5 桂木総二郎の胸の内 『ろ』
【桂木総二郎視点】
ゴルフのラウンド中に『桂木さんの隣の古い家、相続で持ち主の娘さんが受け継ぎました』と知らされた。自宅の隣にボロボロの空き家があるのがずっと気になっていた。築五十年の傷みが酷い木造だったから、建物に資産価値はない。
毎日朽ちかけた家を見ているよりも買い取って更地にしようと考えていた。だから土地と家を買い取りたいと知り合いの不動産会社の社長に頼んでいたのだが。
隣家の所有者は八十八歳の男性。現在の住居が東京だそう。その人が亡くなる前に購入しないと手続きが厄介になりそうだと思い、急いでもらっていたが間に合わなかった。娘が引っ越してくるのなら、もう買い取るのは無理だろうと諦めていた。
その隣家に引っ越し業者が荷物を運び入れているな、と眺めていたら、翌日にはその建物は灰になった。古い木造住宅は、油でも撒いたかと思うほど火の回りが早かった。
火事の原因は海岸で騒いでいた若者たちのロケット花火。
いろんな方向にロケット花火を発射していたから(危ないな)とは思っていた。
自分が早い段階で彼らに注意していれば、あの家は燃えなかったかもしれない。後悔で胸が痛む。
焼け出されたのはまだ若い女性で、窓から逃げようとして逃げられないでいたのを叱咤して救い出した。鮎川紗枝は気の毒なほどガタガタと震えていた。
家から逃げ出したあと、彼女は泣きもせずパニックも起こさなかった。彼女はただただ無表情に燃え続ける家を立って見ていた。一見、とても芯の強そうな落ち着きのある女性だった。
自分は一度は家に戻ったが、彼女が気になって何度も窓から外を見た。
彼女は同じ場所に立ち続け、同じ表情で家を見ていた。泣くでもなく騒ぐでもなく、ずっと無表情なのがなんとも気になった。
ふと、彼女の年齢のことが気になった。あの女性が八十八歳の老人の娘だというなら、父親が六十歳くらいででできた子どもということになる。あり得なくはないが、どういう家庭なんだろうとは思った。年の離れた妻の子供なのかもしれないと結論付けて、そのことを考えるのは終わりにした。
ひと晩中外に立っていた彼女が心配になり、余計なお世話と思いつつ家に呼んだ。お茶とパンを出して話をしてみたが、彼女に高収入らしい雰囲気はなかった。着ている物は安価そうなもので、しかも傷んでいた。
つまり、彼女はあのボロボロの古家を建て直さずに住むつもりだった可能性が高い。
そんな彼女が引越し当日に焼け出された。
思い詰めなければいいが、と一度気にしたらもう、そのことが頭から消えなくなった。
ロケット花火を黙認して彼女の家が燃えた。
彼女がただならぬ様子なのに気づきながら放置して何かあったら、自分はきっと死ぬまで後悔するだろう。だから彼女に親切にするのは自分のためだ。
「乗りかかった船。うん。そういうことだ」
立ち尽くしている彼女に声をかけ、家に招いてお茶とパンを出したのは、手間をかけた料理よりも買ってきた物の方が彼女も気が楽だろうと思ったからだ。
彼女の黙々と食べる姿に少しは安心する。
『食欲がある間は大丈夫』というのが自分の信念だ。爪が割れてるのを見て(何の仕事をしてる人だろう)と思った。原稿と言っていたからライターかなにかだろうが、なぜ手荒れが酷い上に爪が割れているのかが気になった。
鮎川紗枝は余計な質問を一切しない人だった。
彼女は室内を見回し、自分のセーターにもチラリと視線を向けたが、お世辞を言わなかった。媚びもしなければ卑屈な態度も取らない。それがとても気が楽だった。
自分は普段、女性を家に入れない。それには理由がある。
社会人一年目のときに勤め先の五歳年上の同じ部署の女性に告白され、付き合い出したら束縛が始まった。一日中ひっきりなしにメールが来る。すぐに返信しないと不機嫌になる。
部署のある部屋から出ればすぐに「今どこにいるの。誰と一緒なの。どこにいるかわかるように、今すぐ周囲の景色を撮って送ってほしい」とメールがくる。返信が遅れるとメールが連続で来る。
心底ゾッとしてすぐに別れたら、『遊ばれて捨てられた』『お金をせびられた』ととんでもない嘘をばら撒かれた。
二十三歳の世間知らずの若造だった自分は、手の打ちようがなかった。
「出世できると思うなよ」と部長に言われ、推進中のプロジェクトのチームからも外された。針の筵の会社では仕事が与えられなくなり、(辞めろということか)と判断した。人生に光が見えなくなったような気持ちで依願退職した。
半年ほど求職活動をしたが、同業種の会社には、なぜか自分の悪い噂が広がっていた。何社目かの面接官にそれを知らされて驚いた。
彼女がそんなことをしたのかどうかはわからない。
彼女以外の人間がばら撒いたのだとしたら、恨みを買うようなことを自分は知らず知らずしていたのだろうか、と四方八方に壁が立ち塞がっているような日々だった。
