはかるたを作るたびにそっと僕にメモを渡してくれる。いつも控え目な笑顔と共に。確か次は『こ』だった。僕も紗枝さんのようにかるたを作ってみたくなった。
『こ』……恋しい天女と旅に出る。
やはり紗枝さんのセンスには適わない。
海の幸の夕食を済ませ、湯上りに浴衣を着ている紗枝さんと二人、夜の海岸沿いの道を散歩する。手をつないで歩きながら(生きていてよかった。死なずにいてよかった)と唐突に思う。
なるべく思い出さないようにしているが、紗枝さんと出会う前、僕は一人で生きることと一人で生きることになった自分の人生に、心底倦んでいた。
手をつないで歩いていた紗枝さんが、華奢な手でギュッと僕の手に力を入れてきた。何かと思ったら、目をキラキラさせて実に楽しそうな顔で僕を見上げている。
「総二郎さん、明日のお祭りが楽しみすぎて、今からニヤニヤしてしまいます」
「僕もですよ」
紗枝さんは僕を人生の絶望から救ってくれた天女なのだが、天女は心配性だから僕がかつてそんな気持ちでいたことを伝える気はない。
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