39 強い覚悟 『つ』
桂木さんが自分の部屋から出てきたから何気なく振り返ったら、ちょっと表情が硬い。
「紗枝さん、少しエステは休んだほうがよさそうだ」
「なにか不都合がありましたか?」
「うん……ちょっと」
珍しく桂木さんの歯切れが悪い。
「どうぞ、なんでもおっしゃってくださいな。覚悟して聞きます」
「岩から連絡が来たんだ。紗枝さんのお母さんがお金を借りたところが、たどっていくと岩の息がかかっているところだったらしい」
おそらく母は長く拘置所に置かれて取り調べを受けるだろうし、実刑を下されればその先もしばらくは社会に戻れない。貸したお金を回収できないと判断して、桂木さんに電話がきたのか。
「岩さんのところですか。……すみません、母が借りたお金はいくらですか?」
「紗枝さん、あなたが弁済する必要も責任もないお金だよ」
「だって、桂木さんに連絡が来たんですよね? 娘だからじゃなくて、桂木さんに迷惑をかけたくないから、払います」
桂木さんは苦笑しながら首を振る。
「連絡は受けたけれど、きっぱり断った。岩だって法的にあなたからむしり取れないことくらいわかってるよ。ダメ元で僕に連絡をしてきたんだと思う。僕が断ることも織り込み済みさ。貸しを作れたら儲けもの、くらいのつもりかもね。僕がちょっと困っているのは……紗枝さんが柿田守の娘だと知られてしまった。情報を買わないかって言われた」
ああ、そういうことか。『週刊誌に載せられたくなかったら、金を払え』か。
「紗枝さんが嫌でなければ僕が払う。あなたの心が平和になるならそれでいい」
「いえ……それはちょっと待って。考えさせてください」
「いいよ。ゆっくり考えたらいい」
「とりあえず夕飯を作ります」
今夜はスズキの酒蒸し、アサリのニンニク醤油炒め、白菜と生ハムのサラダ、エノキと豆腐と油揚げのお味噌汁だ。緑が足りないか。急いでブロッコリーのゴマおかか和えを作った。
食卓に着いている桂木さんが、心配そうな表情で私を見ている。
料理を作りながら考えていたが、知りたいことがいくつかある。
「桂木さん、それは岩さんが私の情報が週刊誌に載るのを抑えるということだけですか? そこに桂木さんの情報は入っていないのでしょうか。私、そこが一番心配です」
「紗枝さんは……一を聞いて十を知る人だねえ」
「やっぱり。桂木さんと一緒に暮らしていることも、週刊誌に出るんですね?」
「そうらしい。『あの時の話題の人』と『あの犯人の娘が』という書き方をしたいらしいよ」
料理を全部並べて、夕食にした。
「まずは、いただきましょうか」
「そうだね。食べている間はこの話はやめにしよう」
「せっかくですから」
そのあとは「アサリのニンニク炒めが美味しい」「魚がやっぱり美味しい」「生の白菜も甘くて美味しい」と言い合って食べた。
おなかはいっぱいになった。コーヒーメーカーにドリップペーパーとコーヒー豆をセットした。
「桂木さん、コーヒーはいかがですか?」
「飲みたいです」
ガーッと豆を砕く音。コポコポというお湯を落とす音。いい香りの中、私は猛烈な勢いで考えている。ここは間違えちゃだめだ。私の平穏よりも桂木さんの名誉を優先したい。なんでもかんでも桂木さんのお金頼みじゃだめだ。
それに、この手の要求に一度応じて、それで終わりにするかどうかなんて、保証がない。
「それ、どういう週刊誌ですか?」
「その手の情報を載せているところ」
「大手じゃないんですね?」
「大手ではないね」
「もう少し考える時間はありますか?」
「あと四日なら」
「わかりました」
それから私はずっと考え続けていた。
海沿いの道を走っているときも、掃除をしているときも、湯船に浸かっているときも。
心の中で、まだ形にならないひとつの考えが、もやもやとアメーバのように動いている。
桂木さんはそれ以降、なにも聞かないでいてくれる。
四日目の朝、紅茶を淹れながら覚悟を決めた。
