37 憐憫 『れ』
「紗枝さん、溶けて消えたいって、どういう意味かな」
「すみません、私、何も考えずに思ったことを言葉にしました。ごめんなさい」
「謝らないでいい。でも、今あなたがどんな気持ちで『溶けて消えたい』と言ったのか、教えてくれる?」
桂木さんの話し方がいつもより静かで抑揚がない。感情を抑えすぎてる気がする。申し訳なくて身が縮こまる。
どんな気持ちかと言われて、最初に思ったのは『もう、なにもかも嫌になった』だろうか。母に会ってなぜそう思ったのか、正直に全部話すのは、あまりに気が重い。
「桂木さんは、いつも私を尊重してくれています。ありがたいと思っています。父のことを知っても、変わらずに接してくれました。でも、東京で母となにがあったのかは言いたくないんです。今日の母は、あまりに醜くて情けなくて、言いたくない……です」
「そう」
桂木さんはしばらく車を動かさず、前方を見ている。車を停めた場所は防潮堤があるから、海は見えない。コンクリートの壁を眺めながら、私も桂木さんも黙っている。空が春の淡い青。(この空に溶けて消えたい)と相変わらず思うけれど、今度は口に出さない。
五分以上過ぎてから。車を発進させた桂木さんは、家に着いても黙っている。
機嫌を損ねただろうか。いい年をして、かまってちゃんみたいなことを言う面倒くさい女だと思われただろうか。
桂木さんに聞いてほしかったんじゃなくて、一人でいても口に出していただろうけど、桂木さんの前で言うべきじゃなかった。ただの独り言で深い意味はないと伝えなければ。
時間を置かないほうがいいと判断して、桂木さんの部屋のドアをノックした。
「はい」
「さっきはご心配をおかけするようなことを言ってしまいました。あれはただの愚痴です。ごめんなさい」
どうぞと言われなかったのでドアの前で弁明していたら、ドアが開いた。優し気な表情の桂木さんに「リビングに行こうか」と言われて移動する。
桂木さんがコーヒーを淹れてくれて、二人で向かい合って座った。
「僕は怒ってないから。謝らなくてもいいんだよ」
「怒らせたから謝ったのではなくて。私の配慮が足りなかったことを謝りました」
「そう。今、紗枝さんはどんなことを考えているのかな」
「面倒くさい女だと思われたかなって。嫌われたらここにはいられないなと思いました」
「だと思った。ここはもう紗枝さんの家でもあるのに。そんなに簡単にこの家と僕を手放さないでよ」
もう何も言えず、ぺこりと頭を下げた。
「お母さんのことで言いたくないことは言わなくていい。もしかして気にしてるのは、お母さんに結婚詐欺の前科があること? それならとっくに知っているけど」
知ってたのか。四つ葉事件の週刊誌記事の中には母さんのことも書いてあったから、それを読んだ? 十八年も前の週刊誌の内容なんて見つからないかと思ってた。桂木さんは情報を扱う仕事の人だから、そんなことは簡単に見つかるものなのかな。
「古いネット記事でも簡単に出てくるご時世だよ。それともお母さんに会って、なにか言われたのかな。なにか要求されたの?」
「言いたくないんです」
「紗枝さん。あなたの全てを知ろうとは思ってないけれど、消えてしまいたいって、なかなか言わない表現だからね。そっくり同じことを、飛び降り自殺を図った女性がSNSの中で書いていたんだ。お見舞いに行ったとき、彼女のご家族が見せてくれた。『眠っている間に心臓が止まったらいいのに』とか『このまま水みたいに消えられたらいいのに』って書いてあった。それから少しして、彼女は飛び降りたんだよ」
本当にごめんなさい。
「私は、死んだりしません。ただ……生意気を覚悟でいいますが、私、経済的にも精神的にも桂木さんに助けられていますけど、全部を寄りかかって生きるんじゃなくて、二人で並んで同じ方向を見て生きていきたいと思ってます」
「そう。それで?」
「桂木さんにべったり寄りかかるような生き方はしたくないし、できません。だから……だから、憐れみをかけられたくありません。みっともない生い立ちの私ですけど、同情されて『可哀想に』って言われるのはつらいです。だから母と何があったかは言いたくないです。かるたふうに言えば『憐憫に二度苦しむ』です」
桂木さんは私を見ない。青い益子焼のマグカップをずっと眺めている。
私、生意気だよね。さんざんお世話になっているくせに、「対等の立場がいい」と言ってるように聞こえるよね。だけど桂木さんに嘘はつきたくない。
「紗枝さんが言いたいことはわかりました」
「生意気を言ってすみません。桂木さんには父のことを話しましたけど、母のことは……惨めすぎて」
「わかった。言わなくていいよ。絶対に命を捨てるようなことはしないと約束してくれる?」
「はい。もちろんです」
「それならいい」
桂木さんはそう言うと立ち上がり、半分ほど残っているコーヒーにカウンターに置いてあったウイスキーをトクトクと注いだ。
「今日はもう仕事はやめだ」
そう言ってウイスキー入りのコーヒーを飲む。
「僕の親の話だけど、父とはあまり一緒に過ごした時間がないから、ひとつひとつの記憶が鮮明なんだ。中学のときに一度だけ『お前は俺の跡を継ぐ気はないか』と尋ねられたけど、『会社員になりたいから』と断ったら、それきりだった。その後も可愛がってくれたから、他の女性に期待できる息子がいるんだろうと思っていた」
「違ったんですか?」
「父は僕に一番期待をかけていたらしい。父が亡くなってから知った。結局、父の跡を継いだのは岩。彼は父の妹の子だよ。岩の父親は組織の中ではあまりうだつが上がらない存在だったらしいけど、岩はのし上がった。岩はああいう世界が性に合ってたんだろうね」
「岩さんが桂木さんをライバル視していたのはそういう経緯があったんですね」
桂木さんが無言でうなずく。
「母は父が月に一度か二度しか来ないことを恨んではいなかったけど、寂しかったと思うんだよね。病気が見つかっても、父にはぎりぎりまで言わなかった。『どうせ助からないなら、心配されるより普通に会って笑ってすごしたいから』って。父のことが大好きだったんだろうね。あんな浮気者なのに」
私ならどうだったろう。助からない病気が見つかったとして……。
「私でもそうするかもしれません。助からないなら、ぎりぎりまで桂木さんと『お味噌汁美味しいね』って笑っていたいような。私、告知に同席したことがありますが、今は驚くほどあっさりと真実を伝えますから」
「告知って、病気の? どんなふうに何を言われるの? 母は僕を同席させなかったんだ」
「鮎川シゲさんが病名を告げられる場に同席しました。家族がいないから、一番頼れる人を連れてきましたと、私を同席させてくれたんです」
三十代のお医者さんはシゲさんに、実に淡々と告知した。
『癌です。肺の太い動脈に病巣が絡みついているのと、あちこちに転移しているので放射線治療も手術もできません。抗がん剤の治療になりますが、この種類の癌はあまり抗がん剤が効かないんです。ステージはⅣです』
シゲさんは『治りますか?』と聞いた。先生の説明を理解していなかった。
『完治は期待できません。進行を遅らせる治療をします』
シゲさんの顔が固まって、告知の内容を理解したのがわかった。
そこから先、シゲさんは身の回りを片付けるのに時間を使っていた。私があの古い家と土地を貰ったのは、告知から二か月後だ。
私の話を黙って聞いていた桂木さんがぽつりとつぶやいた。
「あなたは、母と性格が似ている。今頃気がついた」