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4 海と空が溶け合う景色

 桂木さんと私を乗せた車が海岸沿いの県道を滑るように走っている。行き先は大型電器店。

 私は大型電器店でパソコンと充電器を、次にショッピングモールで衣類一式を買い込んだ。


「シャンプーや石鹸は、特にこだわりがなければうちのを使って」

「こだわりは全くありません。遠慮なく使わせていただきます」

「了解。じゃ、帰ろうか」

「はい」


 到着した桂木さんの家は、広い芝生の庭の奥。二階建ての長方形で、建物には木材がたくさん使われている。

 桂木さんに声をかけ、買ったばかりの衣類を全部洗濯させてもらった。洗濯機は洗剤投入から乾燥まで全部勝手に済ませてくれる大型の最新型だった。

 私はいろんな人が触ったであろう服をそのまま身に付けることが恐ろしい。

 この恐怖心があるから、私の服は全て家で洗濯機可か手洗い可のものばかり。

 ベッドでうとうとしていたら、乾燥機がお知らせの音声で私を呼んだ。乾燥し終えた衣類を取り出して畳む。その後はひたすら原稿を書く。


 ひと段落したところで「お茶をいただいてもいいですか」とリビングに顔を出したら、桂木さんはスクエア型の黒い眼鏡をかけて読書していた。元々メガネ男子が好きな私は、ドキッとしたことを悟られないように意識して無表情を作った。イケオジ、黒縁眼鏡が似合い過ぎる。ハラリと落ちてる前髪さえ色っぽい。いただきます、ごちそうさま。


「もちろんいいに決まってるよ。お茶は自分で淹れる? それとも僕が淹れようか?」

「自分で淹れます。桂木さんはどうしますか?」

「じゃあお願いします。ノンカフェインのアッサム。何も入れないで」

「わかりました」


 台所は整然と物が収納されている。木製ラックには日本茶、コーヒー、紅茶、ルイボスティーが整然と蓋付きのおしゃれな木の箱に詰められている。几帳面できれい好きなのが見て取れる。使うたびにきちんと元に戻す習慣がある人の台所だ。

 私は生活費を稼ぐために、引っ越しするまでは家政婦のバイトを定期的に入れていたからよくわかる。

 自分にはカフェイン有りのアールグレイを淹れた。桂木さんはティーバッグ派らしい。


「ねえ鮎川さん」

「はい」

「あなたは買ってきた衣類はそのままは着られない人なの?」

「はい。潔癖症ではないんですが、どんな人がどんな手で触ったのかわからないまま着るのは不安です」

「ふうん。潔癖症じゃないなら、性悪せいあく説の人なの?」

「いいえ、そういうわけでは」


 話が危険な方向に進みそうな気がして、余計なことは言わないよう口を閉じた。

 だが桂木さんはそこで話をやめなかった。楽しそうな顔で話が続けられる。


「潔癖症でも性悪説でもないけど、買ってきた服は洗わないと気持ちが悪いんだね?」

「潔癖症ではないです。全くです。床に落ちた物も平気で食べられます。そして全ての人に悪が潜んでいるとは思っていませんが、悪を身の内に抱えている人間は一定数いると思っています。そんな人がどんな手で触ったかわからないから、すぐに着るのはちょっと」

「なるほど」


 熱湯を入れて三分。きっちり時間をスマホで確認してからティーバッグを取り出した。桂木さんにお茶を運び、自分は行儀悪く立ったまま台所で飲む。今は桂木さんの向かいに腰を落ち着けないほうがいい気がする。


 桂木さんが「面白いことを聞いた」という表情で私を見ているが、気づかないふりをして紅茶を飲む。自分から進んで嘘はつかないが、余計なことはしゃべらない。ずっとそうやって用心して生きてきた。


「鮎川さんはフリーのライターなのかな?」

「会社を立ち上げていますので、正確にはフリーではありません。でも、実情はフリーと同じです」

「社長さんだったんだ」

「はい。ひとり社長です」


 たびたび沈黙が支配して気まずいが、気まずさには負けない。沈黙に負けてしゃべるとろくなことがない。

 

「失礼なことを承知で言うけど、燃えた家は相当古くて傷んでいたでしょう? リフォームするか建て直すのだろうと思ってたら、若い鮎川さんがそのまま住む様子だったから。ちょっと驚いていたんだ。で、どんな仕事をしてる人なのかなと思ってた」

「普通はそう思いますよね、あの家は父の遺産です。私にはあれをリフォームする資金はありませんから。自分で修繕しながら、と計画していました」

「お父さんの遺産なら、思い出が詰まっていたでしょうに。残念でしたね」

「いえ、私はあの家で暮らしたことはありませんから思い出はなにも。お茶をごちそうさまでした。また原稿を書きます」

「はい、頑張って」


 使ったカップを洗って籠に伏せ、ぺこりとお辞儀をしてから部屋を出た。

 階段を上りながら、つい掃除の具合を見てしまう。階段はきっちり拭き清められていた。これはザザッと掃除機をかけただけではない。指の先と布を使って、角の埃まで拭き取ってある。ここで働いている家政婦さんは真面目だ。


