20 ぬる燗
「水川さん。私にご用でしょうか」
「ああ、彩恵子さん。ちょうどよかった。あなたがここにいるらしいと聞いてね。会わせてくれと頼んでいたところだよ。この家の人が私の身元を警察に確かめるまでは門を開けないって言い張ってるんだ」
「そうですか」
車の中を見たら、若い男性が助手席に座っていて、私と水川さんを見ている。そうだよね。警察の人って、二人で行動するものね。
私はインターフォン越しに桂木さんとやり取りして、水川刑事と共に家に入った。
出迎えた桂木さんは私に普段の笑顔を、水川さんには完璧なよそ行きの笑顔を向けた。
(こんなに器用に笑顔を使い分けられる人だったんだ)と、本気で感心した。
水川さんをリビングに案内して、私がお茶を淹れた。
「刑事さんは鮎川さんにどのようなご用件でいらっしゃったんです?」
「捜査上のことです」
「雇用主として、私も同席させていただきます」
「そうですか。彩恵子さんがいいなら私はかまいませんよ」
「私は桂木さんに同席していただいても問題ありません」
「そうですか。では、早速ですが、彩恵子さん、あなたのお父さんがフィリピンで逮捕されました。まもなく日本に送還されます」
「……そうですか。私はもう両親とは縁を切った人間ですので、関係ありませんが」
「そうですか? 関係あるでしょう?」
桂木さんが穏やかな口調で割って入った。
「刑事さん、鮎川さんは、事件当時小学生だったんですよ? 今までも散々質問してきたんでしょう? もう十分じゃないですか」
桂木さんの表情は穏やかなままなのに、全身から氷みたいに冷たい雰囲気が伝わってきて驚く。いつも笑顔の桂木さんとは別人みたい。
水川刑事は桂木さんを見た後で、含みのある表情をして私を見る。
「申し訳ないが、ここから先は捜査に関することなので、彩恵子さんと二人で話したいのですが」
「父のことは全部桂木さんにお話ししてあります。ここでどうぞ。私はかまいません」
「そうですか。では。彩恵子さん、日本の警察の科学的捜査技術は日進月歩でしてね。四葉事件当時は解明できなかったことが、今は可能なんです。紙についたわずかな皮膚片や汗からでも、いろんなことがわかるんですよ。この意味、おわかりですか?」
『ポチャン』と音を立てて、私の心の池に、墨汁を一滴垂らされた気がした。
黒い不安が瞬時に水面に広がり、そこから水面下へと黒いモヤモヤが広がっていく。
まさか、あれがバレたのだろうか。
「桂木さん、私、やっぱり水川さんと二人で話をしたいです。私、水川さんと外に行ってもいいですか?」
「鮎川さんが決めることだよ。鮎川さんがそうしたいなら、僕が部屋に引きあげる。ここで話せばいいよ」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
桂木さんはいつもの笑顔で自室に向かった。
「あの手紙を出したのは、彩恵子さんでしょ?」
「……」
「答えはもう、出てるんですよ」
「そうですか」
「あなたが知っていることを、証言してもらいます。その前に、一度ゆっくりその時のことを聞かせてください。これから東京にご同行願います」
「明日じゃだめですか。ご覧になったように、桂木さんは利き手を骨折中です。だから私はこちらに雇われているんです。家政婦の代わりを捜しますから。桂木さんは独り暮らしで……逃げません。水川さん、私、逃げませんから、明日の朝でいいですか」
「いいですよ」
絶対にだめだと言われると思っていたから、びっくりした。
「この町には二人で来てますからね。逃げようとしても無駄ですよ」
