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48 カニ玉丼の夜 『く』

「ったく! 遅いわね。メッセージは既読になっているのに、振り込むのに何分かかってるのよ。まさか彩恵子のことを見捨てたのかしら?」


 私のスマホを見ながら悪態をついていた母が、突然顔を上げた。空中を睨んで考え込む様子になり、それから私を見た。


「ちょっと。このスマホになにか仕込んでないでしょうね?」

「なんのこと?」

「束縛の強い男が恋人のスマホに変なアプリを入れたりするじゃない。これ、入ってるの?」

「桂木さんはそんな人じゃないわ」


 母がしゃがんで私の目をジッと覗き込んだ。そしてスマホの電源を切り、ポイと私から離れた場所に放り出した。


「くわばらくわばら」


 美しい顔を歪めて笑いながら、母はアパートの部屋から急いで出て行った。

 それから何分経ったろうか、ドアの外に何台もの車が止まる音、複数の人の足音がした。私は全身に力を込めて叫んだ。


「助けて! 助けて! 誰か!」


 すぐにドアが開き、制服の警官が四人、かけ込んできた。私を見てすぐに無線で「発見しました!」と報告している。一人の警官が私の手足の結束バンドを切って、「怪我は?」と尋ねた。


「怪我はしていません」

「少しの怪我でも遠慮せずに教えてくださいね」

「はい、私でしたら大丈夫です」


 私は警察の人たちを見たら、急に力が抜けた。でも、まだだ。まだ気を抜くのは早い。母がまだ近くにいるはず。


「母に縛られました。母はさっきここから逃げていきました」


 私が立ち上がりながらそう言うと、私服の男性が私に近寄ってきた。


「あなたの母親のことは今、探しています。怪我はないですか? お母さんの服装は?」

「怪我はありません。母は白に近いベージュの上着と、紺色のワンピースでした」

「怪我がないのでしたら、このままお話を聞かせてもらえますか」

「はい。私なら大丈夫です」


 警察の車に乗せられ、最寄りの警察署で事情を説明している間に桂木さんが到着したらしい。桂木さんは私を見ると一度目を閉じた。目を開けたときには見慣れた微笑みが浮かんでいる。


「紗枝さん、怪我は?」

「ありません。大丈夫です」

「よかった……。さあ、帰ろう」

「はい。早く帰りたいです」


 桂木さんは警察の皆さんに頭を下げ、私も「ありがとうございました」とお礼を繰り返しながらその場を離れた。

 鯛埼町の家に戻ったら、遅い時間だった。

 途中で何度も「おなかは? 喉は乾いていない?」と心配されたけれど、そのたびに首を振った。

 私はとにかくあの家に帰りたかった。


 鯛埼町の家に着くと、桂木さんが甲斐甲斐しく食事の世話を焼いてくれて、私は「座っていなさい」と言われて椅子に座ったまま、ぼんやりと桂木さんを眺めていた。

 

 桂木さんが「温かいものがいいかな」と独り言を言いながら作ってくれたのは、カニ玉丼だ。深山奏が持ってきたカニを私が蒸してほぐして冷凍していたものだと思う。

 たっぷりのカニ肉を混ぜてふんわり焼いた卵に、甘酢あんがとろりとかかっている。丼からあふれそうなほどの量が、熱々のごはんの上にのっていた。

「さあ、いただこう」と言われてスプーンを手に取った。こんなときでもカニが甘く美味しい。卵焼きも優しく美味しい。甘めのあんも美味しい。スプーンですくっては口に放り込む。私は火傷しそうに熱いカニ玉丼をどんどん食べた。


「お日様マーク、役に立ちました。ありがとうございました」

「役に立つ日が来ないことを願っていたけどね。お母さんもすぐに捕まるよ。あの場所からどこへ逃げても、逃げ切れるとは思えない。顔写真も出回るだろうし」

「そうですね」

「あなたは気丈だった」

「ん?」

「車を運転しながら会話を聞いていたんだ。もちろん会話は録音してあるし、コピーしたのを警察に渡してある。あなたが何をされたか、ちゃんと警察に伝わっています」

「あっ……あのアプリはそういう機能もあったんですね?」

「運転しながらあなたへの暴言を聞いていたよ。『はらわたが煮えくり返る』ってのを久しぶりに経験した」


 あの醜悪な言葉の数々を聞かれたのか。恥ずかしくて情けなくていたたまれない。

『親の顔が見てみたい』という大嫌いな言葉が、なぜか今、思い浮かぶ。


「私を育てているときは、あんなふうではなかったんですけど」

「人間は追い詰められると本性がむき出しになるものだ」

「私が両親を軽蔑していたこと、伝わっていたんですね。そりゃ置いていかれますよね」


 私が苦笑すると、桂木さんは険しい顔になった。


「紗枝さん、やめなさい。置いて行かれてよかったんですよ。気に入られて片棒を担がされながら育つより、ずっといい」

「それは、そうかもしれませんね」

「間違いなくそうです。あなたは置いていかれたから罪を犯さずに済んだ」


 桂木さんは食事を終えると食器を片付け、緑茶を淹れてくれた。


「あのアプリが初めて起動したと思ったら、その直後に『五千万を貸してくれ、振り込んでくれないと私が酷い目に遭う』なんてメッセージが送られてきたからね。ずいぶん粗末な手口だったけれど、これはやられたなと慌てました。僕はあなたが無事かどうか、もう、心配なのはそれだけだった」

