32 六花さんの罰 『を(お)』
磯料理のお店で、六花さんは日本酒をゴクゴク飲んでいる。最初はお猪口だったけど、今はコップだ。お酒に強いのか、やけ酒なのか。
「なに見てるの? 鮎川さんは飲まないの?」
「いただいています」
「なに? 私のことを可哀想とか思ってんの?」
「思っていません」
六花さんはお刺身の盛り合わせと「漬け丼の漬けだけちょうだい」という頼み方をして、ずっと飲んでいる。
「りっちゃん、酒癖悪いね。あんなに可愛かった小学生がこうなるのかと思うと、時の流れって怖いよ」
「総二郎さんがそれ言うかな。特権階級が一般人を見下してるでしょ? 上手に歳を取っちゃって」
「なんのことさ、特権階級って」
「総二郎さんみたいな人、たまにいるのよね。劣化しない人」
「ごめんね、鮎川さん。この人のことは気にしないでいいから食べてね」
六花さんが桂木さんを大好きなことは、彼女が家の中に入って十秒でわかった。
桂木さんを見るときだけ、目の奥でパチパチと花火が燃えている。全力で桂木さんを好きだと叫んでいるような迫力があった。
情熱的な人なんだなと思った。桂木さんは、どうしてこんなに一途で美人で情熱的な人を選ばなかったのか。
一緒に暮らして二か月くらいの私が偉そうに口には出せないけれど、もしかして桂木さんは、「私を愛して」と求められ続けることに疲れていたのだろうか。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ、鮎川さんは『山を越しちゃったな』って思ったことある?」
「山、ですか?」
「人生の山よ。私は三十を過ぎたあたりでジワジワそれに気づかされてさ、四十になってすごく実感した。私の人生は、山を下ってる。これからきっとシミができてシワができて、白髪になって、街を歩いていても景色の一部になって……」
「りっちゃんはたくさん稼いでいるエステサロンの社長さんでしょ。まだまだ山を登ろうと思ったら登れるでしょ?」
六花さんがフッと鼻で笑った。
「お金いっぱい稼いでさあ、何に使うのよ。ブランド物のバッグを持ってもタワマンに住んでも、だからなにって思うわよ。贅沢してお金使って、だからなに? ってある日思っちゃったのよね。四十のおばさんが着飾って高いバッグ持ってたって、若い女の子がぴちぴちの肌でTシャツ着ているほうが美しいのよ。生命力ほど美しいもの、この世にはないもの」
「私は、山を登るなんて考えたことないです。谷底に落ちなければいいと思って生きていますので」
「うっわあ。感じわるっ。谷底に落ちないようにしていたら、総二郎さんに見初められたって言いたいの? なにそれ、いい子ぶっちゃって」
はぁ、と桂木さんがため息をついた。
「今日は一段と酒癖が悪い。りっちゃん、タクシー呼ぶから、そろそろ東京に帰ったほうがよさそうだ」
「やだ。こんな美味しいお魚、全部食べてから帰る」
そこから三十分もしないうちに、六花さんは泥酔してろれつが回らない口で「悔しい、悲しい、私の三十二年を返せ」と繰り返していた。
「これはタクシーに乗せたら危ないな」
「吐くかもしれませんし」
「仕方ない。家に連れて帰ろう」
「それがいいですね」
そしてグデグデになった六花さんを桂木さんが肩で担ぐようにしてタクシーに乗せ、三人で家に帰った。私の隣の部屋に寝かせて、ドアを開けておいた。何があっても私が目覚めて駆けつけられるように、私もドアを開けて寝た。
夜中を少し過ぎたころ、六花さんの泣き声で目が覚めた。
小学生の子供みたいに「ひいぃん」と泣く声。しゃくりあげて泣いている声が胸を締め付ける。
私はあんなふうに泣いたことがない。一人で泣くときでさえ、声は出さずに泣いてきた。
どうしようかなと思ったけど、吐くことはなさそうだ。
六花さんの酔いが覚めてきたのなら、水分を取ってもらった方がいいかも。
足音を忍ばせて一階に行き、具のないお味噌汁を作った。出汁だけはしっかりとった具なしのお味噌汁は、体の水分が不足したときによく効く気がする。
「どうしたの? 眠れないの?」
「あら? 桂木さんこそどうしたんですか?」
「りっちゃんが泣いてるから目が覚めた」
「ごめんなさい。吐いたらと心配で、ドアを開けていました」
「優しいね」
桂木さんはそのままカウンターの内側に入って来て、立ったまま私の手元を見ている。
「りっちゃんは自分で言うほど孤独じゃないから、心配しないでいいんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。あの人は一人でいられない人だから」
桂木さんができたての具なし味噌汁を自分でマグカップによそって飲む。
「美味しい。鮎川さんは出汁を取るのが上手だ」
「手間はお金がかかりませんから。貧乏性ゆえ、です」
桂木さんは私とは視線を合わせずに、立ったまま話し始めた。
