24 温泉旅行
年末の東京駅は混んでいたけれど、グリーン席の車両は静かだ。
「新幹線のグリーン席なんて、初めて座ります。なんだか申し訳ないです」
「あなたの働きぶりに比べたら安いものだよ」
桂木さんはご機嫌だ。
微笑んでいることが多い桂木さんだが、今日は微妙に笑顔の質が違う。ちょっと嬉しさの色が濃い。桂木ウォッチャーの私にはわかる。あと、いつもは上品に整えられている髪が無造作だ。襟足の少し上に寝癖がついているのも愛らしい。
いつもと違うところを見つけては(得した気分!)と思っている私も、かなり浮かれている。
「本当はグランクラスを取りたかったんだけど、予約で埋まってたのが残念です」
「グランクラス。見たこともないです」
「いつかグランクラスで旅行しませんか」
「私……」
「お礼の話なんだから、割り勘て言うのはやめてね」
長年の習慣で「半分出します」と言おうとした。そしてそれに気づかれて先制パンチをくらってしまった。不覚。
さっき桂木さんは駅構内のお店で駅弁を買っていた。
昨夜、「嫌いな食べ物は? 好きな食べ物は?」と聞いてきたのは、駅弁のためだったのかな。「なんだって美味しく食べられるのが私の特技です」と言ったら、眩しいものを見たようなお顔になってたっけ。
桂木さんは座席のテーブルに、カニ型容器の『かにめし』とアサリの身がぎっしり並んでいる『深川弁当』の二つを並べて「さあ、どっちがいい?」とニコニコして聞いてくる。
どちらも美味しそうで、「んー、んー、んー」と真剣に悩んでいたら、また楽しそうに笑う。
「両方食べたいの? 半分こする?」
「いいんですか?」
私が心から(やった!)と思いながら桂木さんの顔を見たら、桂木さんが「クッ」と言って顔を背けた。え?
「失礼。あなたがあまりに幸せそうな顔をするものだから」
「あっ……。つい本気でがっついてしまって。お恥ずかしい。駅弁は私の中では懐石料理やフレンチのコースに匹敵するご馳走なんです」
「駅弁てだけで美味しいよね」
「はい!」
半分こで両方食べられることにワクワクしている私が「では食べる前に分けてしまいましょう」と、かにめしの蓋に深川弁当を半分移そうとしていたら、そっとその手を押さえられた。
「え? だめでした?」
「蓋に半分載せたら、食べるときに絶対こぼすよ。いいよ、僕は少しだけつまんでウイスキーを飲むから。あなたは食べたいだけ食べたらいい」
「さすがに二つは食べられませんよ。それに桂木さんに食べかけを渡すなんて」
「家族でもないのに気持ち悪い?」
「違いますって。私は平民なんで桂木さんの食べかけは平気ですけど、桂木さんこそ不愉快じゃないんですか?」
「別に。僕、潔癖症じゃないし。それより平民て言うのはやめて。笑っちゃって、またむせる」
そう言いながら桂木さんはレジ袋からポケットウイスキーを取り出し、プラスチックのカップでウイスキーを飲み始めた。
「乗っている時間は一時間ちょっとしかないから。食べて」
「そんなすぐに着いちゃうんですね。新幹線のグリーン席なのに、なんだか残念」
「鮎川さんがもっと乗っていたいなら、このまま仙台まで乗ってもいいよ」
「それ、本気でおっしゃってますよね? だめです。別荘も予約してあるのに。もったいないです」
「もう。すぐもったいないって言う」
「もったいないのはもったいないです」
それは本音中の本音。桂木さんと会話していると、たまに節約魂がさく裂してしまう。
桂木さんは私がケチくさいことを言っても気分を害した風ではなく、楽しそうなお顔。ゆっくりウイスキーを飲んでいる。
私は二種類も駅弁が目の前にあるから、ついついバクバク食べてしまう。ふっくらと炊いてあるアサリの身は、噛むと磯の香りとうまみがあふれ出すし、かにめしは上品な味付けのご飯と甘いカニの身が合う。
桂木さんはアサリをつまんでは飲み、カニめしをちょこっと口に入れてはまた飲む。
「手に入れたかったものが、ひとつ手に入った」
「ん? なにがですか?」
「笑うから言わない」
桂木さんはこうなると絶対に言わなさそうだから、しつこくしても無駄だろう。
割合で言うと私五に対して桂木さん一くらいの分量でお弁当を食べ、残ったお弁当をだいじにしまっていると、また桂木さんが楽しそうなお顔で私を見ている。
那須塩原駅まではあっという間だった。
そこからタクシーに乗って別荘へ。ネットで見たことがある貸別荘をイメージしていたけれど、そこはどう見ても個人の別荘だ。
「これって……」
「別荘の持ち主から管理会社が借り上げてレンタルしてるんだよ。食事を注文しておくと、熱々の料理が運ばれる」
「でもこれ、すごく桂木さんぽい建物ですけど」
桂木さんが苦笑している。
「これ、桂木さんの別荘じゃないんですか?」
「鮎川さんは鋭いなあ。そうか、この別荘、僕らしいのか」
「貸別荘っておっしゃってましたよね? なんでそんなこと言ったんです?」
「貸別荘でもある。人が使っていないと、山の建物はあっという間に傷むから。会員の別荘を管理会社が人に貸し出してるんだよ」
建物の中は天井が高く、吹き抜けになっている。リビングの天井にはシーリングファン。壁のスイッチを押したらゆっくり回り始めた。
「寒いね。暖炉に火を入れよう」
