36 溶けて消えたい 『た』
「ここで立ち話じゃ寂しいわ。彩恵子ちゃん、そこの喫茶店に入りましょうよ」
「いえ、私はここでいいです」
「いやだわ。どうしてそんな他人行儀な口調なの?」
母さんが私の手を取って引っ張る。
手と手が触れたところから力が抜けていくような気がする。今ここで言い合いになったら叫んでしまいそうで、母さんに引っ張られるまま、古めかしい喫茶店に入った。
母さんはコーヒーを二つ頼んで、店員さんがいなくなるのを待ちかねるようにしてしゃべりだした。
「彩恵子ちゃん、名前変えたのね。苦労させたのね。ごめんね。あのとき、あなたをフィリピンにはとても連れて行けなかった。日本に残していけば、ちゃんとお国が面倒を見てくれるけど、フィリピンに連れて行けば、食うや食わずの生活になるだろうと思ったの」
「そうですか」
「恨まれても仕方ないと思っているわ。でもね、あなたのことは一日だって忘れたことがないの」
プール付きのマンションに住んでいたのに?
電話の一本、手紙の一通もよこさなかったのに?
「お母さんね、別の人の名前で帰国したの。お母さんまで逮捕されちゃったら、お父さんを支える人がいなくなっちゃうもの。彩恵子ちゃんを探したら、名前を変えていたでしょう? そこからは探し出すのが大変だった。探偵事務所の人に、いっぱいお金を取られちゃった」
探偵か。どれだけ料金を払ったら、私を捜し出せるのか聞いてみたいところだ。何十万? まさか百万を超えることはないよね。
ん? だとしたら、エステの広告で私を見つけたんじゃなくて、私がエステに通っていることを知ってから広告を見て気づいたのか?
「それでね、彩恵子ちゃん。さっき一緒にお蕎麦屋さんから出てきた人、彩恵子ちゃんの旦那さん?」
「違います。職場の雇い主です」
「そんなわけない。お母さんにはわかる。彩恵子ちゃん、あの人と想い合ってるわよ。素敵な人ね。お金持ちでしょ? 見たらわかる」
「何が言いたいんですか?」
「あのね、恥ずかしいんだけど、お金を貸してほしいの。お母さん、お父さんを支えるためにお金が必要なの」
「他の男の人と暮らしていたのに?」
「知ってたの? ああ、警察か。他の人と一緒に暮らしていたのはお父さんのためよ。決まってるじゃないの」
互いに日本語を話しているのに、母が何を言っているのか理解できない。
私はお財布からお札を全部取り出してテーブルに置いた。
「今、二万三千円あります。あげます。その代わり、もう私に関わらないでください」
「彩恵子ちゃん……私たち、親子なのよ? お母さんがおなかで育てて、死ぬほど痛い思いをして産んだのよ?」
『た……探偵の仕事ぶりを恨む』これは使えないな。だって、世間にこのかるたを披露するんだもの。探偵が何を調べ上げたのか、公表できないし。
「このお金はありがたくお借りするわね。必ず返すわ。ねえ、さっきの男の人、素敵な人だったわねえ。お母さん、彩恵子ちゃんがお世話になっていますって、ご挨拶したいんだけど、だめかな?」
「お母さん、私はもう三十だから。雇い主への挨拶はいらないの。お金はあげます。それしかあげられませんけど。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
私はトイレに行き、水川刑事に電話をかけた。
席に戻り、のらりくらりと母の質問をはぐらかし続けた。桂木さんに強い興味を持っている母に、片っ端からでっちあげて説明した。
愛妻家でお子さんが三人いる、とか。
私はアパートから仕事場に通っている、とか。
やがて外に赤色灯を回転させているパトカーが停まった。そこから先はもう、悪夢を見ているようだった。
水川刑事と若い刑事さんが店に入り、私たちの席に近づいてくる。母が気づいて逃げ出そうとした。もちろん逃げられるわけはない。すぐに確保されて、母は私を見て泣きながら連行されていった。四つ葉事件の関係者として。
「鮎川さん、通報ありがとうございました。また近いうちに事情を聞かせてください」
「はい」
騒然とした店内から逃れて、さっき見た花屋さんに向かう。
歩いている間中、心からダラダラ血が流れている気がした。ずっと(助けて。助けて。誰か助けて)と声に出さずに繰り返した。
桂木さんからメッセージが入った。
『用事終わりました。今どこ?』
なんて返そうか。どこまで話そうか。母さんの泣き顔を繰り返し思い出してしまってしんどい。
『さっき通ったお花屋さんにいます』
桂木さんが笑顔で花屋さんにやってきたとき、私はピンクのチューリップの大きな花束を抱えていた。現金がないからカードで買った。「あるだけ全部ください」なんて言って花を買ったのは、人生で初めてだ。
「どうした? なにかあったね?」
ピンク一色の大きな花束を抱えて、私は意識して明るく笑っていた。なのに桂木さんは私になにかあったことをひと目で見抜いた。
実の母親とは言葉が通じなかったけど、桂木さんはすぐわかってくれた。それが嬉しいのと同時に悲しい。
「車に乗ろう。どうする? 家に帰る? それともどこかに行く?」
「おうちに帰りたいです」
「わかった。行こう。駐車場まで頑張れる? 花束は僕が持とうか?」
声を出したら絶対に泣いてしまうから、子供みたいに首を縦に振ったり横に振ったりして返事をした。唇を強く噛みすぎて血の味がする。
コインパーキングに停めてあった桂木さんの車に乗り込み、足元にチューリップを置いた。それから両手で顔を覆って深呼吸を繰り返した。
桂木さんはエンジンをかけ、何も言わずに車を走らせている。
他の人が見たら、桂木さんが私を泣かしているように見えるだろう。申し訳ない。だけど、どうにも我慢できなかった。私はずっと顔を覆ったまま声を出さずに泣いた。
しばらく泣いたら少し落ち着いた。
深呼吸しようとしたけれど、引きつったような呼吸しかできない。車はもう、海底トンネルを走っていた。
バッグからハンカチを取り出して、ベシャベシャになった顔を拭く。
母が桂木さんに女として詐欺師として興味を持っていたのがもう、気持ち悪くて仕方ない。
桂木さんを母の汚れた手で撫でまわされたようで不愉快極まりなかった。
でもそんなこと、さすがに言えない。
「コーヒーかラテ、飲むなら買うよ?」
「今はいりません。おうちに帰りたい」
「わかった」
鯛埼町につくまで、そのあとは二人ともずっと無言。
車内に入ってくる外気の匂いが潮の香りに変わった。もうすぐだ。もうすぐおうちに着く。
「かるたの『た』を考えたんですけど、使えないやつでした」
「どんなの?」
「探偵の仕事ぶりを恨む、です」
「そう……誰があなたのことを調べたの?」
「私の母です。他人名義で日本に帰ってきていて、私のことを探偵を使って調べたそうです。桂木さんのことも見られました。今は警察にいます。私が通報しました」
「僕は見られても気にしないけど」
そうか。そう言えば私、父のことは話したけど、母のことはまだ何も話していなかったっけ。
ああ、言いたくないなあ。
『母は結婚詐欺師で、あなたのことを男性としても獲物としても見ていたようです』なんて、恥ずかしすぎて言いたくない。
「もう、溶けて消えられたら楽なのに」
何も考えずに心に浮かんだことを言ったら、桂木さんがブレーキを踏んだ。
海沿いの県道の左端に車を寄せて、桂木さんは怯えた顔で私を見る。しばらくハザードランプのカチカチいう音と波の音を聞いていた。
「ちょっと待ってね。あんまり驚いたものだから」