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2 高級車の匂い

 今から一ヶ月ほど前のことだ。

「紗枝ちゃん、いつまでも一緒だよ」

 最後に二人で出かけた時、当時恋人だった大杉みなとが大真面目な顔で私にそう言った。

(君もそれを言うんだね)と思った。

 過去に似たようなセリフを言った男性が三人いた。その三人は現在、全員私の世界から消えている。

 などということは私の側だけの話だ。私は笑顔で「ありがとう」と返した。


 ここで「いつまでもっていつまで? 死ぬまで? それ、プロポーズと受け取っていいのかな」などと詰め寄る気はない。私は結婚を匂わされるとサラリとかわすし、正面から申し込まれたらきっぱり断って逃げる。他の人と同じように人恋しい感情はあるが、結婚となると無理な身の上だ。


 港からのお出かけの誘いを立て続けに三回仕事で断って、さすがに四回目を断れなかった私は『小洗こあらいお魚パーク』に出かけた。

 家を車で出発したのが朝の七時。連休で混雑している道路を走り続けて到着した『小洗お魚パーク』の駐車場は、すでに近隣ナンバーの車がぎっしり並んでいた。

 

「紗枝ちゃん、ここの明太子おにぎり、すっごく美味しいんだよ。僕、紗枝ちゃんに食べさせたくてさ」

「楽しみ。もうおなかぺこぺこ」


 明太子おにぎりは大好きだ。

 そのおにぎりはこのパークの目玉らしいから間違いなく美味しいだろう。

 だが港よ。大杉港よ。

 その明太子おにぎりは、仕事に追われて睡眠もまともに取れず、三ヶ月もソファーでうたた寝しながら生きてる『なんでもやる課』みたいな私を連れて来るほどの美味なのかい? 本場の高級明太子をお取り寄せして、炊きたての白米を自分で握ったんじゃだめだったのかな。そしてここの明太子おにぎりを食べたのが四年以内の話なら、君は誰と食べたのだろう。一人で来て食べたなんてことは絶対にないよね。


 それを言葉にして口から出してしまったら、ここまで連れてきてくれた好意を踏みにじることになると思った。だから私は手を引かれながらおにぎりの実演販売所に笑顔で向かう。

 手をつないで行列に並び、少しの沈黙の後で大杉港は「ずっと一緒だよ」と言ったのだ。

 なのに。

 大杉港二十七歳の『ずっと』はかなり短かった。


 大杉港は浮気をしていた。

 いや、もしかすると途中から私が浮気相手に格下げになっていたかもしれない。私たちは婚約していたわけじゃなかったし、私は結婚の話を避け続けていた。


 港は女性に優しく、なかなかのイケメンで、いいとこの坊ちゃんで、一流私立大学の内部進学生で、有名企業に勤めている。黙っていても港に女性が寄って来ることは、交際する前から知っていた。


 港とは私の仕事先で出会った。映画の趣味が一緒なところから話が弾んだのがつき合うきっかけだ。交際してすぐに港の提案で半同棲になった。港は週の半分は実家にいたから半同棲。

 半同棲になってしばらくしてから、他の女性の気配に気づいた。でも私は「浮気してない?」と問い詰めることはしなかった。

 相手を問い詰める権利があるのは、今現在別れる気持ちが全くない人か、結婚を視野に入れている人か、浮気発覚をきっかけに別れたい人だと私は思っている。

 

 私は港とだけでなく、誰とでも数年で別れるつもりで交際する。

 半同棲が四年目になって、港とはそろそろ終わりにしなくてはと考えていた。こちらから別れを告げようとしていたら、先に港から別れ話を切り出された。


「紗枝ちゃんは結婚したくない人で、仕事が大好きで、強い人だからさ。僕なんかいなくても生きていける。だけど、僕がいないと生きていけないっていう人と出会っちゃったんだ」

「はいストップ。わかった。別れましょう」

「え?」

「港、四年間楽しかった。ありがとう。この部屋と家具は港が全部処分してね。二股したんだから、それくらいしてくれてもいいわよね?」

「あ、ああ、うん」

「元気でね。あなたがいないと生きていけない彼女さんと、お幸せに」


 私はそう言って、完全なる私物だけを箱詰めし、養子縁組してくれたシゲさんが残したボロボロの古い家に引っ越しして、即、焼け出された。なかなかに慌ただしい。


「さ。仕事しよう」

 

