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21 商店街のマンション

 翌朝に桂木邸にやってきた水川刑事は、「そういうものは頂かない決まりですから」と言ってコーヒーを断った。なので私は早々と身支度をして警察の車に乗ることになった。


「行ってらっしゃい。言いたくないことは言わなくていいんだよ。あなたはただの参考人だし、任意の事情聴取なんだろうから」

「はい。わかりました。行ってきます。私、必ず戻ってきます。このままいなくなったりしません。だから待っていてください」

「うん。それは心配していないよ。あなたの聴取が終わるのを待っています」


 こうして私は四葉事件を追い続けている警察署に連れて行かれ、とある『手紙』について繰り返し質問された。知っていること、覚えていることを何度も何度も説明し、(疲れた……)と天井を見上げた頃に解放された。


「あなたの雇い主、いや、社長か。その人が弁護士を連れて来てるよ。今日は長い時間、ご協力をありがとうございました」

「私はもうこれで終わりでしょうか」

「なにかあればまたご協力をお願いします」


 事情を聞かれていた部屋を出て、廊下の壁の時計を見たら、もう午後の六時。いったい何時間あの部屋にいたんだろう。外はもう真っ暗だ。

 正面入り口に向かって進むと、長椅子に桂木さんが座っていた。

 桂木さんはギプスが取れていて、スーツの上着に袖を通している。今までは肩に上着を羽織っていて、ちょっとやんちゃな雰囲気があったけれど、今はきちんと三つ揃いを着ている。桂木さんは、間違いなく仕事が出来そうでダンディな素敵な人だ。


「お疲れ様。全部終わったの?」

「一応は。また事情を聞かれるかもしれないそうです。弁護士さんも一緒だと聞きましたが」

「弁護士はもう帰ったよ。おなかは? 空いてる?」

「んー……胃が痛いです」


 正直にそう答えると、桂木さんが眉毛を八の字にして「さ、ここを出よう」と私の背中にそっと手を添えて促してくれる。


「食事はできそうにないんだね?」

「はい。疲れてしまって、とりあえず宿を確保して休みたいです。もう、動ける気がしないので、明日鯛崎町に帰りますから。申し訳ありません」

「ああ、それなら、僕が東京に来たときに泊まるためのマンションがあるから。そこを使えばいいよ。狭いけど、ひと通りの家具は揃っているから。食料はないけど、お店がたくさんある場所なんだ。それともホテルを取った方が気が楽?」


 今、心に浮かんでいる言葉を声に出して言ってもいいだろうか。それは大間違いなんだろうか。最近、桂木さんに何かを言おうとすると、いつも迷う。こんなこと、今まで誰にも一度もなかったのに。


「なあに? 言いたいことを言わないと、余計に胃が痛くなるよ?」

「もう少しだけ、桂木さんと一緒にいたいです」

「どうした。具合が悪い?」

「身体の具合は胃痛だけですけど、今、一人になりたくないです。お忙しいのはわかっています。三十分でいいので、そばに居て話を聞いてもらえませんか? あっ、でも、無理にとは言いません」


 桂木さんのネクタイに視線を向けながら一気にそう言って、恐る恐る視線を上に動かした。桂木さんは優しい笑顔で笑っていて、いつものように考えが読み取れない。


「いいに決まっているでしょう。よし、ギプスも取れたことだし、僕がお茶でもコーヒーでも淹れます。さあ、行こうか。便利だけはいい部屋だから。ああ、安心して。鮎川さんと二人になっても、送り狼になったりしないから」

