19 深酒 『へ』
その夜、桂木さんの帰りが遅かった。遅くなることは、ちゃんとメッセージが送られてきている。
『先に寝ていてください。迎えは不要です』
そう言われても、私は桂木さんの帰りを待っている。門が開く音がしたのは十二時を過ぎていた。
玄関がパタンと閉まる音がしたので、部屋を出て階段を下りる。桂木さんはかなり酔っていた。
「お帰りなさい。お茶か紅茶を淹れましょうか?」
「ああ、起きてたの? コーヒーを頼んでもいいかしら。夜中なのに悪いね」
「いえ。私も一緒にコーヒーをいただいていいですか」
「いいに決まってるでしょ。今度そんな当たり前のことを聞いたら、なにか罰を与えようかな」
「罰って。桂木さんの言う罰ってなんですか」
「遠慮の塊の鮎川さんをこれでもかっていうぐらい甘やかすよ」
「今夜はずいぶん酔ってますね」
「うん。酔いを殺しながら飲んでた。若い人にテキーラばっかりしつこく飲まされたなあ」
「コーヒーならなんでもいい」と桂木さんが言うので、見たことのなかった未開封の袋を選び、淹れてみた。香りがいい。二人で向かい合ってコーヒーを飲む。酸味が少なくて私の好みの味だった。
「美味しいです」
「酸っぱくないのを買っておいた。気が利く僕を褒めてもいいよ」
「酔ってるときの桂木さんは可愛いですね」
「可愛かないよ。あー、嫌々飲む付き合い酒は後から酔いが回る。それもさ、家に着いて安心したとたんに酔いが回るんだよね」
「酔っていらっしゃるならお話は明日のほうがよさそうですね」
「話があるの? なあに? 今聞きたい」
「私をメディアストーンの社員にしてください」
桂木さんは何も言わず、コーヒーカップを見ている。
「あれ? 返事が遅くて締め切られちゃいましたか?」
「ううん。感動してる」
感動とは? と思いながら桂木さんを見ていたら、とびきり優しい顔で桂木さんが話し始めた。
「昔、実家の庭に迷い込んできた子猫がいたんだ。ガリガリに痩せててさ、人間を信用しない子猫。シャーシャー言って触らせやしないんだよ。食べ物を皿に入れて置いても、僕が見ていると絶対に食べないんだ。だけど少しずつ距離が近くなってさ、ある日突然、近寄ってきて僕の手に頭をこすりつけたんだ。あのときの感動はねえ、今でも鮮明に覚えてる」
ええと、もしや桂木さんの中で、私はその痩せた野良猫なんですかね。まあ、当たらずとも遠からず、だけども。
「だって鮎川さんたら『借りは作りたくない』とか、『迷惑かけたくない』とか、『使用人ですから』とかさ。そんなことばっかり言うじゃない。助けたいって言ってるのに『私の両手はもう塞がってる』とかさあ」
「言いましたけど。桂木さん、ワインを二本空けたときよりも酔ってらっしゃいますね。どれだけ召し上がったんですか」
桂木さんは髪をガシガシと指で崩して、頭をブルブルッと振った。前髪が落ち、ふわっとした髪型になった桂木さんは、一気に若く見える。
「鮎川さん、あなたは困ってる誰かを助けるときに、見返りを要求する? しないでしょ? 『お返しできないから助けはいらない』って拒絶するのは寂しい考えだよ。もう少し……人をとは言わないから、僕を信用してもいいじゃないの」
「……はい」
「本当に社員になるんだね? 明日の朝になって『やっぱりやめた』って言っても取り消しは受け付けないからね」
「はい。よろしくお願いします、社長」
「やめてよ。桂木さんで」
「はい。お水飲みますか?」
「飲まない。気分がいいから、ワインを飲みたい」
「もうだめです」
「え? だめなの? なんで?」
「明日にしましょう。もうかなり酔ってらっしゃいますから」
桂木さんは乱れた髪でクスクス笑っている。これは相当に酔ってるな。
「嫌々飲むようなこと、あるんですね。社長さんなのに」
「いくらだってあるさ。でもね。散々要求ばかりしてゴネていた若い相手が、最後に『どうか末永くよろしくお願いします』って契約を結んでくるときは、すごく気分がいい」
