49 美幸さんの来訪 『や』
熱々のカニ玉丼をお行儀悪く口いっぱいに頬張っているときだった。
「僕の妻になってほしい」と言われて、思わず顎の動きが止まってしまった。
視線をカニ玉から桂木さんに移動させると、桂木さんは漆塗りのスプーンで丼の下のほうの味が染みているごはんをすくって食べている。
(あれ? 今のは空耳だったかな)
そう思うほど、桂木さんは気負っていなかった。
桂木さんがもぐもぐしながら丼から私に視線を移した。
「紗枝さん? 答えは? 僕の妻になるのは嫌ですか?」
「いえ……」
妻になるのが嫌というより、母のことでごたごたしてるときに言い出した理由は何かな、と考えた。
「もしかして、片膝ついて指輪の箱をパカッってするべきでしたか? あなたはそういうことを嫌いそうだと思って、『自然に申し込むスタイル』にしたんですが」
私は動きを止めていた顎を動かして、まずは口の中のカニ玉丼を飲み込んだ。
「あ、はい。サプライズと寒い演出は苦手です。もうやる人がいなくなったフラッシュ・モブは見ているだけで鳥肌が立つタイプです」
「うん。だと思った」
「どうして今なんでしょうか。母のことでバタバタしているのに」
「お母さんのことがあったからです。あのとき車を運転しながら、あなたに二度と会えないかもしれないと思ったときの恐怖が忘れられません。一分でも早くあなたを僕の腕の中に囲い込んでしまおうと決めました」
「私はどこにも行きません。何度も言ったのに」
「これから騒ぎになる気がします。あなたのお母さんがしでかしたこと、もうニュースに取り上げられていましたから」
「ええっ!」
「明日になればワイドショーでも取り上げられるんじゃないかな。視聴者の興味をそそる話題がぎっしりだもの」
「うわ……」
「世間の興味は少したてば他に移るでしょうけど、しばらくあなたは注目されます。紗枝さんの連載しているエッセイも、その流れでたくさんの人が読むでしょうね」
エッセイが注目されるのは……担当編集者の百田さんと編集長が喜ぶだろうし、私は顔も本名も出していないから別にかまわない。すると私の心を読んだように桂木さんが小さく首を振った。
「ネット界の特定班を甘く見てはいけません」
「今、急いで桂木さんと結婚しても、特定される危険は同じなのでは?」
「いいえ。あなたを攻撃する人間の情報開示請求を僕がしやすくなります。マスコミへの抗議も僕が一手に引き受けられる。同居しているだけの他人がそれをやろうとすると、大変に手間がかかるんです」
「考えさせてください。今はなにも決められないんです」
「そうですか。残念だ」
そう言って桂木さんはそれ以上何も言わず、カニ玉丼を食べ終えて台所に立った。私は「そういえば桂木さんの会社の説明文の仕事、まだ残っていたな」と思って立ち上がった。
「寝るの?」
「いえ。メディアストーンの仕事が残っているので」
「それこそ今じゃなくてもいいですよ」
「いいえ。どんなときでも仕事は仕事です」
「昭和の仕事中毒なお父さんみたいなこと言って」
「そう言われたら確かにそうですけど、気が紛れるから仕事しますよ」
そんなことを言っていたら、電話がかかってきた。美幸さんからだった。
「はい。美幸さん、どうしたの?」
「今、鯛埼駅にいるの」
「なんで? すぐ迎えに行くけど、なにかあった?」
「なにかあったのは彩恵子ちゃんでしょうよ! なんで私になにも言ってくれなかったの! あ、話はあと。住所教えてよ。タクシーで行こうにも、住所知らなかった」
「今迎えに行くから、そのまま駅で待ってて!」
電話を切って立ち上がったら、台所から戻ってソファーに座っていた桂木さんも立ち上がった。
「僕が運転します。あなたは大変なことがあったばかりだから、運転はやめておいたほうがいい」
「あー、そうですね。ありがとうございます」
確かに疲れている。気を張っているからあまり感じなかったけれど、頭の芯がぼーっとッしている気がした。
駅に車が着くと、美幸さんが走り寄って来た。
「彩恵子ちゃん!」
「美幸さん、いらっしゃ……。どうしたの?」
美幸さんが私に抱きついて泣き出した。
「よかった。彩恵子ちゃんが無事でよかった。あの馬鹿親、なんてことしやがるんだろう」
「ああ、なんかニュースになってるらしいね」
「らしいねって、テレビ見てないの?」
「うん。少し前に帰ってきたところだし、今の家はリビングにテレビがないのよ。ネットニュースは見ないようにしているし。ニュースってこんなに素早く流れるんだね」
「他人事みたいなこと言ってる場合? でも、無事でよかった……」
そこで桂木さんが助手席の窓を開け、笑いながら声をかけてきた。
「立ち話をしていないで、乗ってください」
「はーい」
「彩恵子ちゃん、あの人が?」
「うん、桂木総二郎さんだよ」
「芸能人じゃないよね? 俳優さんみたい」
「IT関係の社長さん」
「イケメンすぎてびっくりした……」
「私も最初見たとき、びっくりした。さ、乗ろう。おうちに行こう」
私と美幸さんは後部座席に座り、わずかな移動時間にもしゃべり続けた。
家に着いて美幸さんと桂木さんが挨拶をするときだけは全員かしこまっていたけれど、そのあとは怒涛の如く私と美幸さんは喋った。
