31 六花(りっか)
東京。菊が住むマンションの部屋。
スーツ姿の女が菊を質問攻めにしているが、菊は返事をしない。ソファーに座ってテレビに目を向けている。
「同居? あの総二郎さんが? 女嫌いで、どんな女も寄せ付けなかった総二郎さんが? 若い女と暮らしてるの? 美人なの? ねえ、菊、どんな女なのよ!」
「落ち着けよ六花。若いったって三十近い感じだったけどな。総二郎さんはその女のこと、ずいぶん大切にしてた」
「ああもう、だから言ったのに。菊は総二郎さんのこと『女より男が好きなんじゃないか』って言ってたけど、私、違うと思ってたのよ。で、どんな人?」
「普通。いや、まあまあ美人か。でも六花のほうが美人だぞ。ていうかお前、まだ総二郎さんを狙ってたのか?」
六花がげんなりした顔で菊を見る。
「下品な言い方しないでよ。大好きだったの! 純愛なの! 三十二年間も! ああ、菊の言うことなんか信じなきゃよかった。馬鹿だったわ、私」
「そうじゃねえだろ。振り向いてもらえないから『総二郎さんは男が好き』ってことにして、自分を慰めてたんだろ?」
「うるさい。黙れ」
六花は桂木総二郎が母と二人暮らしをしていたころのご近所さんだ。年齢は四十歳。ぱっと見は三十二、三歳くらいに見える。菊とは新宿のバーで知り合った。
話をしているうちに、たまたま菊が憧れの総二郎の従弟と知って、親しくなった。
「六花、諦めろよ。お前は総二郎さんにとって、妹とかご近所さんとかなんだよ」
「うるっさい。言われなくてもわかってるわよ。だけどさあ、菊。全てのプライドを投げ捨てて、『都合のいい女でもいい』って迫ったのに、それでも私、振り向いてもらえなかったのよ? 今になって女と同居なんて。なんでよ、総二郎さん……」
「うーわ、重っ。いてっ」
菊の頭をペチンと叩き、六花は窓の外を見る。三十五階の窓の向こうに、東京の街並みが広がっている。
六花は実業家だ。エステサロンを経営していて、着々と店舗数を増やしている。現在の店舗数は七。もっと増やすか現状維持でいようか迷っているところだ。
「どんな女か、見に行ってくる」
「やめとけ」
「やだ。行ってくる」
「おい、りく!」
「うっさい」
六花は菊の部屋を飛び出し、タクシーを拾うと「千葉県の鯛崎町まで」と告げた。運転手は顔をほころばせる。
「高速を使ってもよろしいですか?」
「もちろんよ」
運転手は上客を捕まえたのでご機嫌だ。なんだかんだと六花に話しかけていたが、六花の険しい顔をルームミラーで見て口を閉じた。
タクシーの中で、六花はやり場のない怒りと悲しみを持て余している。
最初に六花が総二郎に会ったのは八歳のとき。
総二郎は高校三年生で、背が高くて整った顔の優しいお兄さんだった。八歳の六花にも丁寧な口調でしゃべってくれて、勉強を教えてくれたり、六花のたわいないおしゃべりを聞いてくれたり。
両親が忙しい時は、総二郎の家で夕飯をご馳走になって、トランプで遊んでもらったりした。
「総二郎さんは私の初恋の人だ」と自覚したのは中学二年のときだ。
それ以降、総二郎の誕生日、クリスマス、バレンタインデーと、機会を作っては告白し続けたが、総二郎が振り向いてくれることはなかった。
総二郎は「ありがとう。りっちゃんは妹みたいに大切な人だよ」という身も蓋もない返事だけを返し続けてきた。
「片思いでもいい。私には総二郎さんと仕事がある」と自分に言い聞かせていたし、総二郎が結婚した時は(絶対そのうち離婚する。総二郎さんが、あんな独占欲の強そうな女と上手くいくわけがない)と信じてその日を待ち続けた。
六花の希望的観測は大当たりして、総二郎は泥沼の修羅場を経て離婚した。
「今度こそ私が!」
そう思ったが、それは完全に六花の方だけで、総二郎はまともに取り合ってくれないままだった。
「なんでよ、総二郎さん。なんで私じゃだめなのよ」
思わず声に出し、(しまった)とルームミラーに目をやると、運転手と目が合った。
「独り言なので。聞こえないふりをしてください」
「はい。失礼いたしました」
そこからの車内は沈黙が支配する。二時間半ほどでタクシーは鯛埼町に到着した。
門のインターホンを鳴らすと、「はい」と女性の声。六花はことさらツンとした口調でインターホンに向かって語りけかる。
「総二郎さん、いらっしゃる? 私、一宮六花です。そう言ってくれればわかるから」
「少々お待ちくださいませ……一宮様、どうぞお入りください」
カチャリと音がして、門が開錠される。
「お入りください、か。自分の家みたいに。腹立つ」
自分でもとんだ八つ当たりだと思いながら、玄関までのコンクリートのアプローチを歩き、六花は自分の身なりをチェックする。
サンドベージュの丈の長いジャケットと、ゆったりしたパンツ。亜麻色のコットンのカットソーは首がクシュッとしたタートルネック。アクセサリーはピアスだけ。揺れるピアスについているのは大粒のダイヤだ。
「よし。似合ってる」
自分を励まして、(総二郎さんを落とした女に会ってやる)と深呼吸をする。
そして(自分よりいい女だったら、一人でやけ酒を飲んで終わりにしよう)と肩に力を入れ、玄関のドアを開けた。
桂木総二郎が出迎えてくれて、リビングに通され、その女は穏やかに微笑みながら緑茶を出してくれた。なんということもない地味な女だ。
お茶を出されたときに素早く確認したが、左手の薬指に指輪はしていない。そしてずいぶんと手が荒れていた。
手荒れしているのを見てから顔も見る。皮膚の薄い、肌がデリケートなタイプだ。
「総二郎さん、この方は?」
まるで初めてその存在に気づいたような顔をして尋ねると、総二郎は見たこともないような柔らかな視線を女に向けて、「鮎川紗枝さん。僕の大切な人だよ」と言う。
(大切な人? この地味な女が? 私とどこが違うわけ? ううん、違う。私よりどこが上なわけ?)