 借りている客間に入ると心が安らぐ。他人の家なのにくつろげるのは、桂木さんの人柄かな。

 視界いっぱいに青い海と青い空。海と空の境界線は曖昧だ。こんな景色を眺めながら暮らせるんだと喜んでいたんだけどな。

 火災保険の保険金で家を建て直すとしたら、小さな平屋になるだろう。防波堤が高いから、平屋だと家の中からはあの空と海が溶け合っている水平線が見えないんだと気がついた。


「二階建てじゃないと水平線を眺めるのは無理か。残念」


 私は買ったばかりのノートパソコンを開いて原稿を書き始める。燃えたのと同じ機種を選んだので、使い勝手は同じだ。仕事はいい。仕事は裏切らないし嘘もつかない。

 二時間ほど原稿書きに没頭して休憩したときに、養子にしてくれた鮎川シゲさんを思った。


     ◇ ◇ ◇


 燃えてしまったあの家を、シゲさんから貰うことになったのは一年くらい前のこと。


「紗枝ちゃん、あなたは本当に私によくしてくれたね。だけど私はもう長くない。それは自分でわかるんだ」

「シゲさん、縁起でもないこと言わないでください」

「いいから黙って聞きなさい。紗枝ちゃんは前に『親御さんはなにをしてる人なの?』と尋ねたら、言いたくない、親から逃げてるって言ってたな」

「そうですね。ろくでもない人たちなので、会いたくないです。会えばきっと私は利用されますから」

「我が子を食い物にする人たちか……。そういう人も、この世には確かにいるからなぁ。だけどね、紗枝ちゃんはもう私の娘みたいなもんだ。いや、孫かな。紗枝ちゃんは一度も私から小遣いを受け取らなかったね」

「家政婦として料金を頂いているんですから、当たり前です」

「いいや。本当によくしてくれたよ。家政婦さんの仕事以上に私のために尽くしてくれた。紗枝ちゃんが来てくれてどれほど心強かったか。年寄りの話し相手まで嫌な顔もせずにしてくれた。それでね、千葉の田舎に古い家があるんだよ。私が死んだら、そこを売り払ってお金にしなさい。紗枝ちゃんは相続放棄を書面で渡してくれたけど、あれは捨てた。家はもう価値がないし、土地は安いしたいして広くもないが、小遣いくらいにはなるはずだ。楽しい老後を過ごさせてもらった私からの、ほんのお礼だよ」


 シゲさんは「これを断って悲しませないでくれよ」と笑って断ることを許してくれなかった。

 養子にしてくれただけでも十分ありがたかったのに、家と土地まで。シゲさんは、この世にはこんな人もいるんだなと、人間不信の私に希望をくれた人だ。

 その会話をした十日後に、シゲさんは本当にこの世から旅立ってしまった。


「シゲさん、私頑張るから。そこから見ていてね」


 再びパソコンに向かい、原稿を書き続けた。しばらくして、結構な強さでドアをノックされた。

「はい! はいはい! 今開けます!」

 走ってドアを開けると桂木さんが立っていて、穏やかな笑顔で「夕飯だよ」と言う。


「何度か声をかけたんだけど、聞こえなかった?」

「すみません、集中してしまうと聞こえなくなってしまって」

「インターホンがあればいいんだろうが、私はあれがあまり好きになれなくてね。夕食にしよう。簡単なものばかりだけど」

「なにからなにまでお世話になって……」

「いいよ、気にしないで。本当に簡単だから」


 桂木さんが用意してくれた夕食は確かに簡単なものだったが、食材のクオリティが高くて、一瞬腰が引けるものばかりだった。


「切っただけ、並べただけなんだ。冷蔵庫の整理も兼ねてるから遠慮なく全部食べ切ってよ」

「はい。いただきます」


 両手を合わせ、お辞儀をして食べ始めた。

 高級食材は、瓶から出しただけ、切っただけ、温めただけでも、とても美味しかった。私は好き嫌いがほとんどない。空腹だったので遠慮なく食べた。

 誰かと食事をするのは久しぶりで、楽しかった。自分が喜んでいることに気づいて、少し慌てた。

(いや、ダメダメ。心の中の寂しがり屋を自由にさせちゃだめ。寂しがり屋は心の奥に閉じ込めておかなくちゃ)

 桂木さんが親切にしてくれるからといって、これ以上甘えるのはやめよう。

 それに今の私と桂木さんを他人が見たら、百人が百人とも、私が桂木さんを利用してる、お金をせびっていると思うだろう。


 それだけは嫌だ。男の人に甘えてお金をむしり取るのを楽しんでいた母。あんな醜悪な生き方だけはしたくない。そう見られるのもお断りだ。

 やっぱり住む場所をさっさと決めて、居場所を移そう。


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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― 新着の感想 ―
[一言] 読み始めたばかりですが、お話の世界に引き込まれています。 これからゆっくり読み進めていきますね。
2023/10/28 08:39 退会済み
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