(逃げないって決めたじゃん。一度逃げないと決めた以上、もうだめだってところまでは突き進もうよ)
そう自分に言い聞かせ、心が怯んで考えを変える前に、とある人にメールした。早朝だったのに、すぐさま相手から電話がかかってきて驚いた。
長い電話を終えたあと、紅茶を淹れて飲んだ。
引っ越し当日に焼け出されて、徹夜で家が燃え尽きるのを見届けたあと、この家でパンと紅茶をいただいたっけ。あんな状態のときでも、美味しいものは美味しかった。自覚していなかったけれど、私は昔より強くなっている。
「おはよう、紗枝さん。僕はコーヒーお願いします」
「おはようございます、桂木さん。今、すぐに」
コーヒーを出して、桂木さんに報告の形で私の決意を話すことにした。
「桂木さん、私、連載を書くことにしました。私の生い立ちのことです」
「それは……あなたの実名を出すの?」
「ペンネームを柿田彩恵子にしました」
「それ、前の本名でしょう? 結局は今の名前にたどり着かれるんじゃない? 今の仕事に差し障りが出ない?」
「差し障りは出るかもしれないし、出ないかもしれないです。でも、とりあえず今の仕事の人がオーケーをくれました。その打ち合わせに、今日、東京に行ってきます。お金を要求した側が記事を出す前に、私の連載を始めてしまおう、ということに決まりました」
「僕も一緒に行くよ」
「いえ。これは、私の戦いなので、一人で行ってきます。逃げて生きてきた私と、もう逃げない私の戦いなんです」
「無理してない?」
「無理、してるところもありますけど、いいです。戦って負けたら、へこんでいる私を慰めてください」
「それはまかせなさい」
桂木さんは駅まで送ってくれて、「頑張っておいで」と送り出してくれた。
電車を乗り継ぎ、編集部に着いた頃には、私は本当に『戦ってやる』という気分になっていた。
編集部は、まだ早い時間だから閑散としている。だが私が一歩足を踏み入れると、今までコラムを見てくれていた編集者さんと、編集長が待っていてくれた。
編集長としゃべるのは初めてだ。緊張してしまい、じんわりと額に汗が出た。
「鮎川さん、話は聞きました。これ、かなり反応があると思うけど、大丈夫? 叩かれることは覚悟しておいたほうがいいと思うよ」
「覚悟はしています。みんなが同情してくれるわけじゃないことは、子供のころからずっと経験していますから」
「そう。驚いたよ。あなたはそういう過去を抱えて頑張ってきたんだね」
編集長の言葉に、担当さんが小さく何度もうなずいている。それから私に申し訳なさそうな顔をした。
「鮎川さんがずっと無記名記事を希望していたのは、こういうことだったんだね。知らなかったとはいえ、何度も名前を出せと催促して悪かった」
「私が誰にもなにも言わなかったんですから、謝らないでください」
「わかった。じゃあ、細かいスケジュールと、連載の方向についてざっくり話し合って決めてしまおう」
「はい!」
打ち合わせをしていたら、お二人の顔が微妙に変わっていく。
「聞いていて暗くなりますよね? 編集長、この内容は雑誌のカラーに合わないでしょうか。だめならだめとおっしゃってください。受け入れる覚悟はできています」
「そんなことはない。むしろ子育て世代に刺さる話だと思う。ただ、必ずあなたを叩く人が出てくる。個人的にあなたを心配しているんだよ。鮎川さん、うちに届く酷い意見はこちらで取り除けるけど、ネット上の意見は抑えられない。間違いなくあなたを叩く人が出てくるよ。覚悟はあるの?」
「覚悟は、ここまでの私が作ってくれました。大丈夫です。ここで顔を上げなかったら、私を支えてくれた人たちに合わせる顔がありません」
「よし、じゃあ、今から次号の予告に見出しを入れるよ。話題になることは間違いない」
「よろしくお願いします。最初の原稿はもうできています。赤を入れて送り返してください。すぐに修正して送り返します」
『強い覚悟を消さないように、拳を握る』
今、私はそんな気持ちだ。