30 おうち 『る』
十八年ぶりに会った父は、あまり見た目が変わっていなかった。年齢よりずっと若く見える。
フィリピンで暮らしていただけあって日に焼けてはいたが、(ああ、そうそう、こういう顔だった)と思う。
「彩恵子。来てくれたのか。ありがとうな」
「お久しぶりです」
目を潤ませて私を見ていた父が、「すまない」と言って頭を下げる。
私に下げられた父の頭を見て、白髪は増えていることに気づく。妙に心が冷静で動かない。
「父さんを恨んでるよな。ごめんな。謝って許されることじゃないのはわかってる。彩恵子のことは、一日だって忘れたことがない。どうしているかと、ずっと心配していたよ」
「そう。ありがとう。日本の冬は寒いでしょうね」
「寒いけど、父さんは頑張るよ。これは冤罪なんだ。父さんな、誰かにはめられた。詐欺なんてやってないんだよ。だからすぐに出られる。彩恵子、父さんがここを出たら、一緒に暮らそう」
人の好さそうな笑顔。目尻に滲む涙。穏やかな話し声。
なにも知らない人ならきっと、父と少し会話しただけで父を『いい人』のカテゴリーに分類するだろう。
「彩恵子、お前が会いに来てくれてると聞いて、父さんは嬉しくてなあ。ゆうべは眠れ……」
「お父さん、聞かないの?」
「うん?」
「私がどうやって育ったか、結婚したのかしていないのか、今はどこに住んで何をして働いているのか、聞かないの?」
「あ、ああ、そうだったな。お前に会えた嬉しさで、父さん、自分のことばかりしゃべっちゃったな。ごめんよ、彩恵子。教えてくれるかい? 彩恵子がどうしていたのか、もちろん知りたいよ。決まっているだろう」
「私、今、住み込みで家政婦してる。肌が弱いから手荒れしちゃうけど、やりがいのある仕事よ」
父の顔から少し穏やかさが消えた気がした。
「あんまり稼げていないから、父さんに差し入れを持ってくるにも、高価な物は買えなかったの。でも、暖かそうな肌着を持ってきた」
「家政婦? お前、そんな仕事をしてるのか。なんでまた家政婦なんて。もっといい仕事はなかったのか? 顔だって可愛いんだ。もっと稼げる仕事があっただろう」
「ないよ」
「ないわけないだろう」
「お父さん、お父さんは有名な犯罪者なの。その上逃亡犯だもの。どこに就職しても居場所がなかった。名前を変えて派遣で働いて稼ぐしかなかったよ」
父の顔からごっそり表情が抜けた。急に目つきが鋭くなったが、その表情は一秒くらいで消えた。見間違いかと思うほど、短い時間だった。
そこから父はまた優しい、善良そうな、悲しそうな顔になって私に謝罪し続ける。
(あれ? 本当に反省してる?)とうっかり信じてしまいそうな、そんな顔と口調。
「いいよ。もう謝らなくていい。謝ってほしくて来たんじゃないの。お別れを言いに来たの。親子として会うことは、たぶんもうないから。十二年間、お世話になりました」
「そんなことを言わないでおくれよ、彩恵子。やめてくれ。やっと会えたんじゃないか」
「早く罪を認めたほうが、裁判も早く進むんじゃないかな。生きているうちに塀の外に出られると思うよ」
「彩恵子、そんな。悲しいことを言わないでくれよ」
「田中のおじさま、昨日はピアノの発表会に来てくださってありがとう」
私が子供の口調でそう言うと、父がぎょっとした。
「私、そういうセリフを言わされて、詐欺の片棒担がされたよね。あの頃の私は五歳? 六歳だったかな。覚えていないと思ってた? お父さん、私、全部覚えてるのよ」
「彩恵子、まさかそのこと、誰かに言ったのか? 言ってないよな?」
「これから言うつもりです。余罪も全部償ってほしいです。じゃあ、もう帰るね。会えてよかった。元気でね」
父が腰を上げ、仕切りの透明な樹脂の板に両手をついた。
「父さんはお前を育てるのに必死だったんだよ! 学もなけりゃ頼りにできる親もいなかった。必死だったんだ! お前を守るのに必死だったんだよ。彩恵子、父さんを見捨てるのか?」
「水川刑事に聞いたよ。フィリピンではプール付きの豪華なマンションで暮らしていたんだってね。いいじゃない、刑務所に入って罪を償ったとしても、おつりがくる人生だと思う」
立ち上がり、父に頭を下げた。この世に送り出してくれた分、十二年間育ててくれた分。
頭を上げて父を見たら、父の表情が一変していた。怖い顔で私をにらんでいる。
「この、恩知らずが!」
「ふふ。やっと本当の顔を見られた。さっきまで詐欺師の顔だったもんね。じゃあ、さようなら。どうぞお元気で」
父は無言で立ち上がり、私に背中を向けた。覚えている背中より小さい背中を見送って、私も立ち上がる。涙は出なかったし、怒りも湧かない。(ずーっと抱えていた苦しみの最後は、こんなものか)という脱力感だけ。
建物を出ると桂木さんが待っていた。
「お疲れ様。大丈夫?」
「はい。案外あっさりしたお別れでした。気が済みました。待っていてくださったんですね」
「鮎川さんが元気なかったら、慰めるのは僕の役目ですよ」
「嬉しいです。元気になりました」
助手席に乗り、シートベルトを締めて、外を見る。この高い塀の中に父がいると思っても、心に波は立たない。私が冷たいのかもしれないけれど、(これでもうお終わりなのね)と拍子抜けした。
