50 テレビ電話 『ま』
美幸さんは朝から営業しているお店で『鯛岬定食』を食べて感動している。
今朝の定食はアサリのお味噌汁、カツオとヤリイカのお刺身とサヨリの天ぷらとぬか漬け、沢庵だった。
「朝からこんな美味しいものが食べられるなんて、いい町ね」
「でしょう? この町のお店に入って外れだったこと、まだないの」
「いつか私もこんな町に住みたい」
「美幸さんとご近所になれたらいいのに。贅沢な夢みたい」
「彩恵子ちゃんを見ていたら、私も結婚したくなったわ」
「いい人に出会えますように。本気で祈ってます。いい人職場にいないの?」
「いないねえ。私もアプリで出会いを求めてみるかな」
「アプリは怖くないかな」
「そうだねえ、でもそれ言ったら一生出会いはなさそうよ」
美幸さんはそう言って笑い、電車に乗って帰っていった。
桂木さんの車に乗って帰る途中で、担当編集者の百田さんからメッセージが届いた。
『フルブルームが売り上げ絶好調です』
「紗枝さん? なにかあった?」
「私のエッセイが載っている雑誌、よく売れているそうです」
「あなたの文章が話題なのかな?」
「事件が報道されちゃったから、良くも悪くも話題なんでしょうね」
桂木さんは少し厳しい顔になって運転している。
なんとなく嫌な予感がした。私の人生でいい予感が当たったことは一度だけ。悪い予感のほうはやたらに当たってきた。
(どうか悪いことが起きませんように)と思いながら家に帰った。
家中の掃除をしているとチャイムが鳴り、モニターを確認したら三十代半ばくらいの知らない女性と男性で、男性はカメラを持っていた。
「総二郎さん、知らない人で、カメラを持っている男性と二人です。対応していいでしょうか」
「いや、僕が出ます」
そう言って桂木さんがモニターの通話ボタンを押した。
「はい」
「週刊レディジャーナルの者ですが、鮎川紗枝さんはご在宅でしょうか。お話を聞かせていただきたいことがあって参りました」
「断ります」
それだけを言って桂木さんは通話を切った。だがすぐにまたチャイムが鳴って、男女二人がインターホンに映った。
「私ならかまいません。話をしてきます」
「なぜ? あの人たちの仕事に協力する必要はないよ」
「相手をしないでいると、あの人たちは近所の人に取材を始めるんですよ。そして何も知らなかった人たちに情報を与えるんです。それは経験済みです。私と総二郎さんのことを根ほり葉ほり聞き出すかもしれませんし」
「僕はかまわないけどね。紗枝さんは本当にいいの? 取材を受けるの?」
「はい。十八年間、いろんなことを隠して身を守ってきましたけど、総二郎さんがマスコミに取り上げられるのを気にしないとおっしゃるなら、私も気にしません。もう逃げないと決めましたので。ちょっと行って話をしてきます」
「僕も同席したい。家の中に入れていいよ」
「え、でも」
「いいです。徹底して取材してもらおうよ。その代わりこっちもそれなりの対応をさせてもらう」
私が知っている限りでは、相手が悪質な場合、相手が望む部分だけを切り取って報道される。こちらが本当のやりとりの録音データを持っていても、あまり役には立たない。でも桂木さんがそうしたいのならそれでいいと思った。
念のため、担当編集者の百田さんに電話をかけた。
「どうしたの? 珍しいね、鮎川さんが電話をかけてくるなんて」
「今、鯛埼町の自宅に雑誌の記者が来ています。カメラマンも一緒です。私が取材を受けるとそちらに不都合はありますか?」
「……いや、ない。ただ、テレビ電話で僕も参加させてほしい」
「わかりました」
三度目のチャイムが鳴った。これを延々繰り返されると、たいていの人は心が折れると思う。
「総二郎さん、大丈夫です。私、対応できます」
「そう? じゃあ、門を開けるよ?」
「はい。お願いします」
門まで出て、二人に挨拶をした。
「私が鮎川ですが」
「私、週刊レディジャーナルの佐々木と申します。こっちのカメラマンは和田です」
「私の担当編集者がテレビ電話で参加させてほしいとのことです。それを了承していただけるなら、取材を受けます」
「わかりました。かまいません。取材させてください」
記者とカメラマンが家の中に入り、スマホが二台立てて置いてあるのに二人とも驚いた顔をした。
「桂木です。念のため、私が契約している弁護士もテレビ電話で参加します」
弁護士と同業者が見守る中で取材するのはさぞかしやりにくかっただろう。佐々木さんはやや緊張した様子で私に質問してきた。
少しでも法的に問題がある場合は弁護士さんが待ったをかけ、私のエッセイに関係することは百田さんがストップをかけた。
