42 わかりにくい告白 『ら』
父の裁判が始まるまで、まだまだ時間がかかるのだそうだ。父が罪を認めていないのもあるのかも。
水川刑事によると、母は『四つ葉事件に直接関わっていないから』という理由で、そう遠くない日に釈放されるだろうとのこと。
「水川さん、世の中は強く出た者勝ちなんですね。母がいたから父は詐欺に専念できたのに。母には反省してもらいたいと思っていましたけど」
「犯人隠避ではあるけれどね、罪は軽いんだよ」
「母はたぶん、懲りていませんよ。また誰かから結婚を餌にしてお金を搾り取ると思います」
「話をしていると、お母さんは罪悪感が全くないからね。そのときはまた私が捕まえるよ」
水川刑事と私は、向かい合ってあんみつを食べている。
ここ『あんの家』はあんこを使ったスイーツの専門店。鯛焼き、おはぎ、あん団子、あんみつ、あんバタトースト、あんこロールなどが人気だそうだ。
「私はこの店にもう二十年も通ってるんだ」
「そうなんですか。あんこがお好きなんですか?」
「好きだね。事件を解決したときは美味しさが全然違うよ。不思議だね、このお店のあんこは安定していて同じ味のはずなのに」
「私もそんな経験をしました。心の状態によっていろんなものが変わって見えました」
水川刑事があんみつを食べていた手を止めて「彩恵子さんはずっと大変だったよね。大変にした一端はわたしらにあるんだが」と言う。以前はそう言われても「だから? 今さらなに?」と腹が立った。でも今日は違う。
「水川さんにしてみれば、仕事ですもの。逃げた父さんたちが悪いんです。私はもう気にしていません」
「幸せそうだよね、彩恵子さん」
「やっと生まれてきてよかったと思える毎日です」
「そうですか……。なにか困ったことがあったら相談に乗りますよ」
「ほんとですか。では、そんなことがあったら、頼らせてください」
私がそう言うと、水川刑事は驚いた顔になった。
「ああ、本当に変わりましたね。あなたは私に限らず誰にも頼らない、いや、誰も信じない感じの人だったのに。とてもいい笑顔になって」
「私、以前はどんな顔をしていたんですかね。自分では自覚がなくて」
「それ以上自分に近寄るな、って顔です」
「それ、最近他の人にも言われました。人間不信の野良猫みたいだったって」
「野良猫はまた、ずいぶんな表現だ」
「ほんとのことですから。幸せになると、傷もつきにくくなるんだと知りました。逆を言えば、不幸な人は傷つきやすいんだと思います。私はとても傷つきやすい人間でした。桂木さんは、それに気づかせてくれて私を救いあげてくれた人です」
「いい出会いだったんだね」
「はい」
最後はほんわかした気分で水川刑事とお別れした。
本人にはとても言えないことだけれど、私は長い期間、水川刑事を疫病神みたいに思っていた。なのに今は、仲間のように思える。
そう、ずっと前から頭ではわかっていた。
水川刑事は、仕事をしていただけ。私が気の毒だからと遠慮して父を逃すわけにはいかなかったのだ。水川刑事には水川刑事の立場がある。
刑事に追われるようなことをして逃げた両親が悪いのだ。私は自分が幸せになって、やっとそれを頭でも心でも受け入れられるようになった。座る席を変えたら、見える景色が変わったのだ。
その足で編集部に向かった。百田さんが「打合せしたいことがたくさんある。東京に出てこられる?」と連絡をしてきた。
百田さんは編集部にいて、忙しそうに仕事をしていた。百田さんは四十歳。なかなか子供たちと遊ぶ余裕がないのが今の悩みだと言っていたっけ。
「百田さん、お待たせしました」
「遠いところを悪かったね」
「大丈夫ですよ。打ち合わせしたいことってなんですか?」
百田さんは私に椅子を勧め、コーヒーメーカーからコーヒーを持ってきてくれた。
「鮎川さん、あなたのエッセイ、すごい反響なんだ。読者さんの反応は九割以上がとても肯定的だ」
「九割……それ以外の人はなんて?」
「それは気にしなくていいよ。何を書いても文句を言う人は言う。有名大作家の文章にだって、噛みつく人は噛みつくものだよ」
「そうですけど……。私が気づいていない視点で言われる意見は無視したくない気がするんです」
百田さんは「え?」という顔で私を見た。
「批判的な意見の中に、真実があるかもしれないでしょう? 私が見ている事実は、別の角度からみたら、同じ真実でも違って見えるかもしれないと思って」
「でも、ただ噛みついているだけの文章は僕の判断で取り除かせてもらいたい。あなたが無駄に傷つくことは避けたいんだよ」
「では、どこからどう見ても悪意百パーセントの意見は抜いてくださって結構です。少しでも『おや?』と思う意見があったら、私に回していただけますか?」