「どうする? どこかでお茶でもする?」
「いえ。鯛埼町のおうちに帰りたいです。あの岬のカフェでお団子が食べたいかも。桂木さんのご都合がつけば、で」
「都合はつけるものだよ。帰ろう。お団子食べて、海を眺めよう」
「ありがとうございます。桂木さんのお顔を見たら、すっかり元気になりました」
「まかせなさい。僕に直せない鮎川さんの機嫌はないよ」
「わ。なんか、モテる人のセリフですね」
「ふふふ」
高速を走り、アクアラインのサービスエリアで温かいラテを買い、助手席でちびちび飲んでいる。
「もっと修羅場を想像してましたけど、全然でした」
「そう。僕は鮎川さんが元気ならそれでいいよ。無理してない?」
「無理はしていません」
「それならよかった」
鯛埼町まで、電車を乗り継ぐとかなりの時間がかかるけど、高速だとそうでもない。二時間ほどであのカフェに着いた。オーナーさんは変わらない穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
「鮎川さんはどこがいい?」
「ではまたカウンター席で」
青い海が見える席に着く。お団子とほうじ茶を二人で頼んで、味噌クッキーも頼んだ。お団子も味噌クッキーもしみじみ美味しい。
「私、桂木さんがいてくれるから勇気を出せました。一人だったら……私を待っていてくれる人が誰もいなかったら、きっと父を恨んだまま、会いに行くこともできなくて、ずっと恨んだまま生きていたと思います」
「それは……苦しいね」
「はい。苦しいまま下を向いて生きていたと思います。誰かを憎んだり恨んだりするのは疲れますから。だから私は出会った人みんなに感謝して生きてきたんですけど、心の底では両親を……ものすごく憎んでいたんです。もう、それをしなくて済むのかと思ったら……」
「楽になった?」
「生まれ変わったかと思うほど、心が楽です。桂木さん、私を救ってくださってありがとうございます」
桂木さんは返事をせず、ほうじ茶を飲んでいる。
私は窓の外を眺める。岬に生えている草は茶色に枯れていて、その向こうにある冬の海は寒そうだ。
「救ってもらったのは僕だよ」
「ん?」
「鮎川さんに救ってもらったのは僕のほうなんだよ。毎日が楽しいよ。ありがとうね、鮎川さん」
「私が桂木さんを救うなんて。私はなにもしていません。ただただお世話になっているばかりじゃないですか」
「違うよ。仕事に燃えて会社を大きくしたいなんて野望は、もうなかったからね。この先どうやって残りの時間を使おうかと思う日々だった。目標のない先の時間が長そうで、ちょっとげんなりしてたんだよ。精神的に疲れていたんだろうね」
右隣に顔を動かすと、私の知らない桂木さんの顔が見える。
普段はとても若く見える桂木さんの横顔が、年齢相応の疲れが滲んでいるように見えた。
「今はね、また頑張ろうって思えるよ。鮎川さんが美味しそうに食べている様子を見ていると、まだ前に進もうっていう気になる」
「シャーシャー言ってた野良猫が懐きましたものね」
「あっ。それ、根に持ってるんだね? 意地悪で言ったわけじゃないのに」
「怒ってはいません。そんな可愛いたとえ方をしてもらって喜んでます」
そこでまた二人で海を見る。
「全力で鮎川さんを守るつもりだから、逃げ出さないでね」
「逃げ出す? いえ、私は逃げ出す場所もありませんて」
「鮎川さんは……」
そこで桂木さんが言い淀んだ。珍しいことだ。
「鮎川さんは、二十代の、これから未来が広がっている人と寄り添うこともできる。そういう人を選べば、その人と長く生きていけるでしょう? それを思うと、すごく悪いことをしているなと思う。鮎川さんに申し訳ないと思うんだけどね、それでも意地汚く鮎川さんの優しさにしがみついて離したくないと思う自分がいて驚くよ」
この人はなにを言っているのか。そんな若い人とは付き合えないんですよ。付き合ったとしても結婚はできないんですよ。その人だけじゃなく、その人の親兄弟、親戚に迷惑をかける存在だから、私は逃げながら生きてきたんですよ。
心の中でそう思ったけど、言葉にはしなかった。
その代わりに、カウンターの置かれている桂木さんの左手に、そっと自分の右手を重ねた。
「今夜は何を食べたいですか? お鍋はいかがです? 鯛しゃぶにしましょうか。寄せ鍋もいいですね。水菜と鯛と、お豆腐と油揚げと……」
「いいね。鯛しゃぶ。買い物をして帰ろうか」
「はい。おうちが一番」
物語の主人公、ドロシーのセリフで返事をした。
養護施設の二人部屋で繰り返し読んでいた『オズの魔法使い』。美幸さんに「いったい何回読むのよ。好きだねえ、その本」と言われたオズの魔法使い。
「おうちがいちばん」そう思える家がほしい、と願い続け、憧れていた十代の私。
「いいね、その言葉。おうちが一番」
「いい言葉でしょう? 大好きな、憧れのセリフです」
車に乗って、かるたの言葉を思いつく。
「る、できました。『流浪の日々を歩いて家に帰る』どうです?」
「いい言葉です」
「さあ、お買い物をしてから帰りましょう。桂木さんのあのおうちに」
「またそういう意地悪を言う。鮎川さんのおうちでもあるでしょうに」
おうち。
優しい言葉を口の中で転がして、自然に笑顔になった。