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27 獣と鎖


 今朝のごはんは焼き立てパンの予定。

 桂木さんが現在、別荘街を下って町のパン屋さんまで買いに行っている。


 さっき階下の物音を聞いて寝室から飛び出し、階段を駆け下りた私。桂木さんは私を見て笑いながら「いいよ。まだ寝ていなさい」と言って出て行ってしまった。

 車が遠ざかっていくのを見送ってからハッと我に返れば、紺色無地のパジャマだし頭ボサボサだし、寝起きのむくんだ顔だ。


「ああ、いろいろとアウト」


 思わず脱力してソファーに座り込む。目の覚めるような美人じゃない以上、せめて清潔感のある女でいたかった。油断しすぎだ。

 町まで往復してくるから、小一時間は帰ってこないはず。それまでに着替えて……。その前にコーヒーを飲もうか。


 コーヒーを淹れ、時間をかけて飲み終えた。「さあ、着替えるか」と思っていたら車の音に続いてドアの開く音がした。もう? 近所にパン屋さんがあるの? 忘れ物なの? とパジャマを着替えるべく慌てて二階に駆け上がろうとしたのだが。

 階段を半分駆け上がったところで背後から声をかけられた。


「色気のかけらもねえパジャマだな」


 誰? と階段の途中でゆっくり振り返った。動物と不審者に素早い動作は禁物だ。

 そうかなとは思ったが、やはり昨日のロン毛だ。いくら従弟いとこだからって、朝早くにノックもしないでドアを開けるなんて。なにこいつ。桂木さんとは仲良しでもないのに、馬鹿なの?


「総二郎さんは? 車がないけど?」

「買い物に行っています」

「ふうん」

「今、着替えますので、どうぞあちらに」


 手でリビングを指示して階段を駆け上がり、寝室に入ってドアに鍵をかけた。心臓がバクバクしている。落ち着け。私が怯えているのを感じたら、あの手の人間は図に乗る。


 まずは着替え。ジーンズにトレーナー。その上からパーカーを着てジッパーを上まできっちり閉める。それから桂木さんに電話をかけた。

 なかなか出ない。レンタカーはスマホとリンクしていないから、一度車を停める必要があるはず。

(出て。早く。お願い。出て)

「はい。どうした?」

「昨日のロン毛が来ています」

「……すぐ戻る」


 会話は四秒で終わり、ツーという音に変わった。ドアの前にロン毛がいないかどうか耳をつけて気配を探ってからドアを開ける。

 さすがに桂木さんの別荘で婦女暴行はないか。ロン毛は見るからに堅気じゃないけど、やはりそっちの世界の人なのだろうか。……だろうな。

 そっちの世界の人とかかわったことがないから、相手がどう動くか読めない。

 