「このままでは心を病む」と考えて、自分一人の会社を立ち上げた。当時はあまり流通していなかった携帯用アプリの会社だ。
仕事に疲れたときに通っていたコーヒーショップの女性従業員に話しかけられて会話をするようになり、五年つき合ってから結婚した。
(五年もかけた。今度は大丈夫、この人ならやっていける)そう思ったが、自分の判断は間違っていた。
自分の会社が成長して資産が増えてくると、『時代の寵児』『IT長者』と業界紙や週刊誌に取り上げられるようになった。そして妻の様子に変化が現れた。
接待で呼ばれた席で相手側が用意した女性と一緒の場面を盗撮され、週刊誌にないことないこと書き立てられる。どの女性とも酒宴が終わったらその場で別れたと言っても妻は信じない。
やがて『今どこにいるの? 誰といるの? 景色込みで自撮りして送ってよ』と言い出すようになった。
帰宅すれば泣きながら責められる。身に覚えがないことで何時間も妻をなだめる日々が続いて眠ることができない。疲労困憊して体調を崩し、会社近くのホテルで眠ればそれもまた非難され罵られる。
もう修復のしようがないほどに家庭は地獄となり、離婚しようとしたが揉めに揉めた。不貞の事実がないのに調停は長引いた。それも片が付き、離婚して仕事に専念する日々に戻った。
自分は女性との関係を築く才能がないのだと今は思っている。
そんな過去があった自分だが、それでも鮎川紗枝を放置することはできなかった。なぜなら、自分の会社の若い女性が、あれとよく似た表情を浮かべていた後に、自殺を図ったことがあるからだ。
鮎川紗枝と女子社員の表情が抜け落ちている感じがそっくりだった。
『あの娘さんも自殺してしまうかもしれない』という不安と恐怖は、女性全般に対する不信感よりもずっと強かった。
彼女に客間を提供し、お気に入りのコーヒー店に案内し、家電量販店とショッピングモールにも車を走らせた。
彼女は迷うことなく次々とカートに商品を入れる。買い物を楽しむ雰囲気は全くなく、必要か必要でないかの観点のみで素早く選んでいるように見えた。あっという間に買い物を済ませ、最低限必要な会話だけをする。
こちらを用心しているのか、それとも自分のことを話したくない事情でもあるのだろうか。会話の最中も自分のことを用心深く口をつぐんでいる気がした。
そんな彼女なのに『いろはかるた』の話をしたら、思いがけず多く語る。言葉に関してだけは積極的で雄弁だった。
※・・・※・・・※
「簡単なものしかないけど、夕飯にしよう」
「ありがとうございます。いただきます」
彼女を夕食に誘うと、背筋を伸ばし両手を合わせてから食べ始めた。鮎川紗枝はちゃんとした躾を受けて育った人のようだった。
テーブルの上には三種類のオープンサンド。
一皿目は薄切りしたフランスパンに発酵バターを塗り、スモークサーモンを載せたもの。トッピングはキャビアとディル。
二皿目はイベリコ豚のレバーパテを塗って黒コショウを散らしたもの。
三皿目は生ハムとクリームチーズとセミドライのミニトマトを載せたもの。
ワインは普段使いにしているシャトー・コルバンにした。見ていると鮎川紗枝はよく食べ、よく飲む。酒豪か? と思ったが顔には出ずに酔うタイプらしかった。
あまり深酔いされると厄介だから、ワインは一本でやめておいた。
なによりも今夜も『いろはかるた』のお題で会話をしてみたかった。
「鮎川さん、『ろ』で思いつく言葉はありますか」
「あります」
「即答とは心強いな。ではお願いします」
鮎川紗枝はピタリと飲むのをやめ、ワイングラスを持ったまま動かなくなった。視線を斜め下に向けて考えている。
「ろくでなしのくせに笑顔は善人」
「ふふふ」
「老人になるんだよ、お前も」
「うむ」
「『ローマの花火』の意味を知っているか」
「ふむ」
「ロマンを語るな、クズのくせに」
「へえ」
「ろ……ローン審査に通る人生の眩しさ」
「ほぅ」
鮎川紗枝は顔色を変えないまま酔うタイプのようで、白い顔だが目がとろんとして遠くを見るような表情になった。(そういう酔い方は危ういな)と一瞬思う。
「暇は人間をだめにするよ」と心配してくれたゴルフ仲間に頼まれたエッセイの仕事。連載初回の締め切りは半年後。時間には余裕がある。いろは四十七文字を楽しみながら書いてみたかった。
自分からは絶対に出てこない言葉が、鮎川紗枝の口からはスルスルと出てくる。それが面白かった。彼女の『いろは』はその背景をひとつひとつを深掘りして聞きたくなる魅力があった。
そんなことを考えていたら、門のチャイムが鳴る。
「そうだ、今日は部下が来るんだった。忘れてた」
「では私は部屋に戻ります」
「いや、いい。部下に挨拶をさせるからここにいて」
彼女の返事を待たずに門のロックを解除した。
モニターを見ると部下の深山奏が荷物を下げてこちらを向いてニイッと笑っていた。門のロックを解除すると、すぐに深山は自分でスリッパを出してスタスタとリビングに入って来た。