43 揚げかまぼこを落とす『む』
私と桂木さんは、それぞれ小さめのスーツケースを持って車に向かった。
「本当にいいんですか? 私が運転しますよ?」
「僕が運転したいから大丈夫です」
「わかりました。では桂木さんの横顔を堪能する係になります」
「どうぞ。減るほど眺めてください。小田原厚木道路を使うと、そうだねえ、三時間で着くよ。途中で休憩しながら行きますか」
「はい。減るほど横顔を眺めさせていただきます」
二人で笑い合い、箱根へのドライブは楽しい時間だった。サービスエリアでコーヒーを買い、甘いパンを買い、二人で半分ずつ分け合って食べる。そんなごく普通の日常なのに、なぜこんなにも楽しいのだろうと思う。
そしてすぐに答えが思い浮かんだ。
私、なにも隠していない。全部さらけ出して、それでも桂木さんはこうして一緒にいてくれるからだ。
そうか。世間の人たちは、最初からこういう気持ちで生きているのか。
「紗枝さん、トイレにいってらっしゃい。この先、立ち寄るとしたらコンビニくらいしかないから」
「はあい」
年下の男性としか付き合ってこなかった私は、こんなことを言われるのも新鮮で嬉しい。
ニコニコしながらトイレに行き、売店で揚げかまぼこを買い、桂木さんの車に戻ろうとして屋台と建物の間を通っているときのこと。桂木さんの声がした。その声が妙に硬い気がして、思わず立ち止まった。
「君とはもうなんの関係もない。互いに他人同士に戻ったんだ。それを忘れないでほしい」
「総二郎さん、そんな言い方なさらないで。ただ私はあなたに会えて懐かしくて」
あれ? もしかして修羅場でしょうか。タコ焼き屋さんの角の向こうに桂木さんと女性がいる。ここで私が顔を出したら、全員気まずいのでは?
こういうとき、どうするのが正解なのか。離れるべきか。それともさりげなく二人の前に登場するべきか。どっちも選べず、その場に立っていたせいで、二人の会話が聞こえてしまう。
「あのときの私は、正常な判断ができない状態でした。総二郎さんのことが大切すぎて、あなたには大変なご迷惑をおかけしたと思っています。ごめんなさい。できれば過去のことは水に流してくれないかしら。あなたとは友人になれたら嬉しいのだけれど」
「この世には、水に流せるものと流せないものがあるんですよ。あなたがやったことは、とても水には流せないことです。僕は社会に出て最初に学ぶにしては大きすぎることを、あなたから学びました。あのときの絶望は忘れていませんよ。では失礼」
「待って。お願い、話を聞いてほしいの。あれには事情があったのよ」
これ、私の出番なのでは?
私が量販店でなにかされたと勘違いした桂木さんは、骨折している身で私のために何かした人のところに行く勢いだった。そんな人はいなかったけれど、今、桂木さんの前に困らせている人間がいる。
よし。怖いけど、よし、よし、行く。行こう。
私は揚げかまぼこを持って、タコ焼き屋さんのブースの角を曲がった。
そこには五十代前半くらいのきれいな女性がいた。
女性は髪を上品にセットしていてお化粧もきっちり。すんなりした身体に紺色のアンサンブルを着て、お土産のレジ袋を提げていた。
「お待たせしました。あら、お知合いですか?」
「ああ、昔のね。もう話は終わったから大丈夫だよ。さあ行こうか」
「待って、総二郎さん」
私と桂木さんは同時に振り返った。何か言うなら今だ、がんばれ私。
「うちの桂木になにかご用でしょうか。もう話が終わったと桂木が申しておりますので、私たちはこれで失礼いたしますね」
にっこり笑ってふいっと前を向いた。
不慣れな威嚇をした。心臓が飛び跳ねている。手汗かいてる。あと、膝がカクッてなりそう。
車に向かって進みながら私を見おろしてきた桂木さんに「えへへ」と笑ってみた。
「すみません、『うちの桂木』とか言っちゃって。桂木さんが迷惑しているみたいだったので、つい強気に出てしまいました」
「ありがとう」
桂木さんはそう言ったあとは無言だ。隣を歩きながら、私はちょっと焦っている。
やり慣れないことしたけど、失敗した? 黙って引っ込んでいるべきだった?
さっきとは違う意味で冷や汗が出そう。なんで桂木さんは何も言わないんだろう。
車についた。キュキュッと音を立ててロックが解除される。
私は助手席に座り、桂木さんも同時に運転席に座った。
「あの、出過ぎた真似をして、申し訳……ん?」
「ありがとう。嬉しかったよ。二十も年下の紗枝さんに守ってもらえるとは思っていなかったから、ちょっとびっくりした」
「怒っていま……せんよね?」
「うん。今、ニヤニヤしそうです」
怒っていないのは車に乗ったらすぐに手をつながれたからわかった。ニヤニヤって? どういうこと?
「あの、あの人って、昔の恋人とかですか?」
「そうだね。社会人一年生の僕と付き合って、拘束して、別れたら悪質な嘘の噂を会社に流した人。僕にお金をむしり取られたとかね。甘ちゃんだった僕のこと、退職せざるを得ない立場に追い込んだ人だよ」
「ええっ。だったら私、もっと噛みつけばよかったです!」
「ふふふ、いい、いい。十分。僕の中では完全に終わっている昔の話だから」
「でも、あの人の中では終わってない感じでした」
「そうだね。僕もびっくりしたよ。あんなことをしておいて、友人になりたいって……どういう神経なんだか」
私は一度締めたシートベルトを外した。
「やっぱりもう一度行ってきます。桂木さんに二度と話しかけるなと言ってきます」
「いい。大丈夫だよ。それよりもここにいてください。揚げかまぼこが美味しそうだ」
「あっ、そうでした。熱いうちに食べないと。え? なんで笑っているんですか?」
桂木さんは私の手ごと揚げかまぼこの串を握って、ぱくり、と食べた。
「美味しい。先に食べちゃったね。僕の食べかけ、嫌じゃない?」
「全然嫌じゃないですよ。食べますけど。なんか腹の虫がおさまりません」
そう言いながら揚げかまぼこを食べた。熱くて弾力があって、美味しい。腹を立てていても美味しいと思える私の鉄の胃腸は働き者だ。右手を桂木さんに握られたまま、左手で揚げかまぼこを持ってもぐもぐしていたら、桂木さんがくすくす笑い出した。
「桂木さん、なんで笑っているんですか?」
「さっき、啖呵を切っているときの紗枝さんは、瞳孔が開き気味で目が大きく黒くなってて、戦闘モードでしたよ。かっこよかった。グッときました」
「……」
「紗枝さん?」
「それ、全然かっこよくないですよね? 必死過ぎてかっこ悪いですよね?」
「ううん」
そう言うと桂木さんは私の首に腕を回して私の頭を引き寄せると、耳元でささやいた。
「すごくかっこよかったですよ。惚れ直しました」
「あっ!」
動揺して思わず揚げかまぼこ落としてしまった。
「落としちゃいました。まだひと口しか食べていないのに」
「動揺している紗枝さんは可愛いです」
車を発進させた桂木さんを見る。
イケオジがとんでもなく色気を発散させながら運転している。
「桂木さん、『む』を思いつきました」
「聞かせてください」
「む……『昔の恋を蹴散らして、揚げかまぼこ』です」
「あっはっはっは」
きれいな歯並びを見せて、桂木さんは楽しそうに大笑いした。