22 最初のルール 『と』
三人掛けのソファーに二人で座ったまま、桂木さんが考え込んでいる。
私は過大な期待をしないように、なにを言われても笑顔で「わかりました。お世話になりました」と言う覚悟をした。
「あのね。鮎川さんは自分が被害者だっていう自覚はある? あなたは小学生だったんだよ。親に言われて、理由もわからずに与えられた指示に従っただけ。それはわかるよね?」
「わかってます。でも……」
「だめ。『でも』は無しだ。それ、レイプ被害に遭った女性が『自分が夜にあんな場所を歩かなければ、こんなことには』って言うのと同じだから。悪いのはレイプしたほうでしょう」
「そうですけど」
「だめ。『けど』も無しだよ」
桂木さんは私の両肩に手を置いて、私を自分のほうに向けると、少し怒っているような顔で話し始めた。
「頭ではわかっていても、感情的にっていうんでしょう? それは間違いだ。あなたは被害者なの。小学生のときに親が詐欺師と知ったときから、二十年近くも苦しんできた。自分の役目に気づいてからは、もっと苦しんだ。詐欺罪って、最長でも十年以下の懲役だよ。あなたはそれよりもずっと長い年月を苦しんで、名前を変えて、職を転々として……ああ、ちょっとごめん」
桂木さんはそう言って横を向き、手の甲でグイッと目をこすった。
「とにかく。鮎川さんはもう十分なの。十分苦しんだ。もういいんだよ。自分を責めるのも、親がやったことで下を向くのもやめなさい。あなたは笑って生きなさい。笑えなくなりそうなら僕を頼りなさい。僕が力になる」
こんなに心配してくれている人に「あなたを好きになってしまいました」と言えるほど、私は空気が読めないわけじゃない。だけど、せめてこれだけは伝えたい。
「私は、まだ桂木さんの家で家政婦をしたいです。いいでしょうか」
「もちろんだよ。僕は何度もそう言っているでしょう。ギプスが外れたら、あなたはさっさと出て行くんだろうなと残念に思っていたんだよ。鮎川さんのお味噌汁は美味しいよ」
そこで桂木さんは少し言葉を止めて床に視線を向けていたけれど、「はぁぁぁ」とため息をついた。
「ごめん。今、ものすごく卑怯な言い方をした。鮎川さんのお味噌汁は間違いなく美味しいし、アラビアータも卵焼きも美味しい。だけど、そんな理由で家に居てほしいなんて言うのは卑怯すぎた。僕はあなたの心があまりにきれいで、こんなに心のきれいな人にはもう二度と出会えないだろうと思ってる」
「……んん?」
「ここでそんな怪訝そうに『んん?』って言うかな。もう」
桂木さんは笑って、「まあいいです。で、胃の具合はどうですか」と言う。
「あれ? 痛みが消えています」
「夕食を食べられそう? この近くに美味しいおでん屋さんがあるんだ。胃が動くかどうか、まずは大根で様子を見ない?」
「見ます! ごぼう巻きとはんぺんも様子を見ます!」
「日本語が変だから」
なんだかおかしくて笑ってしまう。心が軽くなって、ずっと背負ってた大きな石を下ろしたような気分だ。
心がきれいだからそばに居てほしいって、もしかしたら桂木さんは……と思ったけど、「それってどういう意味ですか」と聞く勇気はなくて、聞かなかった。
調子に乗って踏み込んで大失敗をしたくない。そばにいられるだけで十分幸せだ。欲張って全てを失うようなことはしたくない。
「行きましょう、おでん屋さん。日本酒も飲みますか?」
「僕は飲むよ。鮎川さんは?」
「飲みます」
「ただし……」
「お互いに飲み潰れない程度で!」
「それ。ほどほどが大切だ」
「ですね。桂木さんに罰を与えられたくないですから」
そう言うと桂木さんがギョッとした顔になった。
「なにそれ。僕、あなたに何かした? していないよね?」
「してませんけど、『今度コーヒーを一緒に飲んでいいですかって聞いたら罰を与える』っておっしゃってました」
「僕が? 罰って言ったの? 全く記憶がない。僕、本当にそんな恐ろしいことを言った?」
「言いました。お酒が言わせたんでしょうから、私は気にしていませんけど」
「ちょっとまって。僕、どんな罰を与えるって言った?」
「早く行きましょう! おでん屋さん」
「いやいやいや。待って。教えてよ」
「待ちませんし教えません。行きましょう! 桂木さんのおごりでいいんですか? 割り勘はお嫌いなんでしょう?」
「ご馳走するけど! 鮎川さん、待って。僕はなにを……」
「さ、早く早く」