「りっちゃんは寂しがり屋だから、いつだってグッドルッキングガイが周囲にいたよ。彼女を本気で好きな人もいたんだよ。僕に執着してるのは、唯一、僕が思い通りにならなかったからだと思うよ」
「そうでしょうか。私、六花さんは本気で桂木さんのことを好きなんだと、いえ、愛しているんだと思いますけど。ただ、引き際が難しかったのかも」
「引き際か」
私も具なし味噌汁を飲んだ。鰹節と昆布でとった出汁の香りがいい。
「詐欺犯罪の本を山ほど読んで、いろいろな本に書いてありました。騙される人は、いえ、たいていの人は、自分が差し出したものを無駄だったと認めたくないのだそうです。自分がやったことは無駄ではなかった、そう思いたい生き物だと」
「それで?」
「授業料だと思って諦めるって、よく言うでしょう? 失ったものに理由をつけたいんですって。無駄に捨てた、ではなくて、あれは授業料だったと思わないと苦しいから。六花さんは……あまりにたくさんの心を桂木さんに差し出したから、なにか理由がないと引き下がれなかったのかも。かるたふうに言えば『降りるべき駅を見逃して乗り続ける』って感じに」
桂木さんは何も言わない。
「まあ、私みたいな他人にあれこれ推測されたら不愉快でしょうから、このへんでやめます」
「鮎川さんは、そういう人、いなかったの? 心を差し出しすぎて、引き際がわからなくなるような人」
そう言われて思い出した。
高校生の頃、とにかく好きだった人がいたっけ。
「いたんだね」
「いましたけど、身の程をわきまえていたので。何も言わず、高校を卒業しました」
「もし、今その人に会ったら……ああ、なるほど」
「なんです?」
「以前、僕に執着していた人の気持ち。ひっきりなしに『今どこにいて何をしているのか』と問い詰めていたのか。今わかったような」
桂木さんが遠くを見るような目になった。
「当時は嫌悪感と恐怖しか感じなかったけど、あれは……」
「姿を変えてしまった愛情、でしょうか」
「鮎川さんは……そんなことをしそうにないよね。僕に執着なんてなさそうだ」
思わず隣に立っている桂木さんの顔を見上げた。
「執着してほしいんですか?」
「鮎川さんになら。あなたは何も言わずに僕の前から消えそうな気がするよ」
「そんなことはしません。もし出て行くとしたら、ちゃんとお別れの挨拶をします。でも、今は……」
そこまで言ったところで桂木さんに抱き締められた。
「やっと一緒に暮らしたい人ができたら、その人は思い通りにならない。まさかこの年でこんな歯がゆい思いを経験するとはね」
「桂木さんが出て行けというまではここにいますから」
突然階段の上から大声が降ってきた。
「むかつく! 夜中になにやってるのよ! ほんとむかつく!」
泣き腫らした六花さんのお顔は、子供みたいになっていた。ダダダと階段を下りてきて、カウンターに入り、お鍋の中を覗いた。
「私も飲む! おっきいおどんぶりで飲む!」
「あっ、はい」
一番大きな漆の器に具なし味噌汁をよそって渡すと、六花さんはふうふうと吹いて冷ましながらお味噌汁を飲んだ。
「ネギがあったら入れてほしい。あと、とろろ昆布もほしい。あと、鰹節も入れてほしい。あと梅干しも!」
「はい」
注文された具を全部少しずつ入れると、黙ってお味噌汁を飲んでいる。飲み終わった六花さんが、ティッシュでビーム! と威勢よく鼻をかんで、また泣き出した。
「来なきゃよかった。菊がやめろっていったの、正解だった。とどめを刺されに来たけど、やっぱりとどめなんか刺されないほうがよかった」
泣いてまた鼻をかんで、お味噌汁のお替りを飲んで、また泣いている。六花さんをどうしたらいいかわからなくて、そっと背中をさすった。手を払いのけられるかと思ったけど、そのまま動かず、私に背中をさすられるままだ。
「菊とまだ付き合ってるの? 世間に知られたら商売ができなくなるって言ったのに」
「ただの飲み仲間だもん。世話になってないもん。鮎川さん、今度、私のサロンにいらっしゃいよ。あなた、手が酷いし顔も乾燥してる。総二郎さんの隣にいるなら、きれいになってよ。今のままじゃあんまりよ」
「はい。ありがとうございます。うかがいます」
「私、社交辞令を言う人が大っ嫌いだから。絶対来てよね。いつ来る? 何月何日? 何時何分?」
「クッ」
完全に小学生の口喧嘩みたいになっていて、思わず笑ってしまった。
「六花さんのサロン、必ずうかがわせてください。でも、お金がないのであまり通えません」
「総二郎さん! どういうこと? この人にお金、渡してないの?」
「この人は受け取らないんだよ。じゃあ、りっちゃんのお店の分は僕が払うよ」
「もちろんそうしてもらうわよ。一番高いコースね。あと、化粧品も一式、全部買ってよ」
「いいよ。わかった」
「いえ、私はそんな贅沢は」
「うるさい。いいの。私が我慢ならないの。総二郎さんにがっつり払わせてやる。私の三十二年を台無しにした罰よ。それにあなた! 私が負けましたって思うくらい、きれいになりなさいよ」
こうして私は六花さんのエステサロンに定期的に通うことになった。