「逃げません。両親のことで逃げるのはやめたんです。知っていることはお話しします。ですから、どうか、桂木さんには迷惑をかけないでください。お願いします」
「わかりました。彩恵子さん、私はあなたのお父さんが逃亡している間に結婚してね、娘がいるんです。今十五歳の生意気盛りだ」
「そうですか」
「あなたが十八で就職したとき、私は何度も会社に行きましたね。娘を見ていて思い出すんです。私も仕事だったとはいえ、あなたが職を転々としてたのは、私らが原因だったはずだ。悪かったね」
(今さら申し訳なさそうにされても、私の十代はやり直せないのに)
「今夜、桂木さんにきちんとお話して、明日の朝、必ず水川さんと一緒に東京に行きますから」
「わかりました。申し訳ないけど、この近くで待機させてもらいますよ」
「はい」
水川刑事が帰ると、すぐに桂木さんが部屋から出てきた。
「鮎川さん、話は無事に終わったの?」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかなにもない。大丈夫だった? なにか嫌な思いをしなかった?」
「大丈夫です。桂木さん、お夕食、なにかリクエストありますか?」
「外に行こうか。さんが焼きを食べに行こう」
「さんが焼きって、貝殻にお魚の身を叩いて載せて焼くっていう? あれですか?」
「それ。美味しいよ。食べたことある?」
「いえ、一度もありません」
「そうか。鮎川さんが嫌じゃなかったら日本酒を飲みながら食べたいなあ。タクシーで行こう。鮎川さんも飲もうよ、日本酒」
「いえ、私は……」
「昨夜は僕のために徹夜したでしょ? 遠慮はなしにしてよ。いや、なしにしなさい」
「ふふ。はい、ではお供させてください」
「割り勘とか言わないでよ」
「わかりました」
私、ちゃんと屈託のない笑顔を作れていただろうか。
昼に二時間ほど眠って、原稿を書いて、夜は外食になった。
タクシーで訪れたお店はこの前とは別の磯料理屋さん。二人でテーブル席に座り、さんが焼きを二種類とお刺身の盛り合わせ、桂木さんは鯵の塩焼き、私はイカの天ぷらを頼んだ。
「ご馳走ですね」
「たくさん食べなさい」
「はい。いただきます」
さんが焼きはお味噌と青じそが混ぜてあって、さっぱりと美味しい。焦げ目の部分が香ばしくて、そこだけで白米が山盛り食べられそうな美味しさだ。
イカの天ぷらと鯵の塩焼きを半分ずつ交換して、日本酒を飲みながらゆっくり食べた。
「この町で外食して、全部が大当たりの大満足です。いいところですよねえ、鯛埼町って」
お茶のお代わりを持ってきたお店の奥さんが
「奥さんを連れて来てくださったのは、初めてですね。どうぞ奥さんもご贔屓にお願いしますね」
と言って厨房に戻って行く。
私は慌てて「違います、使用人です」と言おうとしたのだけれど、桂木さんが笑って首を小さく振るので言い出せなかった。
「桂木さん、どうして訂正させてくれないんですか!」
「いいじゃない。勘違いさせておけば。僕は楽しいよ」
「だけど、ご迷……」
「はいストップ。気にし過ぎ。おかみさんだって、明日にはもう忘れてます」
「立ち入ったことをうかがいますが、桂木さんは、ずっと独身だったんですか?」
「いや。離婚歴があります」
「あっ。ごめんなさい」
「謝らなくていいって。遠い昔のことだよ」
そうよね。結婚歴があって当たり前よね。こんなにかっこいいんだものね。
「結婚はしたけど、結構地獄だったよ。当時は相手に問題があると思ってたけど、本当は僕に問題があったのかもしれない。数年前からそう思ってるんだ」
地獄ってどういうこと? 奥さんに執着されたってこと?
