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3 コーヒーが美味しい店 

 桂木さんが連れてきてくれたコーヒー店は『Bateau』と小さな木製の文字が入口の脇に打ち付けてあった。バトー。船。フランス語だと読みにくいのでは、と思いながら桂木さんに続いて店内へ。


「いらっしゃい」

「お邪魔します」


 桂木さんは友人の家に遊びに来たみたいな挨拶をした。私は軽く会釈するだけにして、店主とは視線を合わせずに椅子に座った。


「鮎川さんはコーヒーの好みがある?」

「酸っぱいのが苦手です。それ以外は美味しければなんでも」

「そうか。酸っぱいのが苦手か。なら、ぜひここのキリマンジャロを飲んでほしいなぁ」

「キリマンジャロは酸味が強いですよね?」

「うん。酸味のあるコーヒーが苦手な人にこそ、ここのキリマンジャロをお勧めしたい」

「あー……ごめんなさい。今は疲れているので、酸っぱいコーヒーに挑む気力がないです。なので好みのマンデリンを飲みたいです」

「そっかぁ。じゃあ今日のところは引き下がるか」

「お世話になっているのに逆らってすみません」

「たいしてお世話なんてしてないよ。いいよ、好きなのを飲めばいい」


 桂木さんは笑ってキリマンジャロとマンデリンを注文した。

 運ばれてきたマンデリンは素晴らしくいい香りと味だった。(おお!)とカップを二度見してから桂木さんを見ると、イケオジは私を見て笑っている。うわ、笑っても顔の左右が完璧に対称だ。それこそが美形の基本ですよ。

 イケオジの笑顔があまりに眩しいので視線をコーヒーに戻して口を開く。


「美味しいです」

「よかった。美味しいよね。僕はね、このコーヒーがあるからこの町に住んでる」

「ほんとですか?」

「本当。外でどんなに打ちのめされても『あの店に行けば旨いコーヒーが飲める』と思うと立ち直ることができるんだ。コーヒーの美味しい店は貴重だよ」

「へええ」


 そこからしばらく無言でコーヒーを味わう。

(お金持ちで豪邸に住んでいてイケオジで、鼻歌歌いながらスイスイ生きてる人生かと思った。いや、人間だもの、打ちのめされることくらい誰でもあるのか)

 私はこれから為すべきことを頭の中でリストアップしながら(スマホを取り出してメモしたら失礼だろうな)と思って我慢している。疲れているから記憶力は半端なく減退している。スマホにメモしたい。


 私がスマホに目をやったら、桂木さんはすぐに気づいた。


「鮎川さん、スマホの充電器は無事?」

「ああ、そう言えば焼けましたね」

「鮎川さんはアイフォンか。うちには充電器がないな」

「買います。パソコンと一緒に充電器も」

「充電器もだけど、衣類が必要では?」

「あ、そうでした。着の身着のままって表現がありますが、まさか実体験するとは思いませんでした」


 また沈黙。ふと気づくと桂木さんが私を見ている。

 嫌な視線ではなく、なんていうか、『ああ、こんなところに雨に濡れた犬がいた』という感じの同情と労わりが滲む眼差しだ。

 今の私は焼け出された不運な犬だ。雨に打たれた子猫ではない。人の心を鷲掴わしづかみにするような愛らしさは持ち合わせていないし、持ちたいとも思わない。

 

「桂木さん、このお店、船とか海に関するものが置いてないんですね」

「店名が船だから?」

「ええ」

「フランス語に詳しいの?」

「いいえ。前に住んでいたマンションの近くにバトーっていうカタカナ表記のお店があったんです。『バトーってなんですか』ってお店の人に聞いたら『フランス語で船って意味よ』と教わりました」

「それで綴りを調べたの?」

「はい。気になったことはすぐ調べるようにしています」


 この店のコーヒーが美味しくて、飲むペースを間違えた。私のカップが早くも空っぽだ。

 もう一杯飲みたい。こんなに美味しいコーヒーはなかなか出会えない。こういう場合、勝手に注文していいのだろうか。

 きっと桂木さんは『支払いはいいよ』って言うだろう。

 年下の女性がご馳走されるのを頑なに断ると気分を害する人もいる。かといってご馳走してもらうのを承知しておきながらお代わりするのは厚かましいだろう。

 ……ああ、もういいや。私は昨夜焼け出された。雨に濡れてガタガタ震えている犬だ。コーヒーのお代わりくらいで悩むなよ。


「桂木さん、私、コーヒーをお代わりしたいです。今度はキリマンジャロを」

「おっ。飲む気になったの?」

「こんなに美味しいお店なら、酸味のあるコーヒーも美味しいんじゃないかと」

「そうでしょう、美味しいでしょう。僕もお代わりを頼むよ。マスター、キリマンジャロとマンデリンをお願いします」


 マスターは小さくうなずいて作業を始めた。


「マンデリン、美味しかったです。とても」

「僕はここでは飲んだことがなかったな。あんなにしおれていた鮎川さんがこんなに元気になるほどなら、味わってみなくては」


 コーヒーが運ばれてまた沈黙。今日までずっと避けてきたキリマンジャロが、驚くほど美味しい。

 これがキリマンジャロ? と、ひと口飲んでからため息をついてしまうほど美味しかった。


「酸味があるけど、美味しいです。次からこのお店ではキリマンジャロも頼みます」

「気に入ったんだね」

「それと、大変失礼とは思うのですが、これから為すべきことをスマホにメモしてもよろしいでしょうか。頭が疲れてるので、覚えておく自信がありません」

「いいよ、メモしてよ。それと、鮎川さんはご近所さんであって僕の部下ではないんだから。なにをするにも僕にお伺いを立てなくていいし、『よろしいでしょうか』なんて敬語も使わないでね。立場は同じ。同じ町の住民でお隣さん同士です」

「あっ、はい。では今後はそうさせていただきます」

「そうさせてね、だよ」

「あ、はい」


 そこから私は猛烈な勢いでスマホにメモった。

 買わねばならないものは膨大だ。これから家を建て直すかどうかも考えねばならない。賃貸から持ち家に人生を切り替えたのに、人生の重大な選択が振りだしに戻ってしまった。


「鮎川さん、あの家、持ち家ですよね?」

「はい。あの家は父の遺産です。でも、結果があれですから。家を建てるって大変そうですし、火災保険でどこまで家を建てられるのか。保険金を家賃に回した方がいいのか、小さな家を建て直した方がいいのか。今すぐには判断がつきませんね」

「鮎川さんは、ほんとに冷静な人だね」

「あまりにやるべきことと判断しなきゃいけないことがありすぎて、呆然としているからそう見えるだけです」


 桂木さんがまた黙って私を見た。今度はさっきよりも更に視線が優しい。


「とりあえず今夜はうちに泊まりませんか。あの客間を使えばいい」

「いえ。それはさすがに」

「ジジイですから、襲ったりはしませんよ?」

「そんなことは思っていませんし、桂木さんはジジイじゃないです。まだ四十代でしょう? それに私がそこまでご迷惑をおかけしたくないだけです。でも、お心遣いをありがとうございます」


 ふうう、と桂木さんはため息をついた。


「引っ越してきて知り合いを作る間もなく焼け出されて、商売道具も買い直さなきゃならない。家を建て直すまでの住まいも探さなきゃならないし、いずれは服も食器も家具も家電も買わなきゃならない。ホテルやウィークリーマンションにお金を使うのはもったいないと思うけど。それと、僕は今五十です」

「五……お若く見えますね。お金の件は、それはそうですけど。桂木さんにそこまでしていただく理由がありません。今の私にはお返しもできませんので」

「かるた」

「はい?」

「私は大人が喜ぶかるたを作らなきゃならないんですよ」

「ゴルフの賭けの話ですか? それ、そんなに重大な約束だったんですか?」

「実はゴルフに負けた結果ではあるけれど、仕事でもあるんだ」

「仕事……」


 桂木さんはズボンのポケットから革のお財布を取り出すと、中から名刺をつまみ出した。テーブルの上に置いてスッと滑らせてくる。


「頂戴いたします」


 手に取って読む。『株式会社 メディアストーン 代表 桂木総二郎』とある。名前を読んでしばらく考え込んた。メディアストーンという会社は知らなかったが、桂木総二郎という名前には聞き覚えがある。

 有名なIT関係の会社の創業者。いや、その自分の会社を売ったことがニュースになってなかったか?


「有名な方だったんですね。お顔を存じ上げず、失礼いたしました」

「だから敬語はいいって。最近会社を売って、自分と従業員一人だけの会社を作ったんだ。基本的には時間を持て余してます。で、気楽な仕事ではあるんだけど、いろはかるたをテーマにしたエッセイを書かなきゃならなくて」

「ああ、そういうことなのですね」

「鮎川さんの『い』が大変面白かったから、『ろ』も聞いてみたいと思っています」

「あの程度、誰でも思いつきますよ」

「いや、目の付け所が私とは全く違う。どう? かるた作りのお手伝いをしてくれないかな。お礼に客間を提供しよう。鮎川さんは好きなときに出ていけばいい」

「今すぐお返事しないといけませんか?」

「いや。全然。これからパソコンと充電器と衣類を買いに行きましょう。何時間かかかるでしょうから、のんびり考えたらいいよ」


 そこで桂木さんは視線を私からコーヒーカップに移した。


「誤解のないように説明するとね、僕は若い人が困っているのを見たら、できる限り手を差し伸べることにしているんだ。そうしたくなるようなこと、いや違うな、そうしなければお天道様に顔向けできないようなことが、少し前にあったのでね」


 それがどんな出来事なのか、桂木さんは言おうとしなかった。私も聞かなかった。

 人には口にしたくない過去がある。私が言いたくない過去を抱えているように、桂木さんが自分から言おうとしないのなら、言うのがつらいことなのだろう。


 しばらくまた沈黙が続いてから、私たちは店を出た。支払いは受け取ってもらえなかった。

 店を出た私に潮風が吹きつけてくる。海の匂いがする風だ。


 ずっとこの海辺の町に住み続けていたら、この海の匂いにも気づかなくなるのだろうか。

 腰を据えて長くこの町で暮らしていけたらいいな、本当の私を知っている人に出会わないといいな、と思った。


「疲れたでしょう。買い物を終えたら、眠った方がいい。きっと気分も少しは晴れるよ」


 桂木さんは、見ず知らずの私に、なんでこんなに優しくしてくれるのか。こんな人が私なんかに興味を持つはずがないから、さっき途中まで言いかけた過去のことに関係しているんだろうか。

 

「ありがとうございます。買い物はサクッと済ませますね」

「いいよ。ゆっくり選べばいい」


 桂木さんが独りで暮らしているのは、モテすぎる人にありがちな「楽しく暮らして気がついたら婚期を逃してた」という理由ではなくて、結構しんどい理由のような気がしてきた。

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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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