41 嬉し泣き 『な』
「先生は墨汁をかけた人に注意してくれたんですか?」
「注意したわよ。だって、どう考えても相手が十割悪いんだもの。ただ、相手の子は注意されても平気そうだったけどね。先生も形だけ注意して終わりだった。そのとき中学生の私は悟ったの。『先生に助けてもらうことを期待しても無駄』って」
「そうですか……」
そこで六花さんは名残り惜しそうにチーズケーキの最後のひとかけらを食べた。
「だから私、自分から手は出さなかったけど、やられたら絶対に倍返ししたわ。最初の頃はもう、毎日が戦い」
「聞いてるだけで胃が痛くなるような」
「ふふふ」
六花さんは突然話を変えて私に尋ねた。
「あなたがうちのサロンに来てること、探偵事務所が調べたのかしら」
「はい」
「それ、もしかして岩さんの事務所?」
「たどっていけば、関係してるようです」
「そう。面倒なことになったわね。その情報と引き換えにお金を要求してきたんじゃないの?」
「そのようですが、私、自分の生い立ちをカミングアウトすることにしたので大丈夫です」
「カミングアウトって、まさか……」
「そのまさかです。私が経験したことを正直に書いて、雑誌に載せてもらうことにしました」
六花さんが眉間にシワを作った。
「大丈夫なの? マスコミに載るとね、事情をよく知りもしない一般人が敵に回るのよ? みんなで叩けば怖くないって感じでさ。中にはあなたの個人情報を調べ上げて晒す人だっているかも」
「それは覚悟しています。警察の取り調べや裁判に関係することは書けないので、内容は私の経験と感想がほとんどです。何を言われ、何をされ、どう感じ、どうやって生きてきたか」
「そう……」
「私、ずっと隠れて、逃げて、誰にも注目されないように生きてきましたけど、それはやめにしました。あの両親の子供として生まれてきたことは、私の罪じゃありませんから。前からそれはわかっていましたけど、理屈と現実は違うと思っていたんです。それに……」
その先を言っていいのかどうか、迷った。
「総二郎さんがいてくれるものね」
「はい」
六花さんの言う通り、私が顔を上げて生きようと思えたのは桂木さんのおかげだ。私の正体を知っても、変わらず私に優しくしてくれる人がいる。それがどれだけ私に勇気をくれたことか。
「そうですね。私は桂木さんに顔を上げる覚悟と、人を信じる勇気をいただきました」
「そっか。総二郎さんとあなたは、こうなる運命だった気がしてきたわ。悔しいけれど、私じゃなかった。今日の話を聞いて、なんだか納得しちゃった」
六花さんは「ああ、清々した。こじらせた初恋を供養できた気がする」と言って笑った。
その日はそれで話を終え、鯛埼町に帰った。桂木さんは黒縁のメガネをかけて、リビングのソファーに座って本を読んでいた。
メガネの桂木さんを見られたときは、いまだに(すごく得した)と思ってしまう。
「お帰り。忙しいのかな? せめてこの家ではのんびりしてね」
「はい。ありがとうございます」
「夕飯は外食にしよう。少し海沿いを歩かない? それとも、飲んで家の中でのんびりする?」
「歩きましょう。体がなまっているんです」
春の気配が濃い夜道を、二人で歩く。さりげなく桂木さんが手を繋いできた。最初はドキドキしっぱなしだったけれど、最近はほのぼのする。緊張で手汗をかくことはなくなった。
「りっちゃんから電話が来たよ。紗枝さんのこと、心配してました」
「六花さんは、いい人ですね」
「そうだね」
防潮堤の向こうはテトラポッドが置かれていて、そこに結構な数の釣り人がいる。
「今は何が釣れるんでしょうね」
「春の夜釣りはマダイ、チヌ、スズキかな。ここに住み始めた最初の頃は、せっせと釣りをしたんだ」