途中で(あ、これじゃ桂木さんの居心地が悪いか)と気づいて桂木さんを見ると、桂木さんは目元に笑いを湛えていて楽しそうだった。
「紗枝さんがこんなにしゃべる人だったなんて、驚いています」
「あらぁ、そうなんですか? 彩恵子ちゃんは基本物静かな人だけど、私と二人のときはこんな感じです。そのうち桂木さんともたくさんしゃべるようになりますよ。今回は彩恵子ちゃんを助けてくれてありがとうございました」
「ああ、GPSのことなら執着する人みたいで……。普段はそんなことをしませんので、ご心配なく。今回はちょっと事情があってスマホに入れてもらったんです」
あのアプリを入れることになった経緯は、まだ美幸さんに知られたくない。だから話を変えることにした。
「美幸さん、今夜は泊まるよね? 明日仕事なの?」
「明日は休みだけど、いいよ、彩恵子ちゃんが無事とわかったから帰るよ。急に来てそんな」
「どうぞ泊まってください。来客用の部屋がありますから。紗枝さん、そうしてもらうといいよ」
こうして美幸さんは我が家に泊まることになった。
客室に入って、その豪華さに驚いている美幸さんを見ていると、焼け出されたあの日、初めて二階の部屋に入って驚いたことを思い出す。あれは十月の下旬。今は五月の半ば。
七ヶ月の間に私の人生は、いや違う、私がガラリと変わってしまった。
「彩恵子ちゃん、一緒のベッドじゃだめ? こんな立派な部屋じゃ気を遣うし、シーツからなにから全部洗濯になって彩恵子ちゃんの仕事を増やすのは気が引けるわ」
「いいよ。一緒に寝ようよ。セミダブルだから十分寝られるよ」
美幸さんは私の部屋にシャワールームがあることに感動し、洗濯機に感動し、「この椅子高そう! 何から何まで高級品!」と騒いでいた。
それから二人でベッドに入り、二人で上を向いてベッドに並んだところで美幸さんが声を小さくして話しかけてきた。
「彩恵子ちゃん、あの母親がやったことは許せない。でも、桂木さんはあんな母親がいることをわかった上で彩恵子ちゃんを大切にしてくれているんだね」
「うん。それだけじゃないの。桂木さんは私の父が逃亡犯で、おっきな事件の主犯だと知っても態度を変えなかった。むしろ『大変だったね』って労わってくれた」
美幸さんが何も言わないから顔を右に向けたら、美幸さんは上を向いたまま泣いていた。弱い灯りの中で、目尻から次々涙が肌を伝わって落ちている。その涙を見たら、私も泣けてきた
「美幸さん……泣いてくれてありがとう」
「私たちさ、親と一緒に暮らせない子供が集まってるところで育ったじゃない?」
「うん」
「みんな大なり小なり人間不信なとこ、あったじゃない?」
「うん」
「なんで私たちはこんなかなって、私は思ってたし、他の子も思ってたと思うのよ。でも、こうして彩恵子ちゃんは幸せになった。それが嬉しいのよ。私さ、有名な人が雑誌のエッセイで『人間の幸不幸の総量は皆同じ』って書いているのを読んで『ふざけんな』って腹を立てたことあるの。『そんなわけあるか』って。『お前は幸せな世界で生きているから知らないだけだよ』って」
私もそれは何度も思ったことがある。
「うん。わかる。私は私を攻撃する人よりも『どんな苦労をしても、今世で徳を積むと思いなさい』なんて偉そうに説教する人が大嫌いだった。そういうときは心の中で角材を振り回してた。『人生は今しかないんだ、今世とか寝ぼけたこと言うな』って、笑顔で聞きながら、心の中で角材ブンブン振り回してた」
「あっはっはっは、やめて。彩恵子ちゃんが無表情に角材を振り回しているところ想像しちゃうじゃないの」
二人で静かに笑い続けた。
「声を殺して笑うと、おなか痛いよ彩恵子ちゃん」
「角材じゃなくて、ぶっとい丸太んぼうのときもあった」
「やめてって。苦しいから」
笑いすぎて腹筋がつりそうになって、やっと笑うのをやめた。
「さっき、結婚を申し込まれたよ」
「やったわね。おめでとう」
「でも迷ってる。私はこのまま間借りしてる同居人でいいと思ってる」
「なんで? あんな素敵な人に、なんの文句があるの?」
「美幸さん、結婚したら子供を産まなきゃだめかな」
美幸さんが返事をしないで私の手をギュッと握った。
「私はあの両親しか知らない。それが怖い」
「今は結婚したら跡継ぎを産めなんて、そんな時代じゃないよ。彩恵子ちゃんが桂木さんを愛しているから一緒に生きる。それでいいよ。子供の話はその先のことだよ。桂木さんは子供欲しいって?」
「ううん。そんなことは何も」
「二人で話し合いなよ。話し合いもしないで彩恵子ちゃんがドアを閉めるのはやめたほうがいい」
「そうか、私がドアを閉めてるのか」
美幸さんが寝返りを打って、私のほうに身体を向けた。
「私たちさ、いろんなことを諦めて生きてきたじゃない? でも、もういい加減、欲張ってもいいと思うんだよね。私たち、もう三十過ぎてるのよ。そろそろ親にされたことは忘れて、幸せになろうよ。桂木さんみたいな心の大きい人、そうそういないって」
「うん。桂木さんと私は『や』……槍降る中も笑って歩くって感じ」
「なにそれ」
「今、いろはかるたを作ってるの。いろはかるたを私が考えると桂木さんが喜ぶし、私も楽しい」
「いろはかるた? あ、そういうとこはあんなイケメンでもオジサンなんだね」
「やめてよ。失礼だわ」
また笑って、私は楽しい気持ちで眠った。