26 花まる 『り』
塩原の別荘は、二階に主寝室と客室がひとつずつあって、どちらの部屋にも私がずっと欲しかった対流型の石油ストーブが置いてあった。青い炎が見えるやつ。
「桂木さん、暖炉もそうですけど、アラジンのブルーフレーム、長年の憧れなんです」
「ああ、そうだったの? 暖炉もストーブも気に入ってくれたならよかったよ。鮎川さんは好きなものが僕と似てるよね」
「はい! でも美味しいものと暖炉と炎が見えるストーブと駅弁は、みんなが好きなものですから」
桂木さんは一秒の半分くらい呆気にとられたような表情をした気がするけど、楽しそうに笑い出した。
「くくく」
「あれ? 変なこと言いましたか?」
「いや、鮎川さんは、びっくり箱みたいな人だから。答えがいつも予想外で驚くよ」
「それは……褒めてます? 貶してます? 私、桂木さんみたいに頭が良くないんですから、わかるように言ってくださいよ」
「褒めてる。すごく褒めてる」
桂木さんは「面白い人だ」と言いながら買い物に行く準備をしている。ここにいる間はずっとタクシーを使うのかと思っていたけれど、朝の八時に別荘まで車が二台できて、レンタカーが届けられた。
帰って行くレンタカー営業所の軽自動車を窓から見送りながら(そんなサービスがあったんだ)と、平民の私は驚くばかり。貴族が使いこなしているサービスの種類は実はたくさんあって、私が知らないだけなんだろうね。
「で、いいの? 牧場も温泉も行かないで地元のスーパーに行きたいの?」
「はい。旅先のスーパーで地元の奥さんたちが作るお惣菜を買って食べるのは、私の奥深い楽しみなんです」
「たしかに奥深い。いい趣味だよ」
運転している桂木さんはご機嫌だ。相変わらず読めない人で、私と二人でタラタラしゃべっているとき、突然ご機嫌になる。ご機嫌スイッチがどこにあるかわかれば、家政婦兼社員としてはいくらでも連打してあげるのに。聞いても教えてもらえないから、観察して覚えるしかない。
四駆のファミリーカーはうねうねとくねる崖沿いの道を走っている。
ところどころ道路が黒く凍っている。運転を誤ったら右側の崖下に落ちそうだけど、桂木さんはリラックスして運転しながら、ご機嫌にしゃべっている。
「世間にはお金が大好きな人っていっぱいいるんだよ。僕もお金は好きだけど、桁違いに好きな人がいるんだ」
「私も好きですよ」
「違う違う。もうね、お金のためなら無自覚に常識も理性もかなぐり捨てられる人。鮎川さんはお金より大切にしているものがいっぱいある」
「それは、ふふふ」
「あ、思わせぶりな笑い方して」
「いえ、桂木さんて、なんでもお見通しなのに、わからないこともあるんだなって」
私が望む平穏な生活は、私の場合、ちょっとやそっとのお金じゃ買えないから。
そこから先も桂木さんの口角は上がったままで、道の駅を通り過ぎた。
「え! 道の駅! なんで通り過ぎるんです? 行きたかったのに」
「帰りにね。あそこには地元のお母さんたちのお惣菜は売ってない。でも、美味しいチーズはある」
(おおっ!)と思ったところで桂木さんが「ぷっ」と笑う。
「鮎川さん、楽しいよ」
「私もです」
今度は「あははは」と本気で笑う桂木さん。歯並びがきれいだ。
たどり着いた那須のスーパーは十字路の角にあって、駐車場は地元ナンバーの車と県外の車で混んでいた。
「うわ、見てくださいよ桂木さん。厚揚げと姫タケノコとこんにゃくの煮物。美味しそう。あ、こっちの辛子菜の胡麻和えって、辛いのかな。ゴマの味が勝つのかしら。おお、子持ち鮎の甘露煮。くぅ!」
「よし、買おう買おう。そっちの地産のチョリソーも買おう」
桂木さんが持っているカゴには、どんどん美味しいものが放り込まれていく。桂木さんて、お財布に入っている金額を確認して、カゴにいれた商品の値段を暗算しながら買うなんて経験、ないんだろうなあ。若い時はあったのかなあ。
「あれえ? 総二郎さん?」
男性の声に振り返ったら、四十歳ぐらいのロン毛が首を傾げて立っている。サラサラのロン毛は肩より長い。その歳でロン毛か、しかも左の耳にだけピアス何個もつけていて微妙、と思ったけれど、桂木さんの知り合いのようだから愛想よく微笑んで頭を下げた。
ロン毛は私の挨拶を完璧に無視して、桂木さんに近寄る。はい、嫌な奴認定。
「塩原の別荘? 珍しいじゃん。しかも女連れなんてびっくりしたよ」
「菊、相変わらず口の利き方がなってないね」
「たまには帰っておいでよ。みんな寂しがってるよ?」
「菊、あっちにはたぶん、死ぬまで帰らない。あ、違うな。骨壺に入っても帰らないんだった。もう何度もそう言ってるんだけどなあ。ご老人たちは忘れちゃうんだね。じゃ、僕は買い物の途中だから、失礼するよ。さあ、行こう」