桂木さんはいろいろ言っていたけど、教えないつもりだ。『これでもかっていうぐらい甘やかすと言われました』なんて、自分の口からは恥ずかしくてとても言えない。
赤いのれんのおでん屋さんは、コの字型のカウンターだけのお店で、お客さんは半分くらい入っていた。カウンターの中には白い割烹着の女性と、六十代ぐらいの男性。
桂木さんは大根とイカ天、昆布。私は大根とはんぺん。
飴色に味がしみている大根は、どうにか形を保っているくらいに柔らかく、口に入れたらいきなり食欲が出た。
蠣やロールキャベツ、ミニトマトの牛肉巻きなども食べておなかいっぱいになり、マンションに引きあげた。私も桂木さんもほろ酔いだ。
マンションの前に着いたとき(あれ? 桂木さんはお酒を飲んで、今日はどうするんだろう)と遅ればせながら気がついた。
「桂木さん、今夜はどうするんですか?」
「ああ、ホテルに泊まるよ。明日は東京で仕事がある」
「おかしいですって。桂木さんのマンションに私が寝て、持ち主の桂木さんがホテルって。いいです。私がホテルに泊まります」
「いい。もうホテルは予約入れた。これ、マンションの鍵。一個はあなたが持っていなさい。また警察に呼び出されたら、ここを使えばいい。じゃあね」
そう言って背中を向ける桂木さんに声をかけた。
「桂木さん、鯛埼町に帰ったら、美味しい料理をたくさん作ります」
「お願いします」
「それと、桂木さんがくつろげるよう、全力で頑張ります」
「七割ぐらいの力でお願いします」
「それと、いつも助けてくれてありがとうございます」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
何歩か歩いた桂木さんが振り返って、ちょっと怖い顔になって「『でも』と『けど』は無しだよ」と言って歩き出した。
私は桂木さんの背中にむかって、頭を下げ、「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」と口の中でお礼を言った。
「と……遠い日の落とし物を三十で拾う、っていうのはどうですかね、桂木さん」
小さくなっていく桂木さんの背中に語り掛けた。
◇ ◇ ◇
翌朝、りんかい線、京葉線、外房線と乗り継いで、鯛埼町にたどり着いた。最後はバスに乗って、バス停からてくてくと歩いて桂木邸に戻った。
家の中を確認したけれど、家中がきれいだった。なので今日は床のモップがけに専念してからパソコンに向かった。
メールを確認して返信し、原稿を書く。インタビュー記事が好評だったらしく、またインタビューの依頼があった。
「こうして少しずつ指名の仕事が増えるといいな」
人生の目標がなかった私だけど、書く仕事に就いてからは目標ができた。
フリーライターの記名無しの仕事は私自身に注目されないから助かる。それでも自分の努力を認められるのはとても嬉しい。
一人で過ごす桂木邸は静かすぎるから、ずっとスマホで音楽を流していた。ダウンロードしてある曲を聴きながら、ふと、桂木さんの言葉を思い出す。
『恋に悩んで眠れないとか、何も手につかないとか、若い頃からその手の経験が一度もない』と言っていたっけ。
「そりゃそうよねえ。私なんかに好意を持つはずないわ。あれは善意でしょうよ。危ないとこだった。とんでもない失敗をするところだったわ」
苦笑しつつ窓を磨く。窓ガラスが汚れていると、せっかくのきれいな庭の景色が損なわれる。そろそろ昼ご飯の時間だけれど、自分のために凝ったものを作る気にはなれないから、冷蔵庫の食材を確認して賞味期限が迫っている材料で親子丼を作った。材料がいいからめちゃめちゃ美味しい。
桂木さんは野菜と魚以外の食材を通販している。一人暮らしのときから定期的に送られてくる食材をちゃんと使い切るようにしていたらしい。高級な食材が多いから「食費を払います」と言ったけど「あなたが消費する食材の金額を計算するのが面倒くさい。そんなことに時間を使っている間に、仕事でもっと稼げる」と言って受け取らない。
どんぶりを洗いながら、(なにかいいお返しができるといいのに)と思う。お金持ちでも喜ぶ贈り物……難しすぎる。手作りのなにかなんて、迷惑以外の何物でもないだろうし。
そんなことを考えているうちに夕方になり、『これから帰ります。十九時ニ十分に駅に着きます』とメールが来た。
駅に向かって車を走らせながら(贈り物を考える前に『でも』と『けど』をやめよう。まずはそこから)と思う。
海辺の町で間借り暮らしをする私の、最初のルールだ。