「あ。なんか腹黒っぽいですね」
「腹の中なんか真っ黒だよ。汚れてるよ。がっかりした?」
「いいえ。五十歳で腹の中が真っ白で純真な少年の心だったらドン引きです」
「くっくっくっく。鮎川さんはそういうところがいいよねえ、そうだ、いろはかるた、いっぱい言ってよ」
「はいはい。いいですよ。じゃあ、『へ』は……平然と人を踏むけど虫は怖がる。あとは……あれ? 寝ちゃったんですか。桂木さん、桂木さん! ……うわ、どうしよう」
桂木さんはテーブルに置いた左手の上に頭を載せ、眠っている。
何回か背中を叩いたけれど、起きる気配なし。骨折してるのに。椅子から落ちたら大変なのに。桂木さんから相当濃くお酒の匂いがしてくる。
「桂木さん、起きてくださいよ。私じゃ担げないですって」
反応なし。私は本気で困ったが、ここは家政婦に徹することにした。このままだと桂木さんがグズグズと椅子から落ちそうで怖い。骨折した腕が下になったら、くっつきかけの部分がまた折れるんじゃないだろうか。
しばらく悩んだけど、「よし」と覚悟を決めて桂木さんの寝室からベッドのマットレスを引きずって運んだ。
分厚くて大きいマットレスを桂木さんの足元まで引きずり、腕を吊っている布製の腕吊り用サポーターを外す。それから桂木さんの両脇の下に腕を差し込んで、椅子から引っ張り下ろした。
眠っている桂木さんの重さと言ったら! 介護の専門家を心から尊敬する。シゲさんはかなり痩せてしまっていたから私でもなんとかなったんだと、今わかった。
ボフッと音を立ててマットレスに倒れ込んだ桂木さんは、完全に熟睡している。
これ、アルコールで意識を失ってるんじゃないわよね? 眠ってるのよね? でも急性アルコール中毒だったらどうしよう。
まずはネクタイを外し、靴下を脱がし、ズボンは悩んだ末にベルトだけ外した。羽毛の掛布団を運んで桂木さんにかける。それから美幸さんに電話した。
美幸さんは三交代で働いているから、今が仕事中なら出ない。出てください! と念じながらコール音を聞いていたら、出てくれた。
「どうした? なにかあった?」
「こんな時間にごめんね。雇い主がテキーラをたくさん飲まされたとかで、椅子に座ったまま寝ちゃったの。アルコール中毒で意識がないのか熟睡しているのかわからなくて、怖い。でも、救急車呼ぶのは大げさな気がして」
そこから美幸さんは次々と私に質問をして、電話の向こうで判断してくれた。
「顔色は? 赤いのか。 吐いた? 吐いてないのね。汗をダラダラかいてる? かいてないと……。足はふらついてた? ちゃんと歩いてたか。それ、多分大丈夫だと思うよ。言葉はしっかり話してたのね? 大丈夫だろうけど、寝ながら吐いたら危ないんだよね」
「どうしよう。私の部屋は二階なのよ。階下で吐かれても気がつかないよ」
「彩恵子ちゃん、諦めて隣で寝てあげなよ。おじさんなんでしょ? 深酔いして寝ちゃったんでしょ? 襲われることはまずない。それ、襲われてどうこうされる可能性より、おじさんが吐いて呼吸できなくなる場合の方がよっぽど怖いよ」
桂木さんを『おじさん』と表す言葉の違和感が半端ない。
「わかった。死なれたら困るから、私もリビングで寝るわ。遅くにごめんね」
「がんばれ。吐いても気管に入らないよう、横向きに寝かせなさいね」
「わかった。ありがとう。遅くにごめんね」
「いいのよ。またいつでも電話してね。おやすみ、彩恵子ちゃん」
「おやすみなさい、美幸さん」
仰向けに寝ている桂木さんを横向きに寝かせ、クッションで背中を支えてから布団をかけた。力仕事を終えて私は汗をかいている。
私はマットレスじゃなくてもいいやと思い、二階から掛布団を運んで敷き、隣の客室から持ってきた羽毛布団をかぶって寝てみた。うん、十分。これで寝られる。
大急ぎでシャワーを済ませ、私は桂木さんから少