「わかった。それでね、好評につき、全三回の予定を全五回に拡大したいと思ってるんだ。今日はその相談と、鮎川さんが受けてくれるなら増やす分について打ち合わせをしたいと思ってる」
全五回になるなら、取捨選択して書くのを諦めたことも書けるのか。
「お願いします。五回、書けます」
「よかった。ではお願いします。『おや?』と僕が思った意見は、全ての原稿を受け取ってから渡すってことでいいかな」
「はい」
「じゃ、さっそく打ち合わせを始めましょう」
みっちり打ち合わせをして、電車に乗った。電車の中でスマホにメモを書く。
何を伝えたいか、それは最初から決まっている。『親が犯した罪を子が背負う必要はない』と伝えたいのだ。
世間も、子供本人も、『あの犯人の子供だから』と思う。
それはもうやめようよ、と犯罪者の子供たちと世間の人に語りかけたい。私の考えを受け入れるかどうかは、読み手の判断。
『私が十二歳から三十歳まで経験したあの苦しみ、希望のない人生、普通を諦めた日々』を淡々と書くだけだ。私の経験を書いた文章で、一人でも二人でも、『親の犯した罪と子供の人生は別。一緒くたにしてはいけない』と思ってくれる人がいたらいいと思っている。
鯛埼町には、今日も気持ちのいい潮風が吹いている。
桂木さんは黒縁メガネをかけて、リビングでパソコンを見ていた。帰宅するなり癒される。
「ただいま帰りました」
「おかえり。打ち合わせ、うまくいった?」
「はい。三回の連載予定が五回になりました」
「おっ。紗枝さんの文章が好評なんだね」
「そうみたいです」
「ねえ、紗枝さん。それが終わるまでは、忙しいのかしら」
「そうでもないです。書きたいことは決まっていますし。どうしました?」
桂木さんが少し恥ずかしそうな顔をして視線を逸らした。うわぁ、美形の照れ顔って破壊力ある。
「箱根の温泉に行きませんか?」
「箱根にも会員になっている別荘があるんですか?」
「あるけど、そこじゃなくて、女性に人気の旅館があるんだ。全室が離れになっていて、露天風呂がついていて……」
「行きたいです」
即答したら、桂木さんが私の顔の少し脇のあたりを見ている。何を見ているんだろうと思って振り返ったけれど、何にもない。
「ええと、塩原では別荘に泊まったでしょ?」
「はい」
「今度は別荘じゃなくて旅館だから、二人で同じ離れに泊まることになるんだけど」
「はい。嬉しいです」
にこにこしながら桂木さんを見ていたら、桂木さんが顔を赤くした。
「やめてください。なんで赤くなるんですか。私が恥ずかしくなります」
「紗枝さんさ、僕と二人で旅行に行って、『この二人はどういう関係だろう』って他の人に思われるの、平気ですか?」
「それ、私のセリフです。『この素敵な男性は、なんでこんな地味子を連れているんだろう?』って思われるのは私です」
「地味子って言うのはやめなさいよ。紗枝さんは素敵な人です」
「私は桂木さんにそう言っていただけたらもう、他人がどう思っても気にしないことにしましたから。実は私、カフェ岬に行ったとき、ちょっと思ったことがあるんです」
言うか言わないか、ちょっと迷う。
「紗枝さん、言いかけたことは最後まで言ってください。気になるでしょうに」
「じゃあ、言いますね。カフェ岬に六十歳ぐらいのご夫婦がいらっしゃって、私、羨ましかったんです。私が桂木さんと同年代だったらよかったのにって」
「なぜあなたが年を取りたいと思うの。それは僕が思うことじゃない?」
「一緒にいても不自然に見えないからです。歳が近ければ、桂木さんと二人でいても人に注目されないから。あの頃は、ただ好きな人と一緒にいるということに、変な憶測を持たれたくなかったんです」
この意味、桂木さんはわかってくれるだろうか。
(私はあの頃から、あなたを男性として意識していました)っていう、わかりにくい告白なんだけど。
そう思いながら見ていたら、桂木さんが私の隣の席に来た。
「紗枝さん、もしかしてあの頃には……」
「はい」
「なんだもう」
「えっ? なんですか?」
「そういうことはもっとあからさまに示してほしかったよ」
「あからさまって」
「どれだけあなたのことで眠れなかったことか」
「ふふ。懐かない野良猫を心配してくれたんですね」
「違います。好きな女性のことで眠れなかったんです」
初めてはっきり「好き」って言われた。
思わず二度見したら桂木さんが真面目くさった顔でこんなことを言う。
「紗枝さん、僕ね、雷鳴が轟くような激しい感情は苦手なんです。静かに穏やかに少しずつ前に進む今のこの関係がとても心地いい」
「はい。私もです」
そして心の中でつぶやいた。『雷鳴よりそよ風に心揺さぶられ』