38 深山奏のお祝い 『そ』
桂木さんのお母さんと性格が似ていると言われても実感がないまま、ライターの仕事をしていた。夕食の時間になり、台所に向かうと、桂木さんが出てきた。
「少しは落ち着いたかな? あなたの両親がなにをしたとしても、あなたの価値は損なわれない。紗枝さんが納得して飲み込めるまで、僕が繰り返し伝えるよ」
「私、ずっと桂木さんに母のことを言えないままだったのは、隠していたわけじゃなくて……」
「いいよ。気にしないで。さあ、夕飯を作って食べよう。おなかが空いていると考えが暗くなるものだよ」
私が作ると言ったけれど、「たまには僕の手料理も食べて」と言って桂木さんが台所に立った。ぶつ切りにしたタコと針ショウガの炊き込みご飯、シーフードサラダ、鯵の開き、大根おろし、油揚げとお豆腐のお味噌汁。
同時進行で作りながら、一気に全部を仕上げる手際の良さに感心してしまう。
「桂木さん、作り慣れていますね。すごく段取りがいいです」
「一人暮らしが長いからね。どの料理も納得のいく味になるまで繰り返し作っているうちに段取りも覚えたんだ。料理が完成したときに、洗い物まで終わってると気持ちがいいしね。さあ、食べよう」
鰹節の香りのお味噌汁も、こんがり焼けた鯵の開きも、タコとショウガの炊き込みごはんも美味しい。
親に絶望しても、自分の運の無さを嘆いていても、今の私は美味しさがわかる。子供の頃にすき焼きの味がしなくなったのを思い出して、「ふっ」と笑ってしまった。
「なあに? 味がいまいちだった?」
「とんでもありません。美味しいです。笑ったのは……私って、たくましくなったなと思ったからです。小学生の頃に両親が詐欺師と知ったときは、大好物のすき焼きを食べても味がわからなくなったんですよ。でも、今はどれを食べても美味しいんです。私も図太くなったものだなと思って笑ったんです」
桂木さんは鯵の開きにたっぷりと大根おろしをのせ、七味唐辛子を少し振って口に運ぶ。それを飲み込んでから言葉を返してくれる。
「それ、僕が『年を取ってよかったなと』思うことのひとつだよ。若いころなら落ち込んで眠れなくて食欲も出ないようなことでも、今なら平気だ。『あのときに比べたらまだましか』と思える。図太くもなるし、経験が『大丈夫』と励ましてくれる。どんなに傷ついても時間が心の傷を癒してくれるでしょう? 楽になれる日がやってくることを知っているから、耐えられるんだろうね。経験は最良の教師だ」
桂木さんの言葉を噛みしめながら緑茶を淹れた。
二人でお茶を味わっていたらチャイムが鳴った。久しぶりの深山奏だ。ボタンを押しながら「いらっしゃい」と声をかけると、「久しぶりです」とだけ言って深山奏の顔が消えた。
門を開錠して「深山さんです」と言うと。桂木さんは「あれ? なにか用事があったかな」と言う。
リビングに入ってきた深山奏は、桂木さんの前で立ったまま頭を下げた。
「こんばんは。連絡なしに来て申し訳ありません」
「別にいいけど、夕飯は食べちゃったよ」
「飯なら食ってきました。今日は、お借りしていたお金を返しに参りました」
「まだよかったのに」
「もう桂木さんに言われたように車も買いましたし、貯金もできました。お返しできます」
「そう」
深山奏は黒いブリーフケースから茶封筒を出した。
見ないほうがいいような気がしたから、コーヒーを淹れることにして背中を向けた。
「……はい。確認しました。確かに全額あります。思っていたよりも早かったね」
「勤め先が優良なものですから。それに、僕は贅沢には興味がないんです。車だって本当は軽自動車でよかったんです」
「副社長が軽自動車だと仕事先のおじさんに軽んじられるよ」
