45 いなくなった少女 『ゐ』
前回に続いて桂木視点です。
紗枝さんの寝顔を眺めながら穏やかな朝を迎えたというのに、菊からの電話は一気に現実に引き戻される内容だった。
「どういうこと?」
「岩んところの下っ端が鮎川……さんの母親に頼まれて探偵をしていたらしくて」
「それは紗枝さんからも岩からも聞いているよ」
「そんで、岩は鮎川さんの親のことで総二郎さんから金を引き出せなかったから、鮎川さんの母親の名前で本を出す計画を立てているらしい。まあ、嫌がらせだな」
「本はどんな内容なの?」
「そこまでは知らねえ」
「そうか。菊はなぜそれを僕に教えてくれるの?」
「俺は総二郎さんに借りがある。忘れてねえ。借りっぱなしは気持ちが悪い」
「そう。案外義理堅いんだね」
「あんときは助かったから。じゃ、それだけだ」
「菊、ありがとう」
「ああ」
紗枝さんが心配そうな顔でこちらを見ている。笑って「大丈夫だよ。おいで」と言うと、浴衣がはだけないように手で抑えながら布団の脇に来て正座をした。
この人は親業に向いていない夫婦の子供として生まれただけだ。ただそれだけの理由で三十歳の今も、こうして不安な思いをしている。
その理不尽さに強い同情と彼女の周囲の人間への怒りが湧く。
だが、僕が怒りを見せれば、この人は自分に責任がなくても恐縮するだろう。鮎川紗枝さんは、親のことで恐縮し怯えながら生きてきた。だから僕は彼女の前では穏やかな表情を崩さない
「岩があなたのお母さんを使って僕に嫌がらせをしたいらしい。ごめんね。僕と岩のことにあなたを巻き込んで」
「母と岩さんは、何をするつもりなんでしょうか」
「本を出すらしい」
「本? 母に文才があるとは思えないないですけど、インタビューしてライターが書くっていう形ですかね」
「紗枝さん、今はそこじゃないでしょ? その本の中で、あなたのことにどこまで触れるのか、問題はそこでしょう?」
「それはそうですけど、小学生のときに置き去りにしてからこの前まで会っていなかったんですから、私のことを書くにしても、材料がないでしょうに」
紗枝さんは「ふぅぅ」とため息をついてしょんぼりした顔になった。
「僕のことかも。だけどここであれこれ想像しても仕方ない。いいよ。その件は僕が片付けます。紗枝さん、朝食までまだだいぶ時間があるよ。朝風呂に入る?」
「入ります! あの、あの」
「一人でゆっくり入りたいんだね?」
紗枝さんは「いえ、そういうわけでは」とかなんとか、ごにょごにょ言っていたけれど、おそらくそうだろう。紗枝さんにとって源泉かけ流しの個室の露天風呂は、きっととても特別なのだ。
彼女の気が済むまで好きなだけ堪能させてやりたい。
露天風呂は外にあるが、屋根は付いている。外からの視線は竹垣で遮られ、内側には植栽が上品に配置されていて、小さな庭になっている。湯船が部屋から見える設計なので、紗枝さんはきっとこちらを気にすることだろう。
せっかくの源泉かけ流しだ。僕の視線が恥ずかしくてくつろげないのでは可哀想だから、僕は背中を向けてお茶を楽しむことにした。
紗枝さんはよほどお風呂が気に入ったらしく、長いこと入っている。水音がしているから溺れてはいないようだが、(こんなに入って大丈夫なのか?)と心配になるほど長湯をしている。
さすがに一時間を超えたところで「紗枝さん?」と後ろを向いたまま声をかけたら「はい」と声がした。倒れてはいなかった。よかった。
少しして、まさにゆであがった状態の赤い顔で部屋に戻ってきた。
「すみません、長湯をしてしまって」
「謝らなくていいよ。楽しめた?」
「はいっ! こんな贅沢をさせてくださってありがとうございます。今日のことは一生忘れません」
(そうか。忘れないのはそっちか)と苦笑したら、少し困ったように眉を下げて僕の顔を覗き込んできた。
「あれ? だめでした?」
「いいえ。この程度の楽しみなら、いくらでも。毎月来てもいいんだよ?」
「そっ、それは、贅沢すぎるような。それに感動が薄れたらもったいないので、年に一度でも十分すぎます」
「わかった。じゃあ、ここには半年に一度は来よう。他の温泉も試してみたいし」
「はいっ」
この人はきっと、買ってあげると言っても高価なものは断るのだろう。それなら彼女が喜ぶ美味しいものと温泉で喜ばせてやろう。
朝食の時間になり、仲居さんが料理を運んできた。
座卓いっぱいに並べられた朝食は、さすがに美味しそうだし手が込んでいる。炊き立ての白米はおひつに入れてあり、さわらの木のいい香りがする。
紗枝さんは湯上りの頬をぴかぴかと光らせて、笑顔で食べている。油断して食事をしているときの紗枝さんは愛らしい。
食後の緑茶を飲んでいると、紗枝さんが母親の話を切り出した。
「母は、どういうつもりでその話を引き受けたんでしょうね。実の親ですけど、私には母の気持ちがわからないんです。桂木さんにご迷惑をかけるのが心苦しいです」
「そんな水くさいことを言わないでよ。あなたが大変なときは僕が助ける。それでいいじゃない。僕はあなたから、生きる意欲をたくさん貰っているんだ」
「そう言っていただけると、救われます」
「敬語禁止」
「は、はい」
そのあと、紗枝さんは中庭を眺めてぼんやりしている。母親がどんな内容の本を書くつもりか、気にならないわけがない。気の毒で胸が詰まる。
「紗枝さん、あなたを傷つけるものからは僕が守るよ。だから安心して任せてね」
「母は……母は、二人で向かい合ってしゃべったとき、『私たち親子なのよ?』って言ったんです」
「そう……」
「母の中で、私は今も母親を恋しがる子供なんでしょうね。子供の頃、私は詐欺師であっても心の何割かは母が好きでしたけど」
そこで口を閉じて紗枝さんが考え込んでいる。
「いいよ。なんでも言ってごらん。言葉に出すと、感情が整理されるものだ」
「私の中に小指の先くらい残っていた母を恋しがる心は、あの瞬間に全て消えてしまいました。私の中に残っていた少女の私を、母が完全に消したんです。『親子なんだよ』って言葉で」
不覚にも涙が出そうになった。
「でも、かえってそれですっきりしたんです。『ゐ……いなくなった少女に別れを告げる』そんな気持ちです」
滲んだ涙をごまかしたくて、紗枝さんに近寄り抱きしめた。
「君を笑わせたい。楽しませたい。それがこれからの僕の人生の目標です」
「ありがとうございます。私も総二郎さんを笑わせて楽しませたいです」
「敬語は禁止ね。それと、僕のことを名前で呼んでくれるんだね?」
「はい。だめでしたか?」
「いいえ。嬉しいですよ」
◇ ◇ ◇
僕は東京に帰ってから、岩が紗枝さんの母親を利用するのを全力で妨害した。
弁護士を使い、都さんを利用し、自分がひそかに集めていた岩とその周辺の男たちの不法行為の情報を使い、岩に圧力をかけた。
岩が知っている僕は「岩が何をしようが一切関係ない。岩とは他人」という態度を貫いていた。だから今、岩はさぞかし驚いていることだろう。
僕は岩が思っているよりもはるかに腹黒く、陰湿だ。
僕は僕の宝物を守るためなら、念入りに手間をかけ、金も人も使い、徹底して相手を妨害することくらい、平気でできる人間だ。