不穏な会話に(なにごと?)と思っていた私は、腕を引っ張られてロン毛から離れた。桂木さんのお顔から微笑みが消えている。珍しい。
「なんで会いたくない奴には会うんだろうねえ。七百日以上来ていない別荘に来たら身内に会うなんて、どんなアンラッキーなんだか」
「ご親戚ですか?」
「そ。僕のことをとっても嫌っている親戚。はぁ、気分悪いから、特別いい牛肉買って、帰ろう」
レジを済ませて車に戻ろうとしたらロン毛がいた。赤いアウディのクーペにもたれて立っている。ロン毛の車選びは期待を裏切らない。
「総二郎さん、塩原にお邪魔してもいい? 退屈してたんだ。ちょうどいいや」
「悪いけど、僕は退屈していないし、しつこい人が嫌いなんだ。あんまり僕を怒らせないでね。酔っているときに『うっかり』歌舞伎町まで画像を送っちゃうかもしれないでしょ? そんないい車に乗ってることがあっちにバレたら、困るんじゃないの?」
とろけるような優しい声でそう言うなり、桂木さんはロン毛ごと車の写真を撮った。
いつの間にスマホを出したの? 桂木さんは、ロン毛がぎょっとしている間に私を運転席の後ろにグイグイと押し込んで、「じゃあね、菊」とだけ言って車を出した。
桂木さん、自分で腹の中が真っ黒って言ってたけど、黒さ全開だった。あんな会話、テレビの中だけかと思ってたらリアルで言う人がいたよ。私の雇い主だったよ。
そこから桂木さんの表情は硬くて、雰囲気も暗くて、ラジオだけが救いだった。
別荘に帰っても桂木さんは無言で、まあ、仕方ないよね、と私は帰りに道の駅でダッシュで買ってきたチーズをチビチビ食べながらワインを飲んでいる。昼酒ほど美味しいものはない。
「あのさ、鮎川さん、僕は鮎川さんの生い立ちをかなり聞かせてもらったでしょ?」
「はい」
「不公平だとは思っていたんだけど、言い出しにくくて自分のことは言えなかった」
「あっ、いいです。別に桂木さんの生い立ちを聞くつもりはありませんから」
「うん。あなたならそう言うだろうと思ったから甘えて言わなかったんだけど、菊に見られちゃったから。あんなゲスの口からあなたの耳に入るぐらいなら、僕から話したいことがある」
どゆこと? とチーズを口に入れたまま桂木さんを見た。すごく憂鬱そうなお顔だ。
「僕の母親は、結構きれいな人でね。水商売をしていたの。そこでお客さんに気に入られて、所帯をもったんだ」
(絶対にお綺麗な方なんだろうなとは思ってましたよ!)
「僕の父親は堅気じゃないんだ。まあ、そっちの世界の人よ。母は……昔の言い方だと四号さん。二号ですらないから、世間的には僕と父親の関係は、ごく親しい人しか知らないんだけどね。認知もされていないから、法律上は父と僕は他人だ。おかげで僕はそこそこ自由に生きることができたよ」
ええと、これ、美幸さんならなんて言うかなあ。
地面師と結婚詐欺師の娘がヤクザの息子と主従関係か。『やばいよ彩恵子ちゃん、やめときなよ』って言うんだろうなあ。
「そのこと、深山さんはご存じなんですか?」
「いいや。知らないほうが幸せなことはいっぱいあるもの」
「そんな大切なお話を、私にしていいんですか?」
「鮎川さんだからしたんでしょうよ。もう」
口の中の美味しいはずのチーズの味がしないです、桂木さん。
「僕がヤクザの幹部の息子って聞いても、そばにいてくれる? あ、念のために言うけど、父はもう死んでます。殺されたんじゃなくて病死です。それでも、鮎川さんは真っ当な人だから、嫌がるかなと思って言えなかったんだよね。でも菊に見られちゃったから。あいつは人の嫌がることをするのが大好きだから、鮎川さんに嫌がらせするかもしれない」
「嫌がらせ、とは」
「ゲスの考えは僕にはあまりよくわからないけど、僕の氏素性をあなたに聞かせて怯えさせるとか、その程度だとは思うけど」
「氏素性なら私も負けてませんけどね」
そう言ってから自分で「クッ」と吹いた。どんな自慢だ。
桂木さんが驚いた顔をしている。この人を驚かせることができた日、私はスマホのカレンダーに花まるをつけるようにしている。
今日は花まるだ。
「桂木さん、かるた、一個思いつきました。『理不尽を得て人を知る』いや、違いますね。『理不尽を得て世間を知る』、どうです? これはわりといい出来だと思いますよ!」
ちょっとだけぽかんとした顔になったあと、桂木さんは声を出さずに笑って、結構長いこと笑って、「参ったなぁ」と言って立ち上がり、私の右頬にそっと手を当てた。温かくて乾いた、安らぐ感じの手だ。
(なに?)とワタワタしていたら、スッと手を離して台所に向かってしまった。
冷蔵庫からさっき買った黒毛和牛のサシ入りまくりのステーキ肉を取り出しながら、桂木さんは背中を向けたまま、私に話しかける。
「僕はあの日、あなたを自宅に招いた自分を褒め称えたいね。さ、肉を焼こう。溶岩石のプレートで焼くと、柔らかくて美味しいんだ」