六花は全く納得がいかない。
目の覚めるような美人であってほしかった。「参りました。さすがは総二郎さん」と打ちのめされるような女性のほうが諦めがつく。なのに。
「りっちゃん、ここまでタクシーで来たの?」
「うん。総二郎さんに会いたいなぁと思ったら、我慢ができなくなっちゃって」
「そう。ありがとうね。でも次からはアポとってね。いないことも多いんだから」
「アポなんて言い方しないでよ。他人行儀な」
「他人でしょう?」
「もう、総二郎さんの意地悪。あ、そうそう、神楽坂の秀ちゃんにこの前会ったわよ。総二郎さんに会いたがってた」
「ふうん」
わざと女が知らないであろう共通の話題を出した。自分でも意地が悪いと思う。
だが、総二郎は話題に乗ってこないし、鮎川と言う女性は台所に立ってなにかしているだけで、こちらを見ようともしない。それも腹立たしい。
(正妻の余裕ですか。若くして財産も地位もあって、ルックスもいい総二郎さんを射止めた余裕ですか)とイライラする。
「鮎川さんは、お仕事はなにを? もしかして、家事手伝い?」
女はにっこり微笑んで「フリーランスのライターです」と言う。
「総二郎さんとはどこで知り合ったの? インタビューかなにかで?」
「いえ。私の家は市道をはさんだ隣にあったのですが、火事で焼けまして。その日から桂木さんが私を助けてくれたんです。感謝しております」
「へえ。総二郎さんて、昔から困ってる人を見ると黙っていられなくなるものね。いかにも『らしい』エピソードだわ」
(ああ、言葉に棘がある。こんな言い方したら負け犬の遠吠えみたいじゃないの。馬鹿だ、私)
六花がそう自戒したとき、総二郎が笑っていない目を六花に向けた。
「りっちゃん、何が言いたいのかな? 鮎川さんを攻撃する気なら、帰ってもらうよ」
「攻撃なんてするわけないじゃない。やだわ、総二郎さんたら。おめでとうございます。やっと総二郎さんも……再婚する気になったのね」
瞬間、リビングの空気がピリッとした気がした。
(え?)と女の顔を見ると、明らかに視線が落ち着かない。
(ははん。結婚できない事情でもあるのかしら)と見当をつけた。
「あら。再婚しないの? すればいいのに。二人ともまだまだ若いんだし」
「りっちゃん。僕の私生活に踏み込むのはやめてね。それ、僕と鮎川さんの問題だから。鮎川さん、ここに座りなさい」
「はい」
総二郎の声も、視線も、全部欲しいと願って手に入らなかった種類のものだと思いながら、六花は二人を見る。
「私、帰るわね。総二郎さんが元気かどうか確認したかっただけだから」
「そう? 夕飯、外で食べてからにすれば? 鯛崎町の魚は美味しいんだ」
「あら、総二郎さん、日本中の美味しいものは、全部東京に集まるものよ? お金さえ出せば、どんな美味だって手に入らないものはないわ」
「あの」
「はい?」
女が六花に話しかけてきた。
「ここのお魚は本当に美味しいです。貝のかき揚げとか、金目の煮つけとか、さんが焼きとか。お刺身の盛り合わせも、とても美味しいんですよ。お夕飯を召し上がってからお帰りになりませんか? 桂木さんのおすすめのお店、どこも当たりです」
そう話しかける女の目が、表情が、全身が『愛されている女のオーラ』を発していて眩しい。
六花は意地になった。
鮎川紗枝を見る総二郎の表情にも愛情があふれていて(やってられないわ)とばかばかしくなる。
(だけど……負け犬は負け犬らしく、最後に負けを確認してから帰ろうかな)
「そう。あなたがそう言うなら、食べてから帰ろうかしら」
六花と紗枝の付き合いは、ここから始まる。