44 電話番号 『う』
思い切って紗枝さんを箱根の温泉旅行に誘ったら、軽い感じで「行きます」と言う。
「全室離れで、露天風呂がついていて」と説明したら、言い終わる前に「行きたいです」「嬉しいです」と元気いっぱいに返事をする。(そんなあっさり?)と拍子抜けする明るさだった。
サービスエリアで休憩していたら、自分を退社に追い込んだ元恋人の幸村薫に見つかり、声をかけられた。
「総二郎さん? 総二郎さんよね? お久しぶりです。薫です」
「ああ、久しぶり」
自分も不快だが、とにかく紗枝さんに嫌な思いをさせないようにしなければと、話は最短で切り上げることにした。
幸村薫はいまさら僕に何の用があるというのか。
さっさとその場を離れたかった。しかしここでこの人を振り切って車に戻ったら、紗枝さんが僕の車を探してうろうろすることになる気がして、立ち去れずにいた。
「総二郎さんは起業して、大成功したのよね。私まで誇らしかったわ」
「は?」
普段は嫌いな相手にも最低限の礼儀は忘れないようにしている僕だが、さすがに不愉快が丸出しの声が出た。
社内で嘘を広め、僕を加害者に仕立て上げたことは、彼女の中でどう処理されているのか。理解に苦しむ。
幸村薫は、「私はただ、あなたに会えて懐かしくて」と腕を伸ばしてきた。腕が得体のしれない軟体動物の触手のように感じられて、無意識に身を引いた。
耐えがたい。
嫌悪感で気分が悪くなった。
やはり車に戻って紗枝さんに電話をかけるか、と思ったところで紗枝さんが戻ってきた。
そして幸村薫に紗枝さんが啖呵を切った。
「うちの桂木になにかご用でしょうか」
(おお? 意外に喧嘩腰?)と思いながら紗枝さんを見たら、黒目が大きい。興奮状態だ。
(ああ、この人、勇気を振り絞って僕を守ろうとしているのか)
そう思ったら愛しさで胸がいっぱいになった。
以前の紗枝さんは僕との暮らしに影を落とすことをとても恐れていた。
僕に迷惑をかけないように、いつでも姿を消せるようにしていた紗枝さんが、僕を守ろうとして相手を威嚇している姿が、なんとも愛しい。
「この人は私のものだ」と相手を威嚇している紗枝さんを見たら、今まで感じたことがないような幸せな気分になった。意識して顔を引き締めていないと、運転しながらもにやけてしまいそうだ。
「紗枝さん、僕はとても気分がいいし、幸せです」
「そうですか」
紗枝さんに少々元気がないのは、揚げかまぼこを落としたからだろう。
落ちた揚げかまぼこを拾って、恨めしそうに眺めているから左手で取り上げてゴミ箱に捨てた。
「ティッシュで拭けば大丈夫なのに」
「さすがにやめましょう。今夜は美味しい夕食が出ますよ」
「豪華で美味しい夕食と揚げかまぼこは別物なんです」
どれだけ揚げかまぼこ好きなんだか、と思ったら笑いが止まらなくなった。
「なんで笑うんですか。貧乏くさいと思って笑ってるんですね?」
「いや、うん、ああ、いや」
「いいです。貧乏くさいと思われても。豪華なお料理とサービスエリアの揚げかまぼこは、別次元の食べ物ですから」
「そうなんだね。わかった。笑ったりしてごめんね」
「いいですケド。桂木さん、絶対にわかってないと思う」
「ケド」のぷりぷりしている口調がおかしくて、また笑ってしまう。
紗枝さんと暮らすようになってから、僕は笑うことが増えた。
紗枝さんが怒るから笑顔を引っ込めようとするのだけれど、できなくて困る。笑うのを我慢しすぎて腹筋が痛くなった。揚げかまぼこの次元ってなに。
思い出し笑いを繰り返しているうちに宿に到着した。宿の人に案内されて離れに入った紗枝さんがはしゃいでいる。
「わあ! 素敵ですねえ! あっ! お風呂がかけ流しですよ! くぅ、贅沢!」
「気に入ったようでよかった。お茶を淹れるけど、飲む?」
