28 本心
塩原の別荘での五日間はのんびりしているうちに終わった。
桂木さんはなにか考え込んでいる様子。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからない。
桂木さんの表情から読めることは少ない。
レンタカーのまま東北自動車道から外環に入り、まっすぐ帰るのかと思っていたら、都内で高速道路を下りた。
「桂木さん、どこかに寄るんですか?」
「うん、菊の母親の都さんに話をしてくる。君は車の中で待っていればいいよ。ちょっと早めに話をつけておいたほうがいいと思ってね」
あいつの母親は、やはりそっちの人なんだろうなと緊張する。
「菊をたしなめられる人のうち、僕が今会えるのは都さんだけなんだ」
車は歌舞伎町に入った。お正月の昼間、歌舞伎町にはまだそれほど人が出ていない。車をとあるビルの地下駐車場に止めて、桂木さんは私の目をじっと見る。
「鮎川さんはここにいて、ドアをロックして。絶対に開けないように。すぐ戻るから、心配しないでいいよ」
「はい」
私のために面倒なことに……と思ったが、それはやめにした。私は逃げ隠れしないと決めた。桂木さんに迷惑をかけることも、申し訳ないと思うことも含めて、受け入れると決めたのだ。
スマホをいじる気にもなれず、じっと待っていたら、二十分ほどして窓ガラスをノックされた。
髪をきっちり七三分けしした男性が上品な笑顔で「出ておいで」と手招きをする。桂木さんには「絶対に開けないで」と言われたのに、と困った顔をして見せる。
上品な男性はまた「出ておいで」と手招きをする。桂木さんに『七三分けの人が来ました』とメールすると、即座に『その人に、ついてきてくれますか』と、返事が来た。
恐る恐るドアを開ける。
「申し訳ありません。母がどうしてもあなたに会いたいそうで」
「母とは……」
「兄にはもう会っているんですよね? 僕は菊の弟の岩と申します。ガンちゃんと呼んでください」
どんな名づけのルールがあるんだろう。謎だ。
いや、それよりあの兄に対してこの弟。どんな育て方をしたら、こうも仕上がりが違ってくるのか。そっちのほうが謎だ。
岩に案内され、エレベーターで最上階に上がる。ドアが開いたらもう玄関の前だった。ワンフロア全部個人宅ってこと?
通されたリビングはやたら広く、白いソファーがずらりと並んでいる。桂木さんと六十歳ぐらいの品のいい女性が向かい合って座っている。
「ああ、すまないね、鮎川さん。こっちにどうぞ。都さん、この人が今一緒に暮らしている鮎川紗枝さんです。鮎川さん、こちらが菊の母親の都さん。そっちは菊の弟の岩」
「お正月そうそう、こんなところに来てもらって悪いわねえ。さあ、どうぞ座って。日本茶でいいかしら」
「はい。初めまして。鮎川紗枝です」
挨拶もそこそこに桂木さんの隣に座らされ、素早くお茶が出された。湯飲み茶わんが白磁だ。高そう、と感心していたら菊が入ってきた。ロン毛を後ろできっちり縛ってる。ピアスも外している。
「鮎川ってどういうことだよ、お前、加藤って名乗ってたじゃねえか」
「菊、いきなりやめなさい」
「お袋、こいつ俺に嘘ついたよ。大人しそうな顔して案外したたかなんだわ」
「お前には使い捨ての名前で十分と判断されたんでしょうよ。ね?」
ね?と聞かれて「そうです」とは言えず「申し訳ございません」と都さんに頭を下げる。菊には絶対に下げたくない。
「面白そうな人じゃない? 総二郎さん」
「はい。こんなに興味深い人は初めてですね」
「ここに連れて来たってことは、総二郎さん、父親のことも?」
「はい。話してあります」
「まあ、そうなの」
カシミヤらしいニットの、濃いグレーのアンサンブルを着ている都さん。私を笑顔で品定めしているけど、目の奥が全然笑ってない。視線を下に向けたくなる。だけど意地でも下げたくないから、都さんのネックレスを見ることにした。
真珠と黒い石を組み合わせてあるネックレス、これも高そう。
「鮎川さんのご両親は、総ちゃんのことをご存じなの?」
「いえ。まだ」
「いいの? 親に縁を切られますよ?」
「はい。かまいません」
「まあ。総ちゃん、腹の座ったお嬢さんねぇ」
「はい」
都さんはご満悦な感じにうなずいて、菊と岩にむかっていきなり表情を変え、「あんたたち、総ちゃんとこのお嬢さんにちょっかいは出しなさんな。いいね?」と短く言い放つ。答えは必要としない口調。こんな山の手の奥様みたいな雰囲気なのに、声の奥に命令しなれた人特有の怖いものがある。
「総ちゃん、ごめんなさいね、私の躾が失敗したせいで、嫌な思いをさせました。絶対に総ちゃんと鮎川さんには手出しさせません。安心してちょうだい」
「ありがとうございます」
桂木さんが深々と頭を下げたので、私も急いで頭を下げる。
パン、と都さんが手を叩くと、品のいいスーツを着た若い男性が三人入って来て、海の幸山の幸が並べられる。菊以外は全員一流企業のエリートサラリーマンにしか見えない。
私は形だけ摘まんでいたが、桂木さんは笑顔でパクパク食べる。私も食べるべき? そっちが正しい? 全然わからない。
岩と桂木さんは親しげだけど、菊はずっと不機嫌そうな顔で日本酒を飲んでいる。
「総二郎さん、今度新しい仕事を僕が始めるんです。監督してもらえると嬉しいな」
「岩なら僕の監督なんて必要ないよ」
「そんなこと言わないで、頼みますよ」
「必要な資料なら渡せるけど、そこまでだねえ」
「もう、つれないなあ」
怖い怖い。二人とも穏やかな表情だけど、大蛇と虎が向かい唸りあってるみたいだ。
「鮎川さん、あなたはどんなお仕事を? 何もしないで総ちゃんに囲われているタイプには見えないわ」
「家政婦を」
「まっ! 総ちゃん、あなた大事な人を家政婦扱いしているの? 酷いわ」
「そうでもしないと鮎川さんは僕のそばに居てくれないんですよ」
「ああ、なるほどねえ。誇り高い人なのねえ」
ひー。と心で悲鳴を上げつつ、笑顔を作る私。なんだかんだで一時間ほどいただろうか。
岩に送られながら地下に向かう私はライフを消費し尽して、ぐったりだ。車が走り出したら思わず「ふうぅぅ」とため息をついてしまった。
「ごめんね。疲れたよね。でも、こういうことは何かある前に手を打つのが最善だから。鮎川さん、岩のことをどう思った?」
「菊さんより怖いと思いました」
「正解。あれは怖い男だ。気をつけて。まあ、もう接触はないと思いたいけど」
その後、詳しい話を説明してもらった。
都さんは銀座のママから桂木さんの父親の後妻になったこと。亡くなった最初の妻には子供がいなかったから、本来なら桂木さんが後継者だったこと。
桂木さんが固辞したので、都さんの次男の岩が後継者になったこと。
岩が有名な大学を出ていて、経済的に組織を大きくしていること。
「まあ、岩は僕なんか頼らなくてもやっていける男だけど、あの世界は生き残りに必死だから、いつ僕を利用しようとするか。油断はできないんだ」
そこまで言って、桂木さんが私の手にそっと手を重ねた。
「ごめん。鮎川さんを手放してあげるのが一番正しいのはわかってる。でも、そばに居てほしい。人生最大のわがままを言っている自覚はあります。巻き込んでごめんね」
テレビドラマなら、ここで気の利いた感動的なセリフを言うべき場面。でもなにも出てこない。だから本心をそのまま伝えることにした。
「そばにいたいです。いさせてください」
私は今、枝分かれしている道の片方を選んだ。
いつの日かこの判断を後悔するかもしれないし、「あの選択をしてよかった」と思うかもしれない。
世間から逃げ続けてきた私が、初めて派手なほう、風当たりが強そうなほうを選んだ。
とても気分がよかった。