「桂木さんはさばくのも上手そうですね」
「凝り性だからね」
そのあとはしばらく無言で歩いた。
以前に二人で昼間歩いた住宅街を通りかかった。テレビの音、笑い声、お風呂を使っているらしい水音。たくさんの生活の音が聞こえてくる。
「紗枝さん、僕は今、驚いているし感動しているよ」
「なんでしょう?」
「一人暮らしの頃にあの音を聞くと、『幸せそうな音を一人で聞いている自分』ていう、なかなかに寂しい構図が頭に浮かんだのに、今はただただ優しい気分になるんだよ。不思議だねえ」
「桂木さんも私も幸せそうな音の仲間入りしましたから」
「そうか。仲間入りしていたのか。あ、そういえば、最近かるたを作ってませんね」
「あっ、すみません。一人で次々作っていました。次は『な』です」
「え?」
桂木さんが「なんだって!?」という表情。
「いつのまにそこまで進んでたの。僕にも聞かせてよ。聞きたかったよ」
「メモしてあるので、お家に帰ったらお見せします」
「よかった。すごく損した気分だった」
「損って、そんな大げさな。桂木さん、明後日記事が載るんです。これから三回連続で過去を語るので、ちょっと緊張しています。好評ならインタビューもあるんですよ」
「記事の影響で周辺が騒がしくなったら、また温泉に行こうか」
この前行ったばかりなのに、また温泉に行けるの? そんな贅沢、お願いしてもいいのだろうか。
「今、すごく嬉しそうな顔になった。いやぁ、よかった。紗枝さん、やっと遠慮の塊から抜け出してくれた。懐かない野良猫が懐いたって感じ」
「やっぱり私のこと、野良猫だと思ってたんですね」
「あっ……ごめん」
「怒ってません。たしかに野良猫でしたから。ふふふ」
そのあとは二人で思い出し笑いをしながら家に帰ることにした。
二日後、私の過去を書いた記事が雑誌に載った。割り込みで記事を入れたから、編集の百田さんは大変だったと思う。
「忙しい思いをさせましたね」とメッセージを送ったら「反響デカい」とだけ返事がきた。あまりに短い返事なので、よほど忙しいか疲れてるかなのだろう。両方か。
一回目の回想録の反響を、編集長が自らメールで送ってくれた。一回目は、子供時代に両親が詐欺師と知った衝撃と、保護施設に自ら進んで入った辺りの内容だ。
「あんまり酷い批判は抜いてあるだろう」とは思いつつ「どれほど叩かれるのか」と恐る恐る読んだら、そこには意外な言葉が並んでいた。
自分の親も犯罪歴があって、いじめられた、つらかったという人。
犯罪者ではないが、なぜ自分はこんな親のところに生まれたのかと苦しんだという人。
他にもたくさん。
そのどれもが「つらい過去があっても真面目に生きているあなたを褒め称えたい」「記事を読んで自分も頑張ろうと思った」というようなことが書いてあった。
途中から泣けて泣けて、タオルに顔を埋めて声を出して泣いた。
よかった。勇気を出して書いてよかった。
階段を駆け上がる音がして、ノックの音。「はい」と返事をしたらドアがガッと開かれた。
「どうした?」
「あ、ごめんなさい。嬉し泣きです。下まで聞こえちゃったんですね」
「なんだ……。じゃあ、いいです。心行くまで嬉し泣きしてください。ああ、驚いた」
桂木さんは「よかったよかった」と言いながら階段を下りていった。
泣き声を聞きつけて走って来てくれる。そんな人と暮らす日がくるなんて。そう思ったらまた泣けてきた。
「な……眺めるだけだった安寧を手に入れる。長いかな」
幸せになりたいとか、愛されたいとか、願わずに生きてきた。何かを願えば自分が苦しくなるだけだから。
でも、これからは願い事をしよう。夢を持とう。親のことで叩かれたら、叩かれたときのこと。外で叩かれても、私には傷を癒してくれるおうちができたのだ。