52 「普通」に囚われる 『ふ』
私が行きたいのは、東北の港町のお祭りだ。
十年以上前にテレビで見て以来、ずっと(この目で見てみたい)と思っていた。数十人の男たちが、白い法被を着て木遣りを歌いながら神輿を担いで歩いていた。グッと心臓をつかまれるような、初めて見たのに強い郷愁を感じるようなお祭りだった。
「紗枝さんがずっと見に行きたかったお祭りなら、ぜひ行きましょう」
桂木さんは嬉しそうだ。すぐにお祭りの日時を調べたらしく「新幹線と宿を予約しましたよ」と夕食時に教えてくれた。
「相変わらず手際がよくて惚れ惚れします。総二郎さんはその種の手続きを面倒がらないですよね」
「この程度の手続きを面倒がるようでは、メディアストーンの仕事はできませんよ」
「それはそうですけど」
それでも桂木さんのまめなところを見ると、(この世にはこんなにまめでサービス精神の旺盛な男の人がいるんだ)と毎回感動する。
お祭りは六月の最終土曜日だった。私たちはその日に向けてスケジュールを立てて動いた。
私は連載分の原稿を全て書き終え、担当編集の百田さんに送った。桂木さんは東京へ往復して仕事を片付けている様子だ。
百田さんからは「原稿を読んでいて胸が詰まりました」という短い返信が届いた。私が会社を転々とせざるを得なかった部分のことだろう。
もうすぐ二回目の連載が雑誌に掲載される。
初回は好意的な感想が送られてきたが、二回目はどうか。三回目はどうか。
そんな心配をしている私を思いやってくれたのだろう、百田さんは電話をくれて、こう言ってくれた。
「うちはみんなで鮎川さんを応援しています。そして鮎川さんのプライバシーは全力で守ります。安心してください」
「百田さん、ありがとうございます。百田さんたちが私に味方してくれると思うだけで、心強いです。書いてよかったと思っています。私に書く機会を与えてくださって、ありがとうございました」
電話を切ってから、スマホに向かって頭を下げた。
私が人を信用しない間、私を信じてくれる人がほとんどいなかった。私が周囲の人を信用したら、桂木さんも百田さんも編集長も寄り添ってくれた。六花さんも、深山奏も。
私の心の在りようが変わったら急に繋がりができた。
子供の頃から二十代前半まで、私は自分の周囲に壁を作らずにはいられなかったけれど、当時はそれでいっぱいいっぱいだった。今振り返っても、ああするしか仕方なかったと思う。でも、今は違う。違う世界を私に見せてくれたのは桂木さんだ。
そのことは一生忘れまい、と思う。一生忘れずに感謝できる私でいたい。
二階の部屋から階下に向かって、掃除を始めた。掃除をしながら、このところずっとモヤモヤしていることを考えている。
(私は家事労働でお給料を貰っていいのだろうか?)と。
結婚を申し込まれてもはっきり返事をしないのに、旅行に行くときはまるで妻のように桂木さんに全額負担してもらう。それでいて家事をすれば使用人としてお給料を受け取る。
第三者から見たら『いいとこ取りするずるい女』だ。
……いや、他人がどう見るかはこの際考えるのはやめよう。もう、世間がどう思うかを基準に生きるのはやめると決めたじゃないか。
問題は世間じゃない。私が気になる。いいとこ取りしている今の状況は良くない。
そうだ。私がはっきりしないのが悪い。
桂木さんのプロポーズを受けるのか、受けないのか。まずはそこだ。
私はこの先も桂木さんとずっと一緒に生きていきたい。幸か不幸か、私たちは親兄弟、親戚の付き合いもない。私の決心次第だ、
桂木さんは子を望むのだろうか。桂木さんに正面から聞きにくい。桂木さんが自分の年齢のことを引け目に思っているのに、子供の話をしたらもっと気にするんじゃないだろうか。
「どう切り出したらいいのかな」
グルグルと頭の中で迷いながら掃除をしていたら、桂木さんが部屋から出てきた。
「紗枝さん、夕飯は外食にしませんか。そろそろ岩牡蠣の季節です」
「外食ですね。わかりました。牡蠣は冬の食べ物かと思っていました」
「岩牡蠣の旬は夏なんです。このあたりは岩牡蠣の産地ですからね。せっかく産地にいるんだから、食べないともったいない。では今夜は外食で。加藤食堂ですよ」
「鯵フライが美味しい加藤食堂ですね!」
漁港の真ん前の加藤食堂は、美味しい物しかない素敵なお店だ。私の脳にそう刻まれていて、お店の名前を聞いただけでおなかが鳴る有様だ。グルグル回って答えを選べない問題は、いったん置こう。美味しいものを食べるときは、味わうことに専念したい。
加藤食堂は賑わっていたが、ちゃんと二人分の席が予約されていた。しかも私が好きなカウンター席。私は混雑しているときに四人掛けの席を二人で使うのは気が引けて落ち着かない。それを桂木さんに話したことはないのだが。
「電話で予約したときに聞いたら、混んでいると思いますって言われたからカウンター席にしたんです。ここでよかった?」
「はい。これで気を遣わずに落ち着いて料理に専念できます」
「だと思った」
「う……」
読まれてた。桂木さんは私の心を読むことに関しては多分世界一だ。
桂木さんに注文を任せて、私は冷えた日本酒だけを注文した。すぐにガラスの徳利に入った日本酒が運ばれ、「お通しです」と女将さん手作りの糠漬けとナスの煮びたしが運ばれた。
「はい、岩ガキですぅ」
女将さんが運んできた牡蠣は私が見慣れている三陸産牡蠣の三倍か四倍の大きさだった。砕いた氷の上、大きな殻にのせられている。包丁が入っているけど形が崩れていない。みっちりしている。
「うわぁ、大きい……」
「味もいいんだ。さあ、いただこう」
夏が旬だという岩牡蠣は濃厚でミルキーだった。ポン酢で食べると思わず「うーん」と唸ってしまうほどの美味しさ。岩牡蠣のほかにはマアジの塩焼きとアナゴの天ぷら、ワカメとシラスの三杯酢も。いくらでも日本酒が進む。ああ、極楽だ。
「誘っていただいてから調べたら、ここは岩牡蠣の有名な産地なんですね。美味しいです」
「でしょう? 僕ね、牡蠣は産地で食べるのが一番美味しいと思ってる」
「普通の何倍も大きいのに、大味ってこともなくて、むしろ味が濃厚です」
「冬の牡蠣を普通とした場合の話ね?」
「え? あ、そうですね」
「何が普通か、人によって違うからね。このあたりの人は、夏にこの岩牡蠣を食べるのが普通だよ」
思わず桂木さんの横顔を見てしまった。
さっきまでの『心グルグル問題』を読まれたかと思った。育った環境が普通じゃないから、私は『普通』とか『常識』って言葉に弱い。コンプレックスになっているのはわかっている。
「総二郎さん、何が普通かは、人によりますね」
「そうだね」
「お返事をお待たせしてごめんなさい」
「僕は待つよ。気が済むまでのんびり考えてね」
店内で結婚という言葉を使う勇気がなくて曖昧な言い方をしたけれど、桂木さんはすぐわかってくれた。
(普通に憧れ囚われる)
「私、囚われることが多すぎですね」
「それも紗枝さんの一部だよ。僕だって囚われることは多い。囚われてもいいじゃない? ただね、紗枝さん。この世に『平均値』や『中央値』や『最頻値』はあっても『普通』は存在しない。普通は他と比べた瞬間に、比べた人の心に生まれるものだよ。それは忘れないでね」