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23 育てたように

 あんなに胃が痛かったのに、桂木さんとおしゃべりしたら痛みが消えた。

 今までは胃痛が始まると、最低でも一週間は痛いのが普通だったのに。こんな経験は初めてだ。


 もっとも、私の抱えている秘密を、洗いざらい話したことも初めての経験。長年背負っていた重荷から解放されて、私の胃が喜んでいるのかもしれない。

 あたりに人がいないのを確かめてから、胃のあたりをそっと撫でて「よかったね」と話しかけた。

 

 今は駅前のコインパーキングに車を停めて、桂木さんを待っている。深山奏のように、私の尻尾も今、ゆらゆらと揺れているに違いない。

 予告通りの時間に桂木さんが駅の改札から出てきた。

 ドアを開けて一歩足を外に踏み出し、手を振って「桂木さん、ここです!」と声をかけた。


 桂木さんは私に気が付くとパッと笑顔になった。その笑顔を見て、胸の奥から(好きだなぁ)という思いが込み上げてくる。もちろんそれを口に出すつもりはない。


「お待たせ。外はやっぱり寒いね」

「十二月になりましたから」


 パーキングの料金を支払い、車を発進させる。桂木さんは後部座席ではなく助手席に座っている。何度も「後部座席のほうが安全なのでは?」と言っているのだが、「助手席がいい」という返事。

 あっという間に桂木邸に到着した。


「夕食の前に、なにか飲み物を淹れましょうか?」

「緑茶で。ぬる目でお願いします」


 六十度で緑茶を淹れてから「さあ夕食の準備を」と台所に立ったら、「ちょっと座って」と言われた。桂木さんの向かい側に座ると、少しかしこまった感じに話が始まった。


「鮎川さん、年末年始の予定は決まっていますか?」

「特にありません。ライターの仕事を進めようと思っています」

「年末年始も働くの?」

「はい。もしかしたら、養護施設の仲間に会うかもしれません。でもその人はカレンダーは関係なしに仕事がある人なので、まだ何も決まっていません。私、ここにいないほうがいいですか? それなら……」

「違う違う。鮎川さん、全然休みを取ってないでしょう? 週に一日は休んでねって言っても働いているから。僕から年末年始の旅行をプレゼントしたいんだけど」


(二人で旅行ですか?)と喉元まで出かかったけれど、嬉しそうな顔をするのもためらわれて、一瞬言葉に詰まった。


「嫌? 若い人は若い人同士でパーッと楽しく過ごすほうがいいか」

「嫌じゃありません! 旅行って、どこにいらっしゃるご予定ですか?」

「どこでもいいよ。沖縄でも北海道でも、九州でも」

「そんな。飛行機代が高騰する時期なのに。近場で、いえ、近場がいいです。お、お、温泉なんて、ぜい……贅沢でしょうか。私、源泉かけ流しの温泉に入ったことがなくて。もしできればですけれど」


 焦って言葉に詰まってしまった。恥ずかしい。

 温泉旅行なんて贅沢で、かつての恋人たちとは出かけたことがない。


 割り勘にこだわっていた私に旅行に行く余裕がなかったのと、お付き合いしていた相手が全員年下だったのもあって、値段が跳ね上がる大型連休に何日も旅行する、という経験がない。


「ああ、じゃあ、僕が好きな温泉でいいかしら。近いよ。塩原温泉」

「塩原というと、栃木県ですね」

「うん。その温泉の近くに別荘地帯があって、会員になってるんだ。その別荘にも温泉は引いてあるんだけど、濃い硫黄泉をかけ流しにしている宿が近くにあるよ。そこに入りに行こうか。ちょっと待って、別荘が空いているかどうか見てみるね。……うん、大丈夫だ。行く?」

「行きたいです!」

「よし、じゃあ決まりだ。二十九日に出発して、三日に戻ろうか。車がいい? 新幹線とタクシーがいい?」

「五泊六日……。すごいですね。あ、乗り物のお話でしたね。新幹線ではいかがでしょう。桂木さんが運転で疲れずに済みますから」

「ありがとうね。じゃあ、それも予約……と。はい、予約完了」


 大金がかかるであろう温泉旅行が、いとも簡単に決まった。桂木さんにとってはたいしたことのない金額だろうけど、総額いくらかかるのか想像するとドキドキする。しかも二人で? 深山奏は? 呼ばないのかしら。え、本当に私と桂木さんの二人で旅行?