「はい!」
早めの夕食になった。
座卓一杯に並べられた料理を、紗枝さんが「美味しい美味しい」と繰り返しながら食べている。美味しいと言うたびごとに僕を見て笑っている。
言うと怒るから言わないが、すっかり懐いた感じの猫だ。
紗枝さんがテラスに出て、ずっと下に見える夜の海を眺めているときだ。
紗枝さんのバッグの中で着信音が鳴った。紗枝さんがテラスから戻って古い方のスマホを手に取り、画面を見てマナーモードにすると、スマホをバッグの奥へとしまった。
「出ないの?」
「出ません」
その表情が微妙な気まずさを漂わせている。
「どうした?」
「以前お付き合いしていた人です。無視していれば諦めるでしょう」
「えっ。元彼の電話番号、消していないの?」
「消したあとに電話がかかってたら、わからずに出てしまいそうだから消していません。消すべきですか?」
「ううん、確かに紗枝さんの言う通りだね。余計な事を言いました。忘れて」
「桂木さんは、別れた人の電話番号は消すんですか?」
「消すし、着信拒否にするけれど、ごめん、そうじゃない。僕は今、ええと、嫉妬したようだ」
さすがに恥ずかしい。いい年して大人げなさすぎた。
紗枝さんはぽかんとした顔で僕を見ていたが、笑顔で僕の背後に回り、首に腕を回すと僕の頭のてっぺんあたりにぐりぐりと頬ずりする。本当に猫みたいな人だとまた笑ってしまう。
「それは、どういう感情の表現なの?」
「嬉しくて幸せで大好きっていう感情です」
「……まいったなぁ。まったくあなたって人は」
紗枝さんを横向きに膝に抱きかかえた。紗枝さんがにこにこしながら顔を赤くしている。
「久々に僕もかるたをひとつ思いつきましたよ。『羽化した蝶は空へと羽ばたいて』です」
「それはどういう……」
「傷つかぬよう、叩かれぬよう生きてきたあなたが、自分の過去を世間に向かって語ったでしょう? 逆風が吹くかもしれないのも覚悟して」
「はい」
「強くなったなあ、生まれ変わったみたいだなあと思っていたんだ。こうして僕を信用して甘えてくれるようにもなったし。本来の強さを取り戻した紗枝さんは、いつの日か遠くへ飛んでいくのかもね、と思いました」
「そんな。どこにも行きませんよ。やっと私のおうちを手に入れたのに」
「飛び立ってもいいんだよ。でも、疲れたら僕のところに戻っておいで」
「遠くへなんて行きません。ずっとそばにいます」
紗枝さんはそう言うと、僕に顔を近づけてきた。
この人はいつも僕を驚かせる。
翌朝、僕の腕枕ですやすやと眠っている紗枝さんを穏やかな気持ちで眺めた。
いつか紗枝さんが飛び立つ日が来たとしても、笑顔で送り出してやろうと思いながら眺める。この人が大切だからこそ、紗枝さんの自由と可能性を奪いたくない。
ヴーンヴーンとくぐもった音が、紗枝さんのバッグの中から聞こえてくる。様子を見たが、しつこく長く鳴り続けている。
「仕方ない、寝かせておいてあげたいけど……紗枝さん、紗枝さん」
「は、はい」
「スマホが鳴ってる」
「あっ、はい」
紗枝さんは半分眠っているような表情で慌てて浴衣を羽織りながら起き上がった。自分のバッグに向かい、画面を眺めて首を傾げている。
「どうしました?」
「未登録の番号なんです。どうしましょうかねえ。あ、切れました」
その番号の正体が誰なのか、直後に僕のスマホにかかってきた電話でわかった。
「菊、僕に電話をかけてくるなんて、よほどのことなのかな?」
「よほどだよ。鮎川紗枝にかけても出ねえから、仕方なく」
「鮎川『さん』ね。呼び捨てにするな。今かけてきたのは菊だったのか。どうやって紗枝さんの番号を知った?」
「番号は六花に聞いた。緊急事態だから」
「緊急?」
「緊急だと思う。岩が、鮎川紗枝……さんの母親を利用しようとしてる」