46 望みの物は手に入れた 『の』
総二郎さんはいつもの笑顔だ。いつもの、なにを考えているのかよくわからない優しい笑顔。
私が(母の本の話はどうなったのだろう)と不安に思っていると、すぐに見破られる、
「こっちにいらっしゃい」と言われて近寄ると総二郎さんが私を抱きしめる。
「岩に僕の腹黒さを知らせるいい機会ですよ」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫なように手を回すのが大人のやり口です。紗枝さんに心配させるようなことを、僕がするわけがない」
「総二郎さんが黒い……」
「だいぶ前に言ったはずですよ。僕はあなたが思っているよりも、ずっといろんな手段を持っているんだ。だけど、せっかく旅行に来たんだ。岩の話はもうやめよう。僕は岩のことより紗枝さんのことのほうが心配です」
「私ですか?」
もう桂木さんに隠し事はないのに。何が心配なのか。
「紗枝さんの幸せはハードルが低いでしょう? 源泉かけ流しとか、揚げかまぼことか」
「運転しながらラジオ聴くとか?」
「そうです。ちょっと心配です。誰でも簡単に叶えられそうなことばかりですからね」
「誰でもいいわけじゃないのに。そんなことでフラフラしませんから」
私と桂木さんは平和な会話を繰り返し、温泉に繰り返し浸かり、豪華な料理を楽しんだ。
桂木さんはときどきどこかに電話をしたりメールしたりしていたけれど、その相手が誰なのか、聞いても「あとで教えます」と言って教えてくれなかった。
私は初めて自分の人生に関わることを誰かに任せた。
不慣れな事なので少し落ち着かないけれど、「誰かに守ってもらう」という経験は、私をとても幸せな気持ちにしてくれた。
◇ ◇ ◇
東京のバーで、六花と菊がひそひそと会話している。
「ふうん、菊がねえ。すごい勢いで鮎川さんの電話番号を教えろって言うから、何事かと思ったわ。助けるためと言うあんたを信じるの、勇気がいったわ。あんたが鮎川さんを助けるなんてねえ」
「あの女を助けたかったんじゃねえ。総二郎さんの役に立ちたかったんだよ」
「なんで? 半分兄弟とはいえ、あんたと総二郎さんはそういう関係じゃなかったでしょうよ」
「借りがあるんだよ、総二郎さんに」
「どんな?」
菊はしばらく渋っていたが、六花は諦めない。
「いつ借りを作ったの?」
「中学んとき」
「そりゃまた大昔だわね」
「あの頃、俺なりに悩みがあったんだよ。親父のことで怖がられるのにはもっと小せえ頃から慣れてた。中学になったら俺に近寄ってくんのは全員俺を見てねえんだわ。親父の力とか金とか見てんだよ。そんなこたぁわかってたけど、そういう連中しかツルむ相手がいなかった」
「まあ、そうでしょうね」
「そんな連中を引き連れて歩いてて、高校生のグループと喧嘩になった。渋谷で騒ぎを起こして、通報されて、警察に連れて行かれた」
「ふんふん」
「親父の名前は出せなかったんだよ」
「怖くて?」
「いや。その頃にはもう、親父は俺に何も期待してなかった。俺、あれ以上親父にガッカリされたくなかったんだ。だから何もしゃべらなかった。他の仲間はみんな親が迎えに来たけど、俺は親のことを言わなかった。口を割らない限り親には連絡がいかないだろ?」
「でも黙ってたら、いつまでも警察から出られないじゃない?」
「だから総二郎さんの名前を出した」
「兄弟として付き合ってなかったのに?」
「その頃、総二郎さんは会社辞めて、一人でなにか始めてたんだよ。親父が『あいつはやっぱり見どころがある』って褒めてた。『総二郎は自分で会社始めたんだぞ』って、親父が嬉しそうでさ。下町の商店街のマンションにいるのは知ってた。だから『兄がどこそこにいます』って言ったんだよ」
六花は菊のこういう部分を知っている。
父親に期待されずに育ったことも、弟の岩に頭の良さで全く適わないことも、総二郎に憧れを抱いていることも。
何度も酒を飲みながら少しずつ聞いてきた。
「そう。総二郎さん、来てくれたの?」
「ああ。夜中に引き取りに来てくれた。総二郎さんさ……」
菊がスンと鼻を鳴らした。
「総二郎さんは、『弟がご迷惑をおかけしました』って何度も警察に頭を下げてくれたんだよ」
「兄弟らしいことなんか、なんにもなく育ってるのにね」
「うん。それだけじゃない。俺になにも聞かないんだ。『なんで自分の家を知ってるのか』も、『なんで自分を頼るんだ』も、なんにも言わないんだよ。俺を引き取ってくれて、夜中もやってる店に連れて行ってくれて、飯を食わせてくれた。豚肉の生姜焼き定食食べてたら『怪我はしてないの?』って心配してくれた」
