表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/69

47 お天気マーク 『お』

 東京駅を出て一時間の駅で乗り換えようと、ホームに降りたときのこと。

 二十代の女性が私の目の前でホームにしゃがみ込んだ。肩で息をしていて、ハァハァと苦しそう。降りる客は十人ほどで、ホームにはすぐに私とその女性だけになった。


「大丈夫ですか? 駅員さんを呼びますか?」

「いえ、あの、私、手術をしたばかりで、ちょっと休めば大丈夫ですから。ありがとうございます」


 目が泳いでいて、汗をかいている。まだそんなに暑くないのに、冷や汗だろうか。

 急ぐ日程でもないので、私はその女性に手を貸して、ホームの椅子に腰かけてもらった。


「飲み物を買ってきます。あったかいのと冷たいの、どっちがいいかしら」

「大丈夫です。あの、私、スマホを置いて来てしまって。家に連絡できなくて」

「おうちはこの駅ですか?」

「はい。迎えに来てくれることになっているんですけど」

「いいわ。私のスマホを使って。番号わかりますか?」


 そう言ってスマホを差し出したが、女性はスマホを見たまま手を出さない。


「番号、覚えてない?」

「はい。すみません。でも、大丈夫です。休んだら、なんとか歩いて帰りますから」

「家まで近いの?」

「ここから一時間ぐらいです」

「その状態で一時間……。無理よ。タクシーに乗ったほうがいいと思うけど」


 そう言うと恥ずかしそうに下を向いた。

 タクシー代が出せないのかもしれない。手術って、どの程度の手術だろう。

 私は自分が苦しいとき、美幸さんや総二郎さんに助けられた。鮎川シゲさんにも助けられた。

 だから(今度は私が誰かを助ける番)と思ったのだ。


「駅員さんを呼んでくるわね」

「やめてください! 大丈夫ですから」


 そう言いながらも動く様子がない。この女性をこのままにはして乗り換えるのも気が引けた。


「わかったわ。私が一緒にタクシーにのって送ってあげる」

「そんなこと……」


 そう言った直後に女性は身体を二つ折りにして黙り込んだ。そしてまたハァハァと苦しそうな様子。

 さっきより苦しそうで、両手をグーにして耐えている。


「おうちには誰かいるの?」

「はい。母さんが」

「じゃあ、行きましょう。つかまって」


 私は女性に腕を貸し、肩を抱えるようにしてタクシーに乗った。

 女性の家には十分ほどで着いて、角を曲がったところが家だと言う。角を曲がって見えたのは「ここ、本当に人が住んでる?」と思うようなボロボロのアパートだった。駐車場はハルジョオンがわさわさと生えていて、車が出入りしている様子はない。


(車で迎えに来るお母さんの車は、この駐車場を使ってないってこと?)と思いながら、女性に言われるままアパートの一階の真ん中の部屋のドアを開けた。

 玄関には靴がなく、家の中を見たら家具がない。背中がゾワッとした。


(ここ、人が住んでいる部屋じゃない)


 私は女性を抱えていた腕を放して「じゃ、私はこれで」と言ったのだが、遅かった。

 いつの間にか背後に立っていた男性二人に口を塞がれ、部屋の中に押し戻された。


「ううっ!」


 二人がかりで抑え込まれ、鼻と口を塞がれた。床に押し倒され、暴れることもできないまま手早く結束バンドで手首足首を縛られ、口にガムテープを貼られた。


「んんんんん!」


 恐怖で頭が真っ白になった。二人の男にも、この女性にも、全く見覚えがない。

 岩の仕業か? と思ったが、そうではなかった。

 すぐに玄関から見知った人物が入ってきた。


「ごめんね、彩恵子ちゃん。こうでもしないと、あなたお母さんに会ってくれないじゃない? それにしても、さすが平和ボケしてる日本人ね。フィリピンでノコノコ知らない人について行ったら、もっと怖い目に遭うのよ? 緊張感をもって暮らさなきゃだめよぉ」


 そこで母は二人の若い男と女性に一万円ずつ手渡した。


「言っておくけど、余計なこと言わないほうがいいわよ。あなたたちは実行犯なんだから。もう共犯なの。わかるわね?」


 母は笑顔だし口調はのんびりしていて、「学校帰りに買い食いしちゃだめよ」みたいな感じにしゃべっている。それがいっそう不気味だった。

 三人の若者はそそくさと消えて、私と母だけがボロアパートに残った。


「さてと。お母さん、あなたのことでまたお金使っちゃったじゃないの。ねえ、桂木さん、だっけ? あの人、すごいお金持ちなんですってね。岩さんに聞いたわ。彩恵子ちゃん、よかったじゃない? よくあんなハンサムでお金持ちの人を捕まえることができたわね。あなた、お母さんに似ないでお父さんに似ちゃったのに、上出来上出来」


 私は茶色に日焼けして埃っぽい畳に転がされていて、目の前に母の足がある。

 母はパンプスを履いたまま畳の上に立っていて、高級そうなパンプスはよく磨かれて光っている。


「お母さんが本を書いて出そうとしたら、桂木さんが邪魔したのよ。岩さんたら、案外根性がなくてね。諦めちゃったの。だからお母さん、一人でなんとかすることにしたわ。彩恵子ちゃんのためなら、桂木さんはいくら出すかしらねえ。一億出すかしら」


 この人、何を言っているんだ。私を餌にして総二郎さんからお金を引き出すってこと?