小一時間の質問を終えたが、たいした材料は得られなかったと思う。エッセイに書いてあることはそれを書いたとおりに答えたし、両親に関することは断った。
「それは現在警察で調査していることですので、お話できません」
制限の多い取材を、私は「穏やかに誠実に」を心掛けて受けた。
記者の佐々木さんは私のことを「気の毒な人生を歩んできた人の話」として読者の同情を誘うように仕上げたいらしい。それとわかるような誘導尋問もかなりあった。その度に弁護士さんが「それには答えなくていいですよ」と私を止めた。
消化不良のような表情の佐々木さんに、桂木さんが最後に釘を刺した。
「一市民の、しかも両親の被害者である彼女の人権を傷つけるような記事を書かれた場合は、すぐに法的な措置を取ります。彼女は被害者です。どうぞそれを忘れないでください」
記者とカメラマンは帰って行った。私の写真を撮ることは桂木さんが許さなかった。
緊張のあとの脱力感で、私はソファーに座って目を閉じた。
桂木さんが隣に座り、私の肩を抱いてくれた。こうして味方になってくれて守ってくれる人がいると、私はなにも怖くないことに気がついた。
私はもう、あることないこと書かれることに怯えて眠れない夜を過ごさなくてもいい。
自分の世界がいきなり明るくなって色鮮やかに変わって見えるような、そんな気分だった。
「紗枝さん、疲れたんでしょう?」
「はい。緊張しました。余計なことは言うまいと脳みそをだいぶ使いましたね。でも、こんなことだったんだと、拍子抜けしています」
「うん?」
「私が苗字を変え、名前を変え、ひたすら目立たぬよう生きてきた理由は、この程度のことだったんだなって脱力しています。でも……」
「なあに?」
「それは守ってくれる総二郎さんが隣にいてくれたから平気だったんです。弁護士さんや百田さんもいてくれましたし」
「僕が少しでもあなたを支えることができたなら……」
「できているなら?」
「生きている甲斐があります」
桂木さんが美しい顔にいつもの微笑みを浮かべて私を見ている。
「紗枝さんに会う前は、ちょっと疲れていたからね。この先の人生が長いなあってたびたび思っていたんです。でも、今はできるだけ長く紗枝さんと一緒に生きていたいと思っていますよ。紗枝さん、入籍する決心がついたらすぐに返事をくださいね」
「はい。すみません。もったいつけているわけじゃないんです」
「うん、あなたがそういうことする人じゃないのはわかっていますよ」
『守られて恐れの小ささに気づく』
長年恐れていた存在は、守られながら対峙したら案外恐ろしくはなかった。
「紗枝さん、二人で散歩しましょうか」
「はい。お仕事はいいんですか?」
「深山君が頑張ってくれていますから、最近は余裕があるんです」
二人でゆっくり歩いた。いつもは海沿いの県道を歩くけれど、陽射しが強くなってきたので山に向かった。小さな神社に参拝し、湧き水を見つけて驚き、木苺の実を摘まんで食べながら歩いた。
「紗枝さん、楽しいねえ」
「はい。楽しいです」
「あのね、あなたには迷惑だと思うんだけど、都さんがお詫びにって、これ」
桂木さんは飴玉でも渡すような気楽さでズボンのポケットから小袋を取り出した。
ブルーグレーの柔らかい小袋を受け取って中を見ると、大きなルビーがついた指輪だった。周りを囲んでいるのはダイヤに見える。
「現金で渡すよりはこっちのほうがいいだろうって、送ってきた。貰っても困るよね」
「こんな場所で渡されるほうが困りますよ! いったいいくらするんですかこれ」
「ああ、ごめんね。こんなものあなたは欲しがらないのはわかってたのに。売り払って現金にしてから渡しましょうか?」
「えええ……。それはそれでどうなんですか。いえ、これは一生身につけることはないと思いますけど、都さんの大切な品でしょうし、売るのはちょっと」
今受け取るのは恐ろしくて、グイと押し返した。
「紗枝さん、都さんに気を使う必要はないですよ。どうします?」
「とりあえず総二郎さんが持っていてください」
「よし、これを換金して使ってしまいましょう。物で置いておくと見るたびに岩のことを思い出して気分が悪い。それと、都さんはこういうのをザクザク持っていますから。このぐらいなんとも思っていませんよ」
「そうかもしれませんけど……、いえ、やっぱりそうしましょう。パーッと使ってしまいましょうか。私も母にされたことはもう思い出したくないです」
桂木さんは「うん、そうしよう。二人で無駄なことに贅沢してみよう」と笑ってまた歩き出した。