 私は冷静な顔を保ちつつ、内心はワタワタしながら夕食を用意している。

 今夜の夕食は、地物野菜と近所の魚屋さんで買った海老、イカ、白身魚を蒸したもの。それとホタテの炊き込みご飯。『はばのり』のお味噌汁。「とにかく海のものが食べたい」というメッセージを見て決めたメニュー。


「さあ、どうぞ。胡麻ダレとポン酢を用意しました。お庭で実っているカボスと粗塩もおすすめです」

「ああいいねえ。一緒に食べよう。いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

「あ、はばのりだ。どこで買ったの?」

「魚清さんです。使い方も教えていただきました」

「僕ね、ここに引っ越してきて初めて知ったんだけど、美味しいね、はばのり」

「はい。美味しいです。歯ごたえも香りもいいですよね」

「新鮮な魚介類って、こうして蒸しただけで十分美味しいな」

「鯛埼町の住民になれてよかったなと思います」


 二人でご機嫌に夕食を食べ終え、私は食器を片付けて二階に上がった。

 この部屋にはテレビがある。ずっと父のことが気になって、ニュースを次々と選んで見ているのだが、逮捕されたという一報が流れたあとは、続報がない。


 母は行方が分からないのだとか。水川刑事によれば、なんと母は父を残して家を出て、フィリピンでも失踪状態だそう。きっと裕福なフィリピン人と暮らしているのだろうと思う。水川刑事も同意見だった。


「お母さんは今、五十九歳か。相変わらずすごいのねぇ」


 未決拘禁者である父に、会おうと思えば会える。だが会いに行く気はない。

 父が自分の人生を歩くのに必死だったように、私も自分の人生を歩くのに必死だ。十二年間育ててもらった恩はあるけれど、私の場合はもう、親子の縁を切った。会わない。


「ごめんね。お父さん。裁判に引っ張り出されない限り、もう会うことはないと思う」


 天井に向かって声に出した。それは昨夜、美幸さんと話をして自分で決めた。

 美幸さんは「絶対に会うな」と言う。「あなたを捨てた親を、あなたも捨てなさい。関わっちゃだめ」と美幸さんは繰り返していた。


「彩恵子ちゃんは優しいからさ、会いに行ってあれこれ頼まれてごらんよ。絶対に断れなくなる。そしてずるずると娘であることを利用される。あっちが死ぬまで利用されるよ。会いに行っちゃだめ」

「……うん」

「彩恵子ちゃん、絶対に会っちゃだめだからね? それで苦しい思いをしても、会わないほうがいい。十八年間、一度も連絡をしてこなかった親なんて、他人よりもよっぽど始末が悪い存在だよ」

「……うん」


 職を転々としてきた私と違って、美幸さんは高校を卒業してからずっと同じ介護施設で働いていて、今は介護士さんたちのリーダーになっている。

 美幸さんは、そこで最期を迎える人たちを見て、学んだことがあるそうだ。


「人ってね、我が子を育てたように老後を迎えるものなのよ。子供を大切に育てた人は、大切にされてるよ。子供を苦しめて育てた人は、面会なんて誰も来ない。連絡もない。本人は自分が子供を苦しめたなんて私たちには絶対に言わないし、都合の悪い過去は上手に記憶から消してたりするんだけどさ。見てたらどんな子育てをしたのか、だいたいわかるよ」

「わかるもの?」

「わかるね。一切連絡を取ってこない子供は、危篤だって連絡してもゆっくり来てさ、下手すりゃ亡くなってから来て、親の悪口言ったりする。『育てたように看取られる』って、私たちはよく言ってる」


『育てたように看取られる』という言葉は妙に私の心に刻み込まれている。


 そんな私は結婚を願ったことがない。

 好きな人のそばにいられれば、それでいい。

 私は、桂木さんのそばにいられたら、十分幸せだ。

 

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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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