「ご心配をおかけしました。私が油断しすぎていたんです」

「それで? どうやってあそこまで運ばれたの?」


 乗り換えのホームのところから、詳しく説明した。桂木さんは途中から目を閉じてうなずいて聞いていたけれど、全部話し終わったら、深いため息をついた。


「あなたの人の好さにつけ込んだんだろうけど……。人を騙し続けてきた人が、我が子の善良さは疑わなかったんだな。僕がうかつでした。あなたを一人で行動させなければよかった」

「違います。私が……他人に親切にすることに、ちょっと浮かれていたんです。タクシー代を渡すか、あの人に嫌がられても駅員さんに連絡すべきでした」


 ダイニングテーブルからソファーへと移動して、桂木さんが私の隣に座った。


「苦労をすると、たいていの人は他人を思いやる余裕がなくなってしまう。自分のことだけで精一杯になるものだけど。紗枝さんは逆なんだね。苦労した分、他人に共感して優しくしてしまうようだ」

「そんないいものじゃありません。私は総二郎さんと暮らすようになって……私は……調子に乗ったんです」


 自己嫌悪で唇を噛む。桂木さんはそんな私を痛ましそうな顔で見ている。


「自己評価が低いところは、そう簡単には変わらないか。いいですよ。あなたが自分に自信を持てるようになるまで、僕があなたの善きところをずっと伝えます。今夜はとにかくゆっくり休んだほうがいいね。本当にあなたが無事でよかった」


 桂木さんがお風呂の用意をしてくれて、ゆっくりぬるめのお湯に浸かった。母にパンプスで蹴られた肩が青くなっていたけれど、痛いのはそこじゃない。

 私が両親を嫌っていたように、母も私を嫌っていた。おそらく父よりも母のほうが私を嫌っていたと思う。なんとなくそんな気がする。


「お互い様だったか。そりゃそうだよね」


 養護施設には、親の暴力が原因で来ている子も少なからずいたから、私はまだましなほうだ。


「そうね。まだマシ。親に殺される子供だって少なくない。あっ」


 私今、すごく嫌な考え方をした。

『下を見て自分を安心させるのは、醜い行為だ。私は他人の不幸を踏み台にして自分を慰めるヤツが大嫌い』

 美幸さんが繰り返しそう言っていたし、私だって『可哀想』という言葉がどれだけ相手を傷つけるか、散々経験しているのに。私、いつのまにか自分より酷い目に遭った施設の仲間を踏み台にしていた。


「今日の私、醜い。美幸さんが聞いたら『苦しんでいる人を踏み台にするな』って怒られるところだわ」


 今夜は何を考えても暗い方向にいってしまいそうだ。もう考えるのはやめよう。

 お風呂から出て、ハイボールを濃い目に、大きなグラスにたっぷり作った。

 桂木さんは部屋にいるらしい。

 この家で暮らすようになってから、勝手にお酒を飲んだのは、初めてだ。今夜はとにかく早く酔ってさっさと眠りたかった。眠って『今日』という日を早く終わりにしたい。


 冷えたハイボールは美味しかった。助け出されてから、やたら喉が渇いて何杯も水を飲んだ。今も喉が渇いている。グラスを飲み干してはハイボールを作り、また飲み干した。


「あっ。私、お酒臭いか……」


 箱根旅行以来、私の寝室は基本一階の桂木さんの寝室になっている。

 私は(寝室は別の方が落ち着いて眠れるのでは)と迷っていたが、桂木さんが譲らなかった。


「寝相や寝返りに気を使うようならベッドを二台、間を開けて置きましょう。この先、僕が紗枝さんと一緒にいられる時間を考えたら、ぜひそうしたいんだが」

「私、歯ぎしりとか寝言とかいびきとかでうるさいかもしれませんよ?」

「かまいません」


 優しい笑顔と優しい会話を思い出しながら桂木さんの部屋に入った。桂木さんは机に向かっていて、ノートパソコンを見ていた。


「お風呂、先にいただきました」

「少しは疲れが取れたかな」

「はい。お仕事中でしたら二階で眠りますよ?」

「ううん。仕事じゃないですよ。ちょっと法律関係の情報をね。警察から連絡が来ないね。すぐに逮捕されると思ったんだが」


 曖昧な言い方だったから、法律関係とは私の両親に関することだろうと思った。だが、そうではなかった。

 翌朝、朝ごはんを食べているときに、桂木さんが天気の話でもするかのような口調でこんな提案をしてくれた。


「紗枝さん、籍を入れるのは嫌ですか? あなたが嫌じゃなければ、籍を入れて正式に僕の妻になってほしいんです」


 


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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