「ちょっと待って、そのときの菊の気持ち考えたら、私が泣けるんだけど。総二郎さんて、そういう人なのよね。懐が深いのよ」
「それからしばらくして気づいたんだけどよ、総二郎さんは親父との関係を世間に隠してる人だったんだよ。俺との関係なんか、警察に知られたくなかったはずなんだ。なのに迎えに来てくれて、頭を下げてくれた。でかい借りを作っちまったと思った」
「総二郎さんは貸しとは思ってないだろうけどね。なるほどね。そういう経験があったのね。なのに今がコレかぁ」
六花が上半身をのけ反らせ、隣の席の菊を頭のてっぺんから足の先まで視線で二往復した。
「わかってるよ。俺は総二郎さんみたいにはなれねえよ。今じゃすっかり嫌われてることも知ってるよ。だけど、やっとこれで俺は借りが返せた気がする。岩は俺がこんなことしたと知ったら怒るだろうけどさ。それでもいいんだ、俺は」
「あんたのいいところは、私がわかってるから。大丈夫」
「なんだ、じゃあ俺と付き合うか?」
「あのケイトと掛け持ちで? いやよ。ごめん被るわ」
◇ ◇ ◇
結局、母の自伝というか暴露本みたいなものは出ないことになったそうだ。
よかった、と心底思った。これで桂木さんに社会的な迷惑をかけずに済む。
母はこれからもお金のために男の人にすがって、騙せるものなら騙して、生きていくのだろう。
六十近くなって今更母が生き方を変えられるとは思えない。
母は美人で、その美貌を武器にした。
その結果、結婚詐欺で刑務所に入り、父と海外に逃亡し、十八年ぶりに再会した娘にお金をねだるような状況で、ヤクザに利用されそうになった。
マッサージをされながら、なぜ菊さんが情報をくれたのか教えてもらった。
総二郎さんの昔の優しさが母と私を救ってくれた。それは総二郎さんと私の縁に思えた。母だって岩さんとの関わりなんてない方が、更なる転落をしなくて済む。
私は母のことを思いながら六花さんに話をしている。
六花さんのサロンに再び通えるようになったことは、とても嬉しい。施術を受けられることもだが、六花さんとの会話は、友人が少ない私にとって、とても楽しみな時間になっている。
「六花さん、母の人生を眺めていると、女性にとっての美しさってなんだろうと思うんです」
「それはまた哲学ね」
「母が美人じゃなかったら、あんな人生にはならなかっただろうなって。あっ、お客さんを美しくすることが仕事の六花さんに言うべきことじゃなかったですね」
「ううん。それ、真実なのよ。美人なばかりに不幸になってる人って、結構いるもの。女優さんとかね。何万人に一人、何十万人に一人みたいな美貌の持ち主が、どうしようもない男と結婚して、浮気されて、借金背負わされて、離婚して借金返してってやってる人、いる」
「あっ、いますね」
「本人は案外へっちゃらかもしれないけど、一般人から見ると『美女だったがゆえの不運』に思えるのよね」
そこで六花さんは少し沈黙した。
「まあ、私も望みがないことに気づきながら、総二郎さんのために延々と自分磨きに時間と手間を費やしたけどね」
「あ……」
「やめて。同情したら怒るわよ。私は不幸ではないから。総二郎さんだけが生き甲斐ってわけじゃないし。私には仕事がある!」
「私もそれをずっと唱えながら生きてました。『私には仕事がある』って。どこかで誰かに必要とされていると思えば、どんなにつらいときでも頑張れました」
マッサージをしていた六花さんが、オイルで濡れた手でガシッと私の手を握った。
「そう。それ。自分は必要とされている。それがどれだけ私を慰めてくれることか。『私は望みのものをひとつ、手に入れている』そう思うのよ。こんなこと、旦那の出世自慢と我が子自慢をしている専業主婦の同級生には、絶対に言わないけどね」
「ふふっ、それは言わないんですね?」
「女の幸せ自慢でマウント取ろうとしてる相手に、『私は仕事が生き甲斐なの』なんて言って、わざわざご馳走をくれてやる必要ある? 結婚できない独身が遠吠えしてると思われるのがせいぜいよ」
「六花さんほどの方でもそんな意見を気にするんですね?」
「あら。私はこう見えて気が小さいか弱い女なのよ?」
そう言ってから六花さんは「ぷっ」っと吹き出した。私も笑った。
全身を磨いてもらって、六花さんのサロンを出た。
『の……望みのものは手に入れた』
鯛埼町で手に入れた。
電車に乗り、車窓を流れていくたくさんの八重桜を眺めつつ、私は微笑んだ。
幸せで楽しくて、だから私は完全に油断していた。