「一億ほしいところだけど、欲張るのはよくないわよね。なにしろ彩恵子ちゃんだものね。あなたも、もう少し髪形や身なりに手をかければいいのに。若くもないのに、みすぼらしいったらないわ」


 母は一人でしゃべっている。ときどき高級そうなバッグから缶入りのコーヒーを取り出してひと口飲んでは、丁寧にキャップを締めてまたバッグにしまう。


「彩恵子ちゃん、スマホ借りるわね。桂木さんが口座にお金を振り込んでくれたら、この場所を教えてあげるから安心して。娘なんだから、母親が困っていたら助けてくれるのは当たり前でしょう? 彩恵子ちゃんの、初めての親孝行ね」


 そう言って私のトートバッグの中をかき回した。 

 スマホを取り出し、私の指でロックを解除しようとして、私の背後にかがみ込んだ。今だ。

 私はゴロリと体を反転させて母の方を向き、思い切り母の脚を蹴った。


「きゃああっ!」


 母が尻餅をついた。


「痛ったぁ。なにするのよ! ほんっと可愛げがない。あんたは小さい時からそうだったわ。育ててもらっている分際で親を見下した目で見てさ。あんた、小学生のときにはもう、私を馬鹿にしていたわよね。不細工な女はね、せめて愛想よくしなきゃ誰も振り向いてくれないの。そんなだから置いてきぼりにされんの。わかる? お母さんね、お父さんとフィリピンで暮らし始めたときは、清々したわ。あんたなんか産まなきゃよかったって、何回思ったか。あんなに痛い思いして産んであげた娘に馬鹿にされてさ。毎日うんざりしていたのよ」


 母は醜く顔を歪めて私をののしる。


「大人しくしなさい。次は許さないわよ」


 母がパンプスで私の肩を蹴る。たいして痛くはない。もういいか。母の好きにさせてやれ。桂木さんならきっと、事態を察してくれる。


「ええと、メッセージを送るのに、はいはい、これね。口座番号がこれで……そうねえ、金額は五千万にしておこうかな。これで……よし、と。彩恵子ちゃん、桂木さんはこまめにメッセージを見る人? たまにしか見ない人?」

「んんんん!」

「仕方ないわね。ガムテープを剥がすけど、大声出したらまた塞ぐわよ。お母さん、うるさい人が大嫌いなんだから」


 母がベリリッと口のガムテープを剥がした。


「はぁはぁはぁ、お母さん、また刑務所に入ることになるからやめて。日本の警察を甘く見ないほうがいいいいわよ」

「はあ? ばっかみたい。お母さんのほうが彩恵子ちゃんよりずっと警察に詳しいわよ。親子の間だとね、捕まったとしてもわりと罪は軽いのよ。それに、お金は『貸してください』ってあなたが丁重にお願いしたから。大丈夫。頼んだのは彩恵子ちゃん。お母さんじゃないの」

「馬鹿みたい。すぐにバレるわ」


 母がキッと私を見た。


「彩恵子、それ、直したほうがいいわよ。その可愛げのない言葉遣い。一生誰にも愛されないわよ? 男はね、みんな可愛げのある女の人が好きなの。彩恵子みたいに『私は優秀です』って看板を首からぶら下げてるような女、誰にも愛されない。断言できる」

「お母さんは? お母さんは誰かに愛されたの? お母さんの父親のことも母親のことも聞いたことない。私はおじいちゃんおばあちゃんに一度も会ったことがない。写真も見たことない。ねえお母さん、お母さんは親に愛されてた?」


 パンッ! と音がしたのは私の頬。頬に熱が生まれる。でも、こんなの平気だ。


「生意気言うんじゃないわよ。私の両親なんか、こっちから縁を切ったわよ。どうしようもないクズな親だったの。だからあんたにはいい服着せて、いいもの食べさせて、ちゃんと育ててやったじゃないの! なのに恩知らずに育ってさ。ほんと、子供なんか産むもんじゃないわよね」

「そうね、お母さんは子供を産むべきじゃなかった。母親に向いてない人だもの」


 襟をつかまれて頭を持ち上げられ、パンッ! パンッ! と立て続けに左右の頬をビンタされた。

 それでいい。興奮して我を忘れればいい。きっともうすぐ桂木さんが来る。


「あっ、メッセージが既読になった。さっさと振り込んでよね」


 桂木さんは母の本の出版を邪魔したとき、岩が私に何かするのを恐れて、私のスマホにアプリを入れた。


「紗枝さん、このアプリはね、ロックを解除したら二分以内にこのアイコンをタップすれば作動しない。二分たってもタップしないと、今いる場所を僕に知らせ続けるようにしてある。別にあなたを監視したいわけじゃないから、面倒でも毎回お天気マークのアイコンを触るのを忘れないでね」

「すごいですね、桂木さん、そんなアプリを作れるんですね」

「なに言ってるの。僕はアプリ開発会社の社長ですよ」


 何分たっただろうか。

 お天気マークはこの場所をちゃんと正確に伝えてくれているだろうか。

 スマホの画面にひっそりと紛れ込んでいるお天気マークのアイコンは、桂木さんの愛、だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
書籍『海辺の町で間借り暮らし』
4l1leil4lp419ia3if8w9oo7ls0r_oxs_16m_1op_1jijf.jpg.580.jpg
― 新着の感想 ―
[一言] 会話が通じない人が直系で母親というのが怖い。 子どもを持つことに躊躇いを感じたりしないように桂木さんとの親愛を深めて欲しいと思いました。(ストーリー展開として、子どもを持つ持たないは、どちら…
[一言] ゴミだ。人間の振りしたゴミがいる。 かなしいけれどこういう人間もどき、世の中に確かにいるんですよね。 早く助けてあげて、桂木さん!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