「暖炉! うわぁ本物!」
「このあたりの別荘は夏に使う人がほとんどだけど、僕は冬のほうが好きだよ。街も空いてるしね」
手際よく暖炉に火をおこしてくれて、二人で並んで座って眺める。家にいるときは動画サイトでこんな暖炉の画面を流しながら仕事をしているけど、本物を眺める日が来るとは思わなかった。
「毎日一人で暮らしているのに、さらに一人になりたくてここに来ていることもあった。鮎川さんと暮らすようになって、ここを思い出さなくなっていたな。よし、コーヒーを淹れよう」
桂木さんが小ぶりのボストンバッグを開ける。
五泊六日だから私はコロコロ付きのスーツケース。それに比べて桂木さんは荷物が少ない。なのに、その少ない荷物にコーヒーを詰めていたとは。
身振りで「座っていなさい」と伝えながら、手際よく桂木さんがコーヒーを淹れてくれる。いい香りが広がってきた。
桂木さんは荷物の中に手を入れて、白くて真ん丸なものが入っている袋を取り出した。
あれは、スノーボールクッキーではあるまいか。私の大好物だ。コンビニでしか買ったことないけど、絶対にそうだ。
「ブールドネージュ、好きかなと思って買ってきた」
「大好きです! なんでご存じなんですか? 私、桂木さんの前で食べたことも話題にしたこともないですよね?」
「ないよ。僕が好きなんだ。当たりだったか。よかった」
そう言って桂木さんが笑う。目じりの笑いじわまで素敵で、こんな素敵な人と暖炉を眺めながらスノーボールクッキーなんて、私、もうすぐお迎えがくるんじゃないでしょうね。
お盆にコーヒーカップ二つとスノーボールが載った菓子皿一枚を載せて、桂木さんが暖炉の前まで運んでくれる。『最高級執事カフェ』という言葉が一瞬浮かんだけど、桂木さんを執事だなんて罰当たりすぎた。
そんな考えを深山奏に知られたら、市中引き回しの上に獄門晒し首になる。
コーヒーを飲み、クッキーを指でつまんで口に入れる。丸いお菓子を噛むと、クッキーはサクッと砕けて溶けていく。口の中がアーモンドの香りで満たされる。すかさずコーヒーを飲む。目の前には暖炉の炎。
「極楽」
「極楽だねえ。でもね、この別荘にはもっと極楽があるよ」
「これ以上の極楽……なんですか」
「露天風呂がついてる。でも、温泉の質で言ったら少し先の温泉旅館のお風呂のほうが濃いよ」
「いえ! 私、ここで何度も入りたいです!」
「そう?」
「はい! だって、旅館に行ったら桂木さんを待たせているのが気になりますけど、ここなら好きなだけ入れるじゃないですか」
「あー……」
そう言って桂木さんは突然部屋を出て行った。離れた場所から音がして、急いで駆け付けたら、桂木さんがお湯を張っているところだった。
太いパイプからジャバジャバとお湯が出ていて、もう硫黄のにおいがする。
「いいよ。座っていてよ」
「さすがに私がやります」
「いいから。せっかく甘やかそうとしてるのに」
「……」
もしかして『罰として甘やかす』を思い出したのだろうか。言ったのは私じゃないのに恥ずかしい。もしやこれ、すでに罰開始か。
「なんでそんな恥ずかしそうな顔しているの。一緒に入ろうなんて不埒なことは言わないから安心してよ」
「そうじゃなくて。いえ。何でもないです」
「別荘の温泉は、しばらく出しっぱなしにしないと温度が上がらないんだ。あっちで少し待っててね」
言われた通りにリビングに戻り、またコーヒーとお菓子を交互に口に入れながら気がついた。
食事もお風呂も旅館の方が楽なのに、桂木さんはなぜ別荘にしたのか。
旅館だと、さすがに別々の部屋になるだろう。別の部屋に泊まりながら一緒に旅行する私たちを、旅館の人はどう思うだろうと、私が気にする。絶対に気にする。
桂木さんはきっと、私がそういうことに気を使う事態を避けたかったんだ。
「なんか、申し訳なかったかも」
「なにが?」
「あっ」
「またなにか遠慮してるんでしょう? これ、お礼と言いつつ僕が楽しんでるのに。申し訳ないなんて思わないでよ」
「私が人の目を気にするから別荘にしたんですよね?」
桂木さんが目だけ微笑んだままソファーに座り、コーヒーを飲む。
「鮎川さん、全てをお日様の下に引っ張り出さないほうがいいこともあるよ。ポケットの袋を裏返して引っ張り出して、隅の隅まで覗き込んでもね、宝物は出てこない」
どういう意味だろう。
「ポケットの隅の隅まで知らないと気が済まない人と二度暮らして、僕も相手の人も苦しんだ。そして別れた経験から言っています」
「桂木さん……」
「僕は鮎川さんと一緒に暮らしているのが楽しい。こんなに楽しいのは記憶にないくらいだよ。だからあんまり気を遣わないでね」
私なんかを、なぜこんなに大切にしてくれるんだろう。
「あなたは何も心配する必要がないし、遠慮もしなくていいよ。そもそも……いや、それはいいか」
桂木さんはそこで言葉を止めた。「そもそも」の先はなんだろう。
「鮎川さんが楽しそうにしているのを見ているのが僕の楽しみだ。……と言ったら、迷惑かしら」
「迷惑なんてことは」
遠くで水音がする。
「お。そろそろ温泉に入れるかも。一応は源泉掛け流しだよ。どれ、温度がちょうどいいかどうかを見てこよう」
絶対に罰が開始されてると思う。