34 惨めな気持ち 『か』
週に一度ずつ東京に通うようになったので、編集者さんと顔を合わせる機会が増えた。
「鮎川さん、この前のインタビュー記事の評判よかったよ。ボランティアの人の。『あれを書いたのは誰だ』って、あちこちから聞かれたんだ」
「そうですか。嬉しいです」
「今度、シリーズを担当してみない? 社長シリーズとか、女優シリーズみたいに、特定の立場の人をインタビューするコーナー、連載でどうかな」
「ぜひ! お願いします。無記名で」
「なんでさ。名前を覚えてもらおうよ。仕事の幅が広がるよ?」
「いえ、私は書いた記事が読まれればそれで充分です」
「変わってるねえ」
何度も「変わってる」と言われて苦笑しながら早々に席を立った。それ以上長居していると「名前を出したくない理由でもあるの?」と聞かれる気がするから。
歩きながら心の中で思いを言葉にする。最近、かるたは自分の気持ちをはっきりさせるのに便利だと気がついた。短い言葉で表すのがいいのかもしれない。
「か……『変わり者には過去がある』まあまあかな。変わり者には理由がある。……過去がある、のほうがいいか」
六花さんのサロンで施術を受けているとき、「鮎川様のお肌の状態が改善していく様子、今度女性週刊誌に載せていいでしょうか。目線部分はモザイクを入れて、誰かはわからないようにいたしますので」と言われた。
「手はかまいませんが、顔は遠慮したいです。私、顔に小さなホクロがいくつもあるので、見る人が見れば私だと気づかれそうな気がします」
「ホクロといっても、ごく小さいものですし、お化粧したら消えるのですから、気づかれませんよ」
「いえ、でも」
私はお化粧をしないことも多いし、母さんはホクロを覚えているかもしれない。
しばらく沈黙したあと、六花さんが口調を変えた。
「誰かに追われているってわけじゃないんでしょう?」
「追われてはいませんけど。ごめんなさい」
「この小さなホクロに気づく人なんているかしら。いるとしたら総二郎さんくらいよ。鮎川さんが嫌ならお肌の拡大画像だけにするけど、残念だわ。お肌に張りが出て、顔が若くなってきているのに」
「ごめんなさい」
六花さんはそれ以上は何も言わなかった。
私が嫌がったので、女性週刊誌の広告に載るのは手と顔の一部分だけになった。『うちのサロンに毎週通うと、こんなにきれいな肌に変わりますよ』と連続して写真を並べるのだそうだ。
身銭を切っていない分、私の画像で六花さんのお役に立てるなら、私に異存はない。
「ねえ鮎川さん、お茶する時間ある?」
「はい。一時間ぐらいでしたら」
六花さんの運転する車で、いかにも都会のカフェという感じのお店に入った。塀で囲まれた中庭と店内に、観葉植物がぎっしり展示されていて、販売もされている。大きなヤシの木や、ゴムの木、黒い竹まである。
「一時間しかいられないのは、夕飯までに帰らなきゃならないとか?」
「はい」
「ふうん。私が総二郎さんに振り向いてもらえなかったのは、料理をしないからかなあ」
「全くしないんですか?」
「しない。あのね、毎日作り続けないと食材が腐るじゃない? それが嫌なの。でも、食材を無駄にしないようにしようとすると、もはや『作らねばならぬ』になるから、それも嫌」
「ねばならぬ、は嫌ですよね」
「仕事してジムで運動して髪とお肌と爪と歯のお手入れして、睡眠時間を確保しなきゃならなくてさ。『やらねばならぬ』がすでにたくさんあるんだもの」
「確かに。お仕事柄、お忙しそうですね」
「鮎川さんは、料理はするけどお肌のお手入れには時間を使わないのね」
「すみません」
六花さんはオーガニックな素材にこだわったという野菜ジュース、私は有機栽培のコーヒー。
「本当はね、なんちゃらフラペチーノっていう類が好きなの。脂肪と糖質しかないようなやつよ。でももう罪悪感で飲めない。これも『ねばならない』かもね」
「身体に良いものでなければならない、ですか?」
「それ。面倒よねえ。鮎川さんはあるの?『ねばならない』って心を縛られること」
一番は『素性を知られてはならない』だけど、その次はなにかなあ。
「走らねばならない、ですね」
「ジョギングしてるの?」
「はい。ちょっとでもいいので、走らないと気持ち悪いです」
「へえ。だから贅肉がないのか」
「それは食べ物にあまりお金を使えなかったからかもしれません」
「いまどき?」
「いまどきです」
我ながら笑ってしまうが、世の中には食費を節約しなくては生きていけない人なんて、いっぱいいるんじゃないかな。違うのかな。
「なのに総二郎さんからお金は受け取りたくないの?」
「お金をいただく理由がありませんので」
「二人で暮らしているのに、理由なんて要る?」
「家事労働の対価としてお部屋を使わせてもらってますから、それで十分です。光熱費も食費も桂木さんに負担していただいていますし」
「負担していただいてる? ほおおん!」
そこで六花さんが身を乗り出して、声を潜めて話しかけてくる。もう、何を聞かれるのかわかってしまった。
「鮎川さんと総二郎さんは……」
「なにも答えませんよ」
「まだ何も言ってないじゃないの」
「言わなくてもわかります。答えません」
苦笑していると、店の外に見覚えのある赤い車が止まり、見覚えのあるロン毛が下りてきた。
菊だ。六花さんが中にいるのを知っていたようで、店内に入ると客席を見回し、まっすぐこちらに向かって来る。
私に気づいて「ああ」と言うと、勧められていないのに空いている席に座った。
「六花、明日、パーティーがあるんだ。一緒に来てくれよ」
「どんなパーティー?」
「アパレル関係のだ」
「やめておく」
「んだよ」
「ごめん。今、菊と親しくしてるのを知られると従業員を守れなくなる」
「マスコミ関係は来るなあ。じゃ、いいわ。邪魔したな」
菊はあっさり引き下がって、去って行った。
「はっきりおっしゃるんですね」
「私一人の問題じゃないからね。家族を抱えて働いているスタッフもたくさんいるし。菊にいい顔をして従業員に迷惑をかけるわけにはいかないもの。どっちがだいじか、私、そこは間違えないようにしているつもり」
「かっこいい」
「私はいつだってかっこいいわよ」
いつもこそこそ逃げている自分が恥ずかしくなる。
「私の母親がそういう気風のいい人なの。私が幼稚園のころから『六花、誰も見ていないようでも、お天道様はちゃんと見てるんだからね』っていうのが口癖でさ。母のことは尊敬してるの。女としても人生の先輩としても」
「素敵なお母様ですね」
私、今、猛烈に劣等感を感じている。
「そろそろ帰りますね」
「まだ三十八分しかたってない」
「また来週参りますので」
今の日本に身分の差はないけど、こういう差はある。
無性に誰かに会いたかった。今の惨めな気持ちを吐き出したい。腹の中に溜めておきたくない。落ち込んだ心で鯛埼町に帰りたくない。
美幸さんは仕事だし、桂木さんに話したら、もっと惨めになりそうな気がする。私の惨めな気持ちを理解してくれそうなのは、美幸さんと深山奏しか思い当たらない。だから深山奏にショートメールを送った。
「愚痴聞いてもらえるかな。今、銀座なんだけど」
「一時間なら」
深山奏から即返事が来て、コーヒーチェーン店の地図が送られてきた。