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29 覚悟を決める 『ぬ』

 レンタカーを系列店に返して、東京駅から電車に乗っている。

 桂木さんが隣に座っているのは行きと同じだけれど、ずっと手をつないでいるのがもう、緊張する。

 絶対に手汗をかいていると思うのだが、そーっと手を離そうとするとギュッと握られてしまう。


 岩と桂木さんが笑顔で火花を散らしているときも「ひー」と思ったが、隣同士で手をつないで座っている今も「ひー」と思っている。

 さすがに途中で桂木さんが笑い出して手を放してもらったが、心臓に悪い。


「鮎川さん、あの家に行ったから疲れたでしょう。疲れを取ってもらおうと思って出かけた旅行なのに、申し訳なかったね」

「いえっ! 楽しかったです。今までの人生で一番温泉に入れましたし、美味しいものもたくさん頂きましたから」

「あなたは気配りの人だけど、いいんだよ、思った通りのことを言って」


 では、あれを言っていいんだろうか。


「言ってごらん。なにか言いたいんでしょう?」

「では。岩さんと桂木さんが笑顔で会話してるとき、蛇と虎が威嚇しあってるみたいでした。もう、ほんと怖かったです」

「あっはっはっは。そう見えましたか。岩は僕の五歳下でね。物心ついたときから僕と比べられてたらしいんだよ。父の子供の中で、男児としては僕が最年長だったし、父に目をかけられていたのが気に食わなかったんだろうね。五歳も歳が離れているのに中学高校大学と、僕と同じ学校に進学して、何かと張り合ってたらしいよ」

「らしい、というのは、桂木さんは相手にしなかったということですか?」

「僕は父の跡を継ぐ気がなかったからね」


 それは、岩にとってさぞかし歯がゆかったことだろう。

 がむしゃらに戦いを挑んでいるのに、相手は自分を気にしていない。プライドが高ければ高いほど心をへし折られたに違いない。お気の毒様だったね、岩。

 桂木さんとは全く違う路線に進んだ菊は、本能に従ったのだろうが、正解を選んだのかもね。


「鮎川さん、今夜は外食しよう。なにが食べたい?」

「海の幸がいいです」

「いろはかるたはどこまで行ったっけ?」

「『ち』と『り』はできたので、次は『ぬ』ですね。『脱ぎ捨てた過去を忘れて手をつなぐ』どうですか。ちゃんと七五調ですよ」

「あっ。どや顔してる。あなたの過去を知ってから聞くと、しみじみ胸を打たれます。鮎川さんの言葉は昭和の香りがするよね」


 それは誉め言葉なんだろうか。わからないのでへらへら笑っていたら「昭和を馬鹿にしたね?」と言われてしまった。馬鹿にしたわけではないけど、昭和っぽいというのはたいていいい意味では使われていないような。

 家に帰る前に、鯛埼町の駅前の居酒屋で夕飯を食べた。

 

