33 忘れたころに 『わ』
エステサロンに到着した。受付の女性に『オーナー自ら施術を担当する』と言われた。
「鮎川様には、しばらく毎週通っていただき、まずは手荒れとお顔の乾燥を改善したいと思います」
「お願いします。でも、お忙しいでしょうから六花さんが施術してくれなくても」
「いえ、鮎川様は大切なお客様ですもの。私にお任せください」
鯛埼町でくだを巻いて泣いていた人とは、雰囲気も言葉遣いも別人だ。見事な切り替わりっぷりに感心する。
六花さんは長い髪をアップにしていて、ラウンドネックの紺色の制服を着ている。きりりとした眉を生かした薄いお化粧は薄く見えるだけで、きっちり作り込んでいる手間のかかるメークと思われる。
以前インタビューしたヘアメイクアーティストの言葉を思い出した。
『ごてごて化粧を重ねるよりも、一見薄化粧に見えるメイクのほうが手間と技術が必要です』
スチーム、蒸しタオル、入念なマッサージ、パックなどを経て、全ての施術が終わった。血行が良くなって、私は湯上りみたいなけだるさに襲われている。
「これが施術前のお肌の状態で、こちらが施術後のお肌の拡大画像です」
「肌の状態が全然違いますね」
「鮎川様の場合は、とくに手の荒れが進んでいましたので、今後も改善されていく状態を画像に残させてくださいませ。ご協力をお願いします」
「顔が出なければ、私はかまいません」
渡された化粧品は種類が多い。正しく使いこなせる自信がなかったが、これらは全て桂木さんのお財布から出ている。最後まで使い切らないと申し訳ない。
「鮎川さん、お願いがあるの。総二郎さんを悲しませないで、あの人、あんな見た目でお金持ちなのに、不幸なの。私が幸せにしてあげたかったのに、私は選ばれなかった」
言葉遣いが変わった。
「あの人を幸せにしてやってよ。総二郎さん、以前は、気力を失ってた。でも私は何もしてやれなくて、会うたびに悔しかったわ。鮎川さん、あの人を裏切ったりしたら、絶対に許さないんだから」
「裏切りません」
「絶対よ? 私はあの人に選ばれたくて、きれいでいようって、ずっと頑張っていたんだから」
最後に強気の表情で私を睨んだ六花さんは、悔しさ、諦め、寂しさ、愛情、いろんな感情が漂う表情をしていて、息をのむほど美しかった。
◇ ◇ ◇
せっかく東京に出るので、今日は美幸さんと待ち合わせをしている。
駅の改札を出たところで待っていると、ヒマワリのように明るい笑顔の美幸さんが小走りでやってくる。
「彩恵子ちゃん! お待たせ! 久しぶりね。あれ? なんだかきれいになってる」
「やめてよ。変わってないって。少し肉がついたくらいよ」
お昼は美幸さんが選んだ和食のお店で、ちょっと贅沢なお弁当を食べる予定だ。
「お父さんの件、どうなった?」
「裁判はかなり先になるらしいよ。余罪がありすぎて、裏付け捜査が大変なんだって。私は覚えていることは全部電話で話をしたから、記録に残すためにそのうち正式に呼ばれるらしい」
「お父さんに会ったって言ってたけど、大丈夫だった? メンタルやられなかった?」
「大丈夫。案外あっさり終わったの」
松花堂弁当を頼んで、少しずつ盛り付けられたおかずを食べながら、二人でひそひそと会話をしている。四人掛けの席が衝立で仕切られているから、こんな話題も声の大きささえ気をつければ安心して話せる。
美幸さんは多分、それを知っていてこの店を選んだのだろう。昔からそういう配慮ができる人だ。
「彩恵子ちゃんを選んだ人は、懐が深い人なんだね。よかった。気づいていないかも知れないけど、表情が明るく柔らかくなってるよ」
「私? そうかな」
「お肌もツヤツヤだし。幸せそうで安心した」
「美幸さん、いつも心配してくれてありがとう。遠くの親戚より近くの他人て、美幸さんのことよね」
「私たち、ある意味普通の姉妹より強いつながりがあるじゃないの」