そうか。深山奏は借りていた学費や生活費を全部払い終わるのか。桂木さんは笑顔だ。よく知っている穏やかな表情。コーヒーを出しながら、私まで嬉しくなる。頑張ったね、深山奏。
深山奏は立ち上がり、桂木さんに深々と頭を下げた。
「僕が大学を出ることができて、こうして生きていけるのは、桂木さんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いいよ。僕は少し手を差し伸べただけだよ。深山君が頑張ったんだよ」
「僕を信じて大金を貸してくださった御恩は、一生忘れません」
「大げさな。お祝いにワインを飲もうか」
「いただきます」
桂木さんが笑顔でやってきて一本を選んだ。
私は冷蔵庫にあるチーズ、食料備蓄用の箱に入っている蛎のオイル漬けの瓶詰、野菜スティックと味噌マヨを並べて椅子に腰を下ろした。
深山奏の目が潤んでいる。それを見てはいけない気がして、私はニンジンスティックをポリポリ齧った。
深山奏が突然鼻をすすり、下を向く。
「深山君、泣きなさんな。清々と笑うとこだよ」
「はい……はい……すみません」
「君はよく頑張った。東奔西走って、君のことだよ。あちこち走り回って、営業を頑張って」
「はい……」
「君が取ってきた仕事でずいぶん稼がせてもらったよ」
「いえ……僕は桂木さんの作ったシステムを売り込んだだけで……」
桂木さんがワインボトルを差し出し、深山奏がグイッと目を拭ってグラスで受ける。ワインを注ぎながら、桂木さんは「君はよく頑張った」とまたつぶやく。
深山奏が、堰が切れたみたいに泣き出した。
「うちが破産して、高校を中退して、コンビニのバイトをしていたころ、僕は、その先の長い長い人生に絶望していました。親父があんなことしでかす前は、『平凡な人生を生きるんだろう』と自嘲してたけど、それがどれだけありがたい未来だったかを思い知りました」
「それでも君は、お母さんを守りながら頑張ってたよね」
「はい……」
「お母さんは? その後具合はどうなの?」
「元気に暮らしています。最近は趣味のちぎり絵を楽しんでいます」
「そうか。よかった」
そこで桂木さんは私の方を向いて説明してくれた。
「深山君のお母さんが心身ともに疲弊してね。深山君は昼間はお母さんの世話をして、夜のコンビニバイトもしていてね。いったいいつ寝るのかと思うような生活をしていたんだよ」
「いくら若くても、それは……がんばったのね、深山さん」
「あの頃、よく鼻血が出てさ、『俺が倒れたら俺と母さんはどうなるんだろう』って、不安しかなかった。福祉課に相談するよう言われて、費用が負担にならない施設も探してくれて、桂木さんがいなかったら、俺と母さんは潰れてた」
「そうだったの」
深山奏は美味しそうに赤ワインを飲み、涙を拭い、照れくさそうに笑う。
「深山君は僕の会社で働きながら高卒認定をクリアしてね、お母さんを施設に預けながら専門学校に通って、僕の戦力になってくれたんだよ」
「すごいね、深山さん」
「なんの希望もない生活を続けていたときのことを思ったら、勉強や仕事は全然つらくなかったよ」
「おめでとう、深山奏」
「ありがとう、鮎川さん。俺は桂木さんの背中をずっと追いかけて生きていくんだ」
「僕の背中より大きな背中を追いかけてよ」
「いえ。僕にとって、世界一大きな背中は、桂木さんの背中ですから」
深山奏は嬉しそうにグラスを重ね、途中で眠ってしまった。
二人がかりで深山奏をソファーに寝かせて、二階から掛布団を運んでかけた。
「彼は本当に頑張り屋さんなんだ」
「そうですね」
『尊敬する背中を追いかける』
私も頑張るよ、深山奏。追いかけたい背中を見失わないよう、頑張る。