 私は頭の中の港を見えない消しゴムで消して、締め切りが迫っている仕事に集中した。

 その原稿を書くのは二度目だったから、記憶を頼りにしながらの作業は思いの外順調に進めることができた。原稿を書き終え、送信し、レースのカーテンを開けて窓の外を見る。


 私が使わせてもらっているのは二階の角部屋。南側は床から天井まで全面が窓。視界いっぱいに海が見える。景色を見る余裕がやっとできた。


 広い芝生の庭。その先の道路。さらにその向こうはコンクリートの防波堤があって、その先には青い海がどこまでも広がっている。

 そうだった。お金持ちは日当たりを確保するなんて当然で、極上の景色も込みで家を買う世界の人だった。


 借りたパソコンを返しに一階へ。

 桂木さんはリビングで電話をしていたが、私の姿を見ると指と視線で『パソコンはそこに置いて』と示す。指示されたテーブルにパソコンを置き、お礼を言いたいが桂木さんは電話中。

 電話が終わるのを待つのは聞き耳立ててるみたいだから、ぺこりと頭を下げて二階の角部屋に戻ろうとした。

 すると桂木さんは会話の途中で私に声をかけた。


「いいから、ここで待ってて。え? 違いますよ、ご近所さんがたまたま遊びにいらっしゃってて。まさか。そんなことをするのは佐々木さんでしょ? 私は品行方正なジジイですから。はいはい。そうですか。泥棒にも三分の理って言いますもんね。あはは」


 桂木さんは楽しげに会話をしながら、私の顔を見て『ごめんね』と口パクした。

 泥棒にも三分の理、か。久しぶりに聞いた気がする。いろはカルタもそうだけど、そういうことわざみたいなのが好きな人なんだろうか。

 そもそも平日の昼間に自宅にいてこんな生活をしている桂木さんは、どんな仕事をしている人なんだろう。どう見ても雇われている匂いがしない。


「お待たせしました。もう終わったの? 早かったね」

「一度書いた文章なので、最初から書くのとは全然違うんです。パソコンをお借りできて大変助かりました。ありがとうございます」

「いいよいいよ。僕はこれからコーヒーを飲みに行くんだけど、鮎川さんも一緒に行きませんか。焙煎から自分でやってるお店でね。私の好みの味なんだ。それともひと眠りする?」

「コーヒーが飲みたいです。お世話になりついでに甘えさせてください」

「大げさ」


 桂木さんは苦笑して立ち上がった。

 家の裏手の屋根付き駐車場には大きな車が二台。まさかのレクサスとベンツだ。

 若い子なら「すごーい!」と歓声をあげるところなんだろうけど、私はいいや。桂木さんがお金持ちなのはもう知っているし、かわい子ぶるには年齢的に苦しい。


「お車は土足禁止ですか?」

「まさか」

「安心しました」


 桂木さんは楽しそうに笑って車を出した。

 助手席はあまり人を乗せていないらしく、本とゴルフ用手袋が置いてあった。桂木さんはそれらをザックリ後部座席に移して「どうぞ」と言う。座った座席の位置が前過ぎた。許可を得てから後ろにずらして座る。


 高級車とファミリーカーの違いはいろいろあるけど、私はその静かさに圧倒される。

 高級車は外の音や屋根にぶつかる雨の音がほとんど聞こえない。レクサスの中は、品のいい動くリビングみたいだ。本革のシートのいい香りがする。その匂いが私に懐かしい気持ちを呼び起こした。


 私は下っ端の何でも屋さんみたいな物書きだけど、高級車の革のいい匂いは知っている。子供の頃の実家には、大きなベンツが二台あった。

 ベンツの持ち主だった私の両親は今、フィリピンにいるらしい。とある人が教えてくれた。日本にいられなくなって逃げ出したのだろうということだった。


 両親とは小学六年の時に捨てられて以来、連絡も取れないし会いたいとも思わない。

 両親は「五千円を置いて行くから。贅沢しなきゃ当分はこれで生活できるからね」と言って大きなトランクを引いて出て行った。


 父と母はその日から帰って来なくなった。

 小学六年生の私は、四日考え抜いてから(これはお金が底をつく前に警察に行ったほうがいいんじゃないかな)と判断した。

 学校の帰りに一人で交番に行き、おまわりさんに「親が帰って来なくなりました。助けてください」と訴えた。


 高校卒業までは公的な支援を受け続け、社会人になってからは自分の素性を世間に隠すためと、両親が私に会おうとしても所在がわからないようにするために、あれこれ手を打った。


 仕事で知り合った鮎川シゲさんにお願いして養子縁組をしてもらい、苗字を変えた。

 公的な書類以外は全て彩恵子さえこという本当の名前は使わず『紗枝』という名前で通し、万が一誰かに聞かれたら「運気の悪い名前と言われたので通り名で生活しています」と言うことにしている。本籍地も住民票も実際には住んでいない場所に移した。


 結婚でもしない限り、私があの詐欺師夫婦の子供であることはバレないと思う。一番用心しなくてはならない相手が実の両親、というのが私の人生の厄介なところだ。

 

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