「それは心配していません」

「それはそれで……いや、なんでもない」


 桂木さんの運転するベンツに初めて乗り、着いたマンションは予想を裏切る場所だった。

五階建てのマンションは、なんと下町の有名な商店街の中にあった。

一階は鮮魚店。魚や柵取りされた切り身のパックが氷の上に並んでいて、店主が枯れた声で呼び込みをしている。

 エレベーターの壁は傷だらけだし、廊下の塗装はあちこち剥がれている。


「意外です。私、ウォーターフロントとか、タワーマンションとか、夜景が広がる、とかいうお部屋だと思っていました」

「残念でした。ここは僕のお気に入りなんだ。家を建てたから本当は手放すべきなんだけど、愛着があって手離せないままになってる」


 あの豪邸に住んでいる桂木さんがこういう庶民の聖地みたいな場所にマンションを持っているとは。でも入ってみたら、五階のその部屋は、あの豪邸と同じようにモデルルームみたいに物が少なかった。

 リビングには三人掛けのソファーが一脚、楕円形のテーブル。それだけ。テレビもない。


「狭いけど、ホテルのシングルよりは呼吸しやすいと思うよ」

「居心地が良さそうです。あっ、お茶なら私が」

「いいって。座ってなさい。疲れたでしょ。『八時間を超える事情聴取は問題ですよ』と言ったらすぐに聞き入れてくれたよ」

「詳しいんですね」


 そう言うと、コーヒーのドリップバッグをカップにセットしてお湯を注いでいる桂木さんが「ふふふ」と向こうを向いたまま笑った。

(なんで笑ったの?)と思いながらも黙っていたら、コーヒーをテーブルまで運んでから、説明してくれた。


「鮎川さんの生い立ちを聞いてから、少しずつ取り調べや事情聴取に関する規則も調べたんだよ。あなたのご両親が逮捕されたら、きっとあなたも引っ張り出されるんだろうな、と思ったからね」

「私のため、ですか?」

「うん。そうだよ」

「そこまでしてくださってるのに、私がなんで警察に呼ばれたか、聞かないんですか?」

「聞いていいの?」

「聞いてほしいです。誰かに、いえ、桂木さんに聞いてほしいです」

「聞くよ」


 そう言いつつコーヒーを飲む桂木さんが目顔で「どうぞ」と言うから、私もコーヒーを飲む。美味しいコーヒーだ。


「父が中心だった地面師グループは、手付金を受け取ってから詐欺がバレて、仲間はみんな捕まったんです。でも、私の両親だけはフィリピンに高跳びしました。ここまではお話ししましたよね」

「うん」

「詐欺がバレた原因は……私です。私が警察に手紙を出しました。『四葉ハウスを詐欺のグループが騙している』『犯人は柿田守』それだけの短い手紙です」

「うん? だってあなた、小学生だったでしょう? 小学生が書いたらすぐに調べがつきそうじゃない。なのに、それを今ごろ?」

「私、手先が器用な子供だったんです。それと、両親が詐欺師だと知ってから、区立図書館でたくさん本を読んで詐欺のことや犯罪に関することを調べました」


 桂木さんが「それで?」という顏で私を見ているので、丁寧に説明した。

 小学六年生の私が、ゴミの日に捨てられている新聞紙の束から新聞を抜き取り、文字を切り抜き、糊で貼って手紙を作ったこと。

 指紋を調べられてもいいように、全部の指に指サックをつけて作業をしたこと。

 消印から出した郵便局がわかるらしいから、わざわざ都バスに乗って遠くまで手紙を出しに行ったこと。

 だけど最新の科学技術で、微量の皮膚片から私の遺伝子が見つけ出され、手紙の差出人が私とバレたこと。


「驚いたな。鮎川さんは頭がいい人だとは思っていたけど、小学生でよくそこまで思いついたね?」

「必死でしたから。父が大きな仕事をしているという話は、母から聞いていましたし。父が仲間を集めて話をしているとき、さりげなく聞き耳を立てていたら、相手が四葉ハウスだと知りました。父も父の仲間も、まさか主犯の娘がそんなことをするとは思わなかったのでしょうね。結構油断して会話していたんです」