「鮎川さん、自覚あるのかな。ないのかな。考えていることが、まんま顔に出るよね」
「そんなことは……」
「あるよ。今、『結婚してたのか』とか『奥さんに執着されたのか?』って思ったでしょ」
「うっ」
「そんなに顔に出してると、麻雀もポーカーも花札も負けちゃうよ」
「どれもやらないから大丈夫です」
「そう。十四代は美味しいねえ」
「美味しいですね。私、日本酒は飲めるのと飲めないのとあるんですけど、これは飲みやすいし香りがいいですね。美味しいです」
「うん、きっと気に入ると思った。鮎川さん、香りのいいものが好きだものね。それと、僕と食の好みが似てる気がする」
「似てますね」
そこから桂木さんはグイグイ飲んでいる。
一合徳利が四本並んで(これはまた意識を失うように眠るパターンでは?)と思い始めた頃、桂木さんが本日のメインイベントを始めた。
「あの刑事、君に何を言ったの? 刑事が帰ったあと、鮎川さんの顔が真っ白だった。僕には言えないこと?」
「……ええ、はい。すみません」
「そうか」
そこでまたグイグイ飲み、桂木さんは十四代のお代わりを頼んだ。
「すみません、あと一本、同じのを」
「お代わりもぬる燗でよろしいですか」
「うん。ぬる燗で」
私は少し慌てた。
「桂木さん、もうそろそろ日本酒は終わりにしませんか」
「いやだ」
「いやだって。ああ、もう口調が酔ってますって。私のことなら大丈夫ですから」
「それもそうだけど、明日、病院なんだ。ギプスが外れるんだよ」
「あら。予定よりずいぶん早かったですね。おめでとうございます」
「鮎川さん、この後もうちにいてくれるのかしら。鮎川さんはギプスをしている僕を置いていけないからっていう理由で残ってくれてるんでしょう? 契約も一ヶ月だし、僕のギプスが取れたらすぐに出て行こうと思ってる?」
つい最近までそう思ってた。
でも、もう世間から逃げないと決めたから。お店の奥さんがぬる燗の徳利を置く間は口を閉じ、いなくなってから返事を口にする。
「桂木さんがいていいよと思ってくださる間は、家政婦として働かせてください。あっ、こういう言い方だと契約を切りにくいですよね。あの契約書では契約期間は一ヶ月でしたから、また一ヶ月更新していただけたら嬉しいです」
桂木さんが「はい?」みたいな顔をしたような気がするけど、ほんの一瞬だったから見間違えかも。
「一ヶ月……。うん、わかった。僕のほうこそよろしくお願いします。じゃあ、ギプスとのお別れを祝って乾杯しよう」
「桂木さん、私の乾杯はこのグラスでお願いします。お猪口じゃなくてコップでいただきます」
「それじゃ僕の分がひと口しかなくなる」
「だからです。またリビングまでマットレスを運ぶのは大変ですし、美味しいお酒を残すのはもったいないですから。じゃ、乾杯!」
ぬる燗の十四代をコップに注いでごくごく飲んだ。
私は初めて世間と戦うための一歩を踏み出すのだ。これは私のお祝いでもある。
日本酒をこんなに飲んだのは初めてだけど、とても美味しい。
お酒も美味しいし、料理も美味しいし、世間から逃げなくても生きていける。私は今、心がすごく軽い。
「桂木さん、ぬる燗て初めてなんですけど、美味しいですねぇ」
「うん、まあ、ぬる燗が美味しいというより、そのお酒自体が美味しいんだけどね。え? 残りも飲んじゃうの? 大丈夫なの? まあ、大丈夫か。鮎川さん、わりとお酒強いものね」
たぶん私は桂木さん言うところの『酔いを殺して飲む』というのを無意識にやったのだ。店にいる間は酔わなかったし、タクシーに乗っている間も、少しへらへらするぐらいで済んでいた。
なのに、門の前にタクシーが停まり、芝生の中の小道を歩いているうちに、急激に酔いが回ってきた。ぐわんぐわんと周囲が回り始めた。
家に入り、よろめきながら台所で水をぐびぐび飲んだところまでは、はっきり覚えている。少し気持ち悪いな、と思ったのも覚えている。
「鮎川さん? 鮎川さん! 僕、二階まであなたを抱っこで運ぶなんてできないよ。骨折が治りたてなんだからね。ねえ、鮎川さん!」
桂木さんがほとほと困った様子で語りかけてくるのが楽しくて、ずっと笑っていた記憶はある。
明け方に喉が渇いて目が覚めた。
私はソファーで布団をかけられていて、桂木さんはパジャマに着替えて床で寝ていた。昨日の私みたいに掛布団を敷いて寝ている。
(今度は私か! 私、寝言とか、いびきとか、大丈夫だった? うっわあ、最悪っ!)
思わず頭を抱えて呻いてしまう。なんたる失態。
桂木さんがパチリと目を開けて、頭を抱えている私を見て笑った。
「よし、これでおあいこだ」
「ううう。申し訳ございません」
「コーヒーを飲みますか。あの刑事さんたちにも持って行って飲ませたらいいよ」
「えっ」
「昨夜、店までタクシーを尾行してたし、今朝も門の前で待ってるよ」
「ご存じだったんですか」
「うん。昔、週刊誌に追いかけ回されたことがあるからね。尾行する車には結構目ざといんだ。さあ、起きよう。東京まで来いって、言われてるんじゃないの? あなた、それに同意したから、あんなに白い顔だったんでしょ?」
桂木さんは全部お見通しだった。