確かに。美幸さんに出会えたのは、私の引きの強さだと思っている。
食事を終え、そろそろ帰ろうかと言う頃になって、美幸さんが思案顔で話を切り出した。
「彩恵子ちゃんのお母さんて、どうなったの?」
「それが驚くことに、父さんと暮らしていなかったのよ。何年も前に家を出て、別の人と暮らしているらしいの。刑事さんの話では、父さんもどこにいるか知らないらしいよ。なんで?」
美幸さんが眉間にしわを作って考え込んでいる。胸の奥から嫌な予感が湧き上がってきた。
「若草学園に『柿田彩恵子の連絡先を教えてほしい』って電話があったんだって。中年か初老の女性だったって、園長先生から電話が来た。もちろん園長先生は『何も知らない』って答えたって。私なら彩恵子ちゃんの連絡先を知っているだろうから、注意してやってほしいって言われたの」
「まさか……」
「そのまさかな気がするんだよね。彩恵子ちゃんが若草学園にいたことまでは、調べたわけじゃん? お父さんが捕まった直後に彩恵子ちゃんの行方を知りたがるって、お母さんじゃないの? 名前を言わなかったらしい」
「マスコミかも」
「マスコミなら名乗るよね?」
今までのほわほわとした楽しい気分が一気にしぼむ。電話の主がお母さんでもマスコミでも、ろくなことにはならない。
「私は絶対に教えないから。そこは安心して。他に彩恵子ちゃんの連絡先を知っている人は?」
「刑事さんだけ。あとは役所の人と仕事先、保険会社とか」
「結構あるね。気をつけなよ?」
「うん。教えてくれてありがとう。園長先生にも、手紙でお礼を書いておく」
美幸さんの目がいきなり潤んだ。
「今どき電話もしにくいなんてさ。彩恵子ちゃんはなにも悪くないのにね」
「若草学園は番号非表示だと繋がらないようにしてるから、仕方ない。手紙ぐらい、たいした手間じゃないって」
美幸さんと別れ、鯛埼町に着いたのは夕方の六時ごろ。
帰りの電車をメッセージで桂木さんに送ったら、駅まで車で迎えに来てくれた。
「おっ。お肌がピカピカしてるね」
「こんなに調子がいいのは子供の頃以来かもしれません」
「で、美幸さんからなにか悪い話でも聞いたの?」
「あっ。暗い顔をしていましたか? 実は……」
どう切り出したものかと悩んで考え込んでいる間、桂木さんは急かさない。家に着いて話し出せるようになるまで、待ってくれた。
「もしかしたら、母が私を捜しているかもしれません。養護施設に女性の声で、私の連絡先を尋ねる電話があったそうで」
「関わりたくないなら、知らない番号には一切出ないことだよ。ライターの仕事先のことがあるだろうから、とりあえずもう一台買って、そちらは仕事で関わるたびに変更を知らせていけばいい。ゆくゆくは新しいスマホだけを使うようにしたら?」
「そうですね。そうします」
そこからの桂木さんの動きの早さといったら。
私を車に乗せてスマホを買いに行き、各種アプリが使えるようになるまで、本当に素早かった。
「すごい。早いですね」
「僕の分野だから。お礼は例のかるたでお願いします」
「次は『わ』……忘れた頃に捜される。あまりに冷淡でしょうか」
桂木さんが首を振る。
「忘れるまでにどれだけ時間が流れたのだろうと、想像させられる。鮎川さん、約束してほしい。なにかあったら、必ず僕に相談してくれる? 報告もしてほしいと言ったら窮屈かしら」
「いいえ。なにかあったら、報連相をします」
「うん。頼むね」
私は、その日の夕飯作りを頑張った。地魚で散らし寿司。エビ、アジ、イサキ、ブリ、タコ。最後に錦糸卵ともみ海苔。酢飯に具をたっぷりのせて「美味しいですね」「美味しいねえ」と何度も言い合って食べた。
いつもより陽気に振舞っている私は、父よりも母を恐れている。心ならずも母に会ってしまったら、父のときのように毅然としていられるか自信がない。母に飲み込まれそうな恐怖を感じている。