51 形勢を読み間違えて 『け』
桂木さんと指輪の話をしてから、何日かたった。
今日は二十五日で家事仕事のお給料と桂木さんの会社のメディアストーンのお給料が出る日だ。
夜、寝る前にパソコンで銀行口座の残高を確認して、残高の数字がおかしいから慌てている。
何度も間違いではないことを確認してから、階段を駆け下りた。
「総二郎さん!」
「階段を駆け下りるのは危ないよ」
「なんか、なんか、口座の残高が変です! なんですかあれ!」
「ああ、指輪を売ったから。振り込んでおきました。信用できる業者さんだから、あの値段は妥当だと思うけど」
いやいや、違う。違いますよ。
「額に不満があるんじゃありません。なんで指輪のお金が私の口座に入っているんですか。二人でパーッと使うってことになったじゃないですか」
「だってあの指輪は都さんが謝罪の意味であなたにくれたものだもの。あなたの口座に振り込むのが道理でしょうに」
ああ、これは確信犯だ。
指輪のお金は私に振り込んでおきながら、きっと二人でパーッと使うお金は自分持ちのつもりだ。
うわモヤモヤする。いたたまれない。今の私の感情をどう伝えたらいいのか。
誤解されずに桂木さんに伝えるにはどう言葉を選んだらいいのか。
「紗枝さん?」
「総二郎さん、あのですね、頑なで可愛げないとお思いでしょうけど、今回は気楽だなって思っていたのに。もう、もう……」
桂木さんが素早く私に近寄って、肩を抱いた。
「紗枝さん、気分を悪くしたのなら、ごめんね?」
「気分を悪くしたわけじゃなくて、ええと……」
ここで感情的な言葉を使いたくなくて、口を閉じた。口から出た言葉はどんなにフォローしても取り返しがつかない。散々そういう経験をしてきた。言われる側でね。
言葉は一度口から出したら「そういうつもりじゃなかった」と百万回弁明しても相手の記憶に残る。
「紗枝さん?」
「ちょっと待ってください。言葉を選びますから」
「はい」
私はソファーに座り、深呼吸した。桂木さんは左隣に座って私の左手を握って、右手で私の背中をさすってくれている。落ち着いてほしいのだろう。
「あのですね。今の私の心境を例えて言うとですね」
「はい」
「子供が母親を喜ばせたくて、初めてカレーを作ろうとしていたら、お母さんが悪気なく手慣れた感じに手伝って、九割ぐらいカレーを作っちゃった、みたいな気持ちです。伝わりますかね。怒ってるんじゃなくて、『なんで?』って感じです」
しばしの沈黙。
「伝わってませんよね。ええと、もう少し待ってください」
「いくらでも待ちますよ」
ここはきっとだいじなところだ。
「私と総二郎さんの間には差がありすぎて、並び立つことができないのはわかっています。それでも私は王子様に守ってもらってドレスを買ってもらってお城に住まわせてもらって幸せと思うヒロインじゃないんです」
「そうだね」
「今回、私と母のことで都さんが慰謝料代わりに指輪をくれました。でも、助けてくれたのは総二郎さんで、あの指輪のことは『私の母のことで騒ぎになりましたけど、二人でこれを使っちゃいましょう』という結論になってホッとしたんです」
「……」
桂木さんは今度は無言だ。不愉快にさせたのだろうか。私は生意気だろうか。でもここで本音を言わずにはいられない。
「なのになんで全額私の口座にお金を振り込んだんですか? あの程度の額のお金は総二郎さんにとっては、あってもなくても同じだからですか? 二人でパーッと楽しむお金は総二郎さん持ちのつもりですか?」
「ごめん」
違う。私は怒っているんじゃないし謝ってほしいんじゃない。わかってほしいのだ。
何度も伝えてきて、わかってもらったのかと思っていたことが、まだ伝わっていないことがショックなのだ。でも、わかってもらおうとすることが無理なのかな。
ガッと興奮したけど、次第に感情が落ち着いてきた。
「いえ、いいんです。興奮しちゃってごめんなさい。ご配慮いただいたのに、生意気言いました」
「そんな言い方……。ドアを閉めないでよ。今、ドアを閉じたよね?」
閉じたかも。諦めたかも。年齢差があるからお金を全部負担されたくないって気持ちをわかってもらうのは無理なのかもってところに、気持ちを着地させたかも。
顔を左に向けたら、険しい顔の桂木さんがいた。私に対してこんな表情をしている桂木さんは初めて見た。
「すみません。私、ちっぽけなプライドを振り回しましたね」
「だから、そんな卑屈な言い方をしないでよ。僕は僕の引け目をお金で埋めているだけだよ。でも、それが紗枝さんのプライドを傷つけたんだね。申し訳なかった。ちょっとワイン飲んでいいかな。お酒の勢いでも借りないと言いにくいことだから」