 ついにしゃべった。

 美幸さんにさえ言ってなかったことだけど、どうしても桂木さんには聞いてほしかった。


「母は結婚詐欺で刑務所に入っていましたが、初犯じゃないにもかかわらず、一年で家に帰って来ました。父は詐欺師として捕まったことがないと聞いていたので、父も一年か二年、長くても三年ぐらいで帰って来ると思い込んでいたんです。小学生の頭で、そう考えました。まさか私が三十になるまで帰って来ないとは、想像もしませんでした」

「詐欺罪は、長くても十年くらいじゃなかった?」

「はい。でも、父は日本を出てもう十八年です。根性ありますよね。根性の使いどころを完全に間違っていますけど」

「子どもの頃の鮎川さんは、なんでお父さんを逮捕させようと思ったの?」


 コーヒーカップのコーヒーを眺めながら、正直に答えた。


「父に大きな罪を犯してほしくなかったから。今思えばですけど、それは結果的に私の復讐になっていました」

「復讐って、どういうこと?」

「父は私を……詐欺の道具にしたんです。私、父が捕まっていない土地取引の詐欺で、相手を信用させるための芝居をさせられていました。子供だった私は、父や母に言われるまま、地主になりすましている土地の、近所の子供の役を演じていたんです」

「何をしたの?」

「騙す相手を信用させるために、たまたまそこを通りかかったような顔をして『おじさま、こんにちは。この前はバレエの発表会を見に来てくださって、ありがとう』とか『田中のおじさま、ピアノの発表会をまた見に来てくださいね』とか言う役です。それを聞いて、相手は父をそこの地主だと思い込んでしまうんですよ」


 言ってしまった。これは警察にさえ言っていない、私の秘密。

 大人になったある日突然、自分がなにをやらされていたのか理解したときのショック。今でも私を繰り返し傷つける後ろめたい記憶だ。


「それ、何歳で気がついたの? そのことを今まで誰かに話したことがある?」

「人に話すのは桂木さんが初めてです。自分の役目に気がついたのは、十九のときです。芝居をしたことはずっと忘れていて。ある日、あれはなんだったのかなと思い出して考えているうちに気がついたんです。恐ろしくて誰にも言えませんでした」

「そう」


 桂木さんはコーヒーカップをテーブルに置き、少し悲しそうな顔をして、私に尋ねる。

「今、あなたを少しだけ抱きしめてもいいかな。あなたの苦しみを、僕が代わりに引き受けられたらいいのにね」


 桂木さんの目が少し赤い。


「私みたいな穢れた人間でよければ、抱きしめてほしいです。私、ずっと苦しかった。いつも不安で、苦しくて、働き続けて忙しくしていないと、通りを歩いているときに突然叫び出してしまいそうでした。私のせいでお金や家や土地を奪われた人が、いったい何人いたのかさえ、私にはわからなくて」


 桂木さんが立ち上がり、私の隣に来た。そして少し腰をかがめて、びっくりするぐらい強い力で私を抱きしめてくれた。強く抱きしめた後で、桂木さんが私の背中を優しくトントンと叩いくれた。


「今までつらかったね。」


 抱きしめられて、そう言われて、はっきりわかった。

 私は自分の汚い過去を全部さらけ出して、それでも桂木さんが私を受け入れてくれることを願っている。誰かに何かを願うなんて、子供の頃にやめたのに。

 桂木さんには嫌われたくないし見捨てられたくもない。

 正直に告白して嫌われるなら、一秒でも早い方がいい。そのときはさっさと桂木さんの前から姿を消そう。

 桂木さんへの想いが育ちすぎて、もう気がつかないふりをすることも、なかったことにすることもできそうもない。


 私は桂木さんが大好きだ。


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― 新着の感想 ―
[一言] 朝から泣きそうになってる
[良い点] おお、ついに想いが‥。 なるべく長くなって欲しい、この小説。
[良い点] 涙が止まりません。 紗枝さん辛かったね。本当に辛かったね。 30歳。長かったね。 今、その辛さを受け止めてくれる大人に出会えて、本当に良かった。 小学生の頃の紗枝さんが、20歳の頃の紗枝さ…
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