「これは……罰が当たりそうなご馳走ですね」

「罰なんか当たらないよ。食べて食べて」


 目の前にはサヨリの天ぷらとたっぷりの大根おろし。天つゆ。

 伊勢海老のお造り。

 アジの塩焼き、キンメダイの煮つけ。

 これ、残ったら持ち帰ることができるのかなと貧乏が染み込んでいる私は心配してしまう。


「お飲み物は?」


 ジョッキの生ビールが空になったところでタイミングよく聞かれて、「キンミヤの炭酸割で」と答えると、桂木さんが「お」と言う。

「キンミヤは庶民の味方ですから」

「鮎川さんがどんな二十代を過ごしたか、聞きたいのをぐっと堪えてるよ」

「隠すようなことはありません」

「いや、キンミヤを誰に教わって誰と飲んだか聞きたくなる。でもそれはやめておきます」


 今の言葉はたぶん「聞きたくない」「知りたくない」って意味なんじゃないかな。大人だからやんわり予防線を張ったのかも。


 私も桂木さんの別れた奥さんのこと、知りたい気もするけど、聞いたところで幸せな気分になれないのはわかっているから聞くつもりはない。


「二十代の私より、今の私のほうが面白いと思います。これからの私を独占して見ていてください」


 言った。言い放った。「何様だよ」と自分に突っ込みたくなるけど、大人同士の会話だもの。

 この手の配慮は大切にしたい。互いにまっさらな過去じゃない以上、それも含めて仲良くしていたい。


「あなたは一を聞いて十を知る人だけれど、いいよ。そんなに気を使わなくて」

「はい。楽にします」

「うん。楽に生きよう。楽がいい。ギラギラしてると疲れる」


 美味しいものを食べ、アルコールを補充し、ほろ酔いになったところでスマホがブーンと音を立てる。さりげなく見ると、深山奏からだ。


「外に出ますね。深山さんからなんです」

「はい、行ってらっしゃい」


 外に出て急いで画面をタップすると、深山奏がご機嫌さんだ。


「よお! 元気か」

「私は元気だけど、酔ってるね?」

「酒は酔うために飲むものだからな」

「知らんけど」

「桂木さんを幸せにしてやってくれ。してやってください」

「うん。深山奏のだいじな桂木さんを、私もだいじにするよ」

「ああ。頼んだよ。俺の人生の恩人だ」

「よし、頼まれた。私の恩人でもあるしね。深山奏、今、外でしゃべってるから、また後で折り返していい? 寒い。キンメダイの煮つけが冷める」

「ああ、食事中だったか。悪い」

「なにかあった? なにかあったなら寒くても聞くよ?」

「うん。仕事で失敗した」

「桂木さんに代わるよ。話す相手が違うでしょうが」

「桂木さんはもう知ってる。『いいよ』って許してくれて、フォローまでしてくれて、相手のご機嫌が直った」

「立つ瀬がないね」

「うん」

「元気出してよ。そんなこともあるわよ。挽回すればいいよ」

「うん。じゃ、キンメダイ食べて。おやすみ」


 店内に戻ったら、桂木さんが笑っていた。桂木さんはいろんな笑い方をする。今の笑い方は「深山君が何を言ったか、全部想像がつくよ」という笑い方だろうか。


「深山君、愚痴をこぼしましたか」

「こぼしました。僕の恩人を大切にしてくれと言ってました」

「大切にされてます」

「そう思っていただけてよかったです」


 そのあとはあまりしゃべらず、お酒を飲み、海の幸を食べて、家まで三十分くらいかけて歩いて帰った。

 岩が私に何かしてくるとは思えないけど、桂木さんはたいそうピリピリしていたから、用心は必要なんだろうな。


 私は私で父に会って、親子関係を終わりにしたい、いや、終わりにします、というつもりでいる。

 刑事さんにショートメールを送った。

「父に面会したいです。伝えたいことがあります」と。


 その返事は深夜十二時過ぎに送られてきた。


「面会は九時から十六時までの間なら、いつでもできます」


 そうか、それなら明日面会に行こう。

 ささやかな差し入れぐらいは持って行ってもいい。

 私は五千円で置き去りにされたから五千円を渡して「大事に使えば結構暮らせるよ」と言おうかとも思ったけど、それはあまりにも「いけず」というやつだろう。


 けれど、父に何を渡せばいいのか、わからない自分に気がついた。

 何が好物なのか、たばこは吸うのか。暖かい肌着が欲しいのか、それとも本がいいのか。

 甘いものは好きなのか苦手なのか。

 なにもわからない。


「お父さん、あなたがどういう人なのか、詐欺師だということ以外、私は何も知らないよ」


 ベッドに仰向けになって声に出してみた。

 美幸さんにこのことをメッセージで送ったら「あほか」とそれだけが返ってきた。きっと呆れられてるし、怒らせた。


「あほなんだよ。捨てられたのに、いまだに父親だってことに縛られてるんだもの。でも、もう終わりにしてくるよ」


 翌朝、ご飯を食べながらその話を切り出した。

 桂木さんは「行ってくればいいよ。行って話をしない限り、区切りがつかないと思っているんでしょう?」と、はば海苔のお味噌汁を手にしてそう言う。


 そうね。区切りをつけたい。終わりにしたい。人の目を気にすることも、後ろ指を指されないように神経を使って生きることも。

 私は私。

 詐欺師の娘の柿田彩恵子ではなくて、両親がいない鮎川紗枝で生きていくために、父に会ってくる覚悟だ。


 半熟の目玉焼きと焼き海苔と塩鮭の焼いたのを食べながら、そう決めた。




 

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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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― 新着の感想 ―
[良い点] これからの私を独占 [一言] かっけー
[良い点] 桂木さんと紗枝さんの、心が寄り添ってる感じがたまらなく気持ち良いです。 深山くん、なんだかお姉さんかお母さんに甘えてる子みたいなポジションになりましたね。 滅多に人に懐かない猫が懐いちゃ…
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