「どうぞ」
桂木さんはワイン用の保管箱からワインを一本抜き取って、いつになく雑に栓を抜いた。そして香りを楽しむこともせずに棚のグラスに注いで一気に飲んだ。
「あのね、ニ十歳年上の男はオドオドしているんです。あなたはお金に執着しない人で、なのに僕が差し出せるものはお金か、お金を使った手段ぐらいだからね」
「そんなこと」
「そんなことあるんです。年の離れた若い女性と暮らして鼻高々な男もいるかもしれないけれど、僕は違う。老人に向かって転がり落ちていくだけの僕と、これから女性として充実して輝く時期を迎える紗枝さんと。どっちが強いと思っているの」
「強い弱いの話じゃ……」
「強い弱いの話です。僕はあなたがある日突然僕に愛想を尽かして出て行くかもしれないと、何度も考えましたよ。いっそあなたがブランド物のバッグが好きでSNSで自慢写真をアップしまくるタイプだったら扱いやすいのに、なんて思ったことさえある」
桂木さんはもう一度グラスにワインを注いで、今度は少しゆっくり飲んだ。
「僕は結構苦しんでいるんですよ?」
私のことで桂木さんが苦しむのは、どうしてもピンとこない。桂木さんの顔を見たら、苦笑していた。
「苦しんでいるんです。あまりにみっともなくて聞き苦しい悩みだから言いませんでしたけど」
「ほんとですか?」
「今嘘ついたらあなた僕に愛想尽かすでしょう。さっきあなたがドアを閉じかけたのを感じてゾッとしましたよ」
桂木さんがそんなふうに思っていると聞いて心の中で吹き荒れていた「なんでよ」という感情は次第におさまってきた。
「総二郎さん、今、かるたを思いつきました」
「どうぞ。お願いします」
「『け』……形勢を読み違えて初喧嘩。今も総二郎さんのほうが弱い立場っていう理屈はのみ込めませんけど」
「紗枝さんもワイン飲みますか?」
「いただきます」
桂木さんがグラスではなくてちゃんとしたワイングラスを選んで注いで渡してくれた。
「僕ね、あなたと戸籍上も夫婦になりたいのは、三十三パーセントぐらいは捨てられるかもっていう不安からです」
「三十三……。また微妙な。残りの六十七パーセントの内訳を聞いてもいいですか?」
「戸籍上も夫婦になりたいのは、見限られるんじゃないかという不安が三十三パーセント、庇護欲の顔をした愛情が三十三パーセント、愛情の顔をした独占欲が三十三パーセント。残り一パーセントは……怒り、かな。四の五の言わずに僕の妻になってよっていう」
怒りってなに。
私が声には出さずに「はあ?」という気持ちで桂木さんを見たら、桂木さんは美しい顔で微笑んでいた。
「年齢差って、努力ではどうにもならないじゃない。僕ね、努力するのが好きなんですよ。なのに、努力しても無駄なところで苦しんでる自分のこの現状に怒りを覚えるんです。僕は神様なんて信じていないけれど、『ふざけるな、自分の人生はなかなかに面倒じゃないか、いい加減にしてくれよ』っていう、やり場のない怒りです。あなたはなかなか思い通りにならない。ほんと、あなたがもっとお金に目がくらむ女性だったら僕の人生の後半戦も簡単だったのに」
そうか。
桂木さんは桂木さんで親のことや女性に執着されることに苦しんできたんだものね。一切そういう愚痴を言わない人だから、うっかり忘れそうになるけど、そういう過去が桂木さんの意識から消えるわけがないよね。
私が『自分は詐欺師夫婦の娘』って意識が消えたことがなかったようにね。
「わかりました。もう怒りませんし、ドアも閉じません。その代わり、二人でパーッと楽しむお金は割り勘にしましょう」
「好きだなあ、割り勘」
「それで手打ちです」
「うん、わかった。じゃあ、そうしましょう」
それから私たちは「太りそう」と言いながらラクレットをトースターで焼いた。
うっすら焦げ目がついてトロトロになったところをクラッカーに載せて食べながら飲んだ。
母の行方は今も不明だし、父の裁判もいつ始まるかわからないし、取材に来た週刊誌は私のことをどう書くつもりかわからない。不安を数え上げたらいくらでも出てくるけれど、桂木さんと二人ですごす時間を大切にしよう。
不安に私たちの時間の足を引っ張らせたくない。
「総二郎さん、私、総二郎さんと二人で見に行きたいお祭りがあるんです」
「行きましょう」
「どこのお祭りか聞かないんですか?」
「紗枝さんと一緒に行ける場所なら、どこへでも行きますよ」
そう言って総二郎さんは私の頬に軽く口づけた。
「総二郎さん、酔いましたか?」
「うん。ちょっとね。不安を抱えて飲む酒は、変な酔い方をする」
桂木さんはグラスを眺めたまま、額にハラリと落ちた前髪をかき上げた。