 ロン毛はおとなしくリビングのソファーに座っていた。が、私の顔を見るなり、顎をクイッと動かして命令する。


「コーヒー」

「はい。ミルクと砂糖はどうしますか」

「どうなさいますか、だろが」

「どうなさいますか」

「どっちもなし」


 余計なことは言わずにコーヒーを淹れる。


「お待たせしました」

「あんた、名前は?」

「加藤エミです」


 こいつに本名を教える理由はない。ワンタイムの名前で十分。


「あんた、総二郎さんのなに?」

「なに……とは」

「は? わかんだろ? 総二郎さんの女なのかって聞いてんだよ」

「いえ。違いますが」

「じゃ、なんでここにいんだよ」


 んー。どうしようかな。そろそろ桂木さん、帰ってくる頃だな。私は黙って対面式キッチンのカウンターの中に戻った。

 手近にあるのはホーローのやかんと包丁。包丁はまずいから、いざとなったらやかんで殴ろうかな。

 私はヘラッと笑って答えなかった。もうここで控えめモードは終了にしよう。


「なに笑ってんだよ」

「それ、お話ししたくないです」

「んだとっ!」

「あなたと私は赤の他人ですし、私はあなたに何の借りもありません。答える義務はありませんよね?」

「総二郎さん、しつけがなっていないな」


 窓の外にレンタカーの白い車が止まるのが見えた。少し離れた場所に車を停めて桂木さんが下りてくる。おかげでロン毛は車の音に気づかない。

 ロン毛がゆっくり私に近寄ってくる。私はやかんを握った。


「気が強いんだなぁ。ふうん」


 ロン毛が気色悪い笑顔になる。私もへらへら笑って見せた。たとえ虚勢を張ってるのが見破られても、もう大丈夫。桂木さんが音を立てずにドアを開けて入って来たから。


「菊」


 ロン毛が明らかにビクッとなった。


「車がないのを承知の上で入ってきたの?」

「違うよ。せっかくここまで来たから、この人に挨拶だけでもと思っただけ」

「そう。挨拶はいいから帰りなさい。ちゃんと警告はしたのにねぇ」


 桂木さんはそう言いながらスマホをタップしている。警察を呼ぶのだろうか。


「都さん? 総二郎です。お久しぶりです。今、菊がうちに押しかけてきていましてね。とても困っているんです。ええ。断ったんですけどね。今、電話を替わります」


 スマホを差し出す桂木さんの顔は無表情なのに、怒りのオーラが見える。ロン毛は一度桂木さんを睨みつけてからスマホを受け取った。


「母さん? おはようござ……はい。はい。いえ、違いますよ。久しぶりだか……すぐに帰ります。はい、はい。わかっています。失礼します」


 ロン毛は母親に頭が上がらないらしい。マザコンか。電話を切るなりロン毛の態度が大きくなるけど、もはやコントみたいで怖くない。 


「いつお袋の電話番号を調べた? 相変わらずやり方が陰湿だな」

「菊は外で働いたことがないからわからないんだね。誰かを相手にするとき、相手の情報を集めるのは仕事の基本だよ。僕が何も手を打たずに、のんびり暮らしてきたとでも思った?」


 ロン毛は私を振り返り、威嚇するみたいに足の先から頭のてっぺんまで見上げてから「じゃ、また来ます」と言って玄関に向かった。


「今度来たら、ケイトに話をするよ」


 ロン毛の動きが止まる。振り返った顔が獣じみている。


「どういうことだよ。なんで総二郎さんがケイトを知ってんだよ」

「調べたから。菊、都さんに借金している身の上で、ケイトとハワイなんて行ってるんだね。ケイトには自分のことを芸能関係って偽っているでしょ」

「っ」

「菊の無礼を見逃し続けるのに、僕はそろそろ飽きたよ」

「どういう意味だよ」

「言った通りの意味だよ。菊はさあ、芸能界に憧れている若い子をだまして酷いことしてるそうだね。堅気の僕の耳に入るくらいだ、身内にはバレてるよ。警察にもね。今は情報を集められている段階じゃないかな。今は幹部の息子と言えども交渉の材料に差し出される時代だ。命を大切にね」


 ロン毛は無言で玄関に向かい、「バタンッ!」と叩きつけるようにしてドアを閉めて出て行った。桂木さんが怖い顔で私を見る。


「鮎川さん! なんであいつを入れたの!」

「オートロックに慣れていて、うっかり鍵を閉め忘れました」

「なにもされていないよね?」

「されていません」


 桂木さんがカウンターの中に入って来て、怖い顔で私を見ている。


「あの。ほんとになにもされていません」

「やかんをぶつけようとしたの?」


 そう言われて、私は指が真っ白になるまでやかんの取っ手を強く握っていたことに気がついた。


「あいつはけだものだから。そんなことをしたら何をされていたことか。ああ、よかった。あなたが電話をくれて」


 そう言ってふんわりと抱きしめられた。

 頭を抱えられたことも、打ち明け話をしたときに抱き締められたこともあるけど、これ、ちょっと違うやつでは?


「大丈夫ですよ。なにかされそうになっても、死ぬまで抵抗する覚悟でしたから」

「あの馬鹿は力が強いんだよ。人間の形をしている獣だ」


こんなに心配してくれて、ありがとうね、桂木さん。

 私は下におろしていた両腕を桂木さんの背中に回した。


「パン、一緒に買いに行きましょうか」

「そうだね。一緒に動くべきだった。一緒に行こう。お店で食べるのもいいね」

「はい。桂木さん、大丈夫ですかね。あの人、仕返ししませんかね」

「あいつの両親が生きている間は大丈夫。鎖がなくなったら危ないかもだけど、あいつが組の幹部になったところで、その上がいるから。僕に手出しはしないとは思うけど」


 桂木さんの腕が動かない。私は私で桂木さんの背中に回した腕をどうしたものか、迷っている。


「あちらさんは、僕が会社を売って手に入れたお金を狙っているんだよ。今は経済活動で資金を得ようとしている人たちだから。やたらにいろんな仕事を持ち掛けて来るから厄介なんだ」

「そうだったんですか」

「どれが真っ当な仕事で、どれが彼らの触手なのか、見分けるための時間が無駄にかかるよ」


 私は桂木さんの背中に回していた腕をほどき、ぽんぽんと叩いて抱き締められている状況を終わりにした。


 それから二人で車に乗ってくねくね道を下り、塩原の町のパン屋さんに入った。イートインコーナーでパンを食べて、お土産屋さんを覗いて、午前中を過ごしている。

 桂木さんの表情は穏やかだったけれど、なにか考え事をしているのは私にもわかった。


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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― 新着の感想 ―
[良い点] こういう、甘い雰囲気を 『締める』回も大事ですよね。 菊、いい味出してるわー。 桂木さんが、「安全のため僕達二人、距離を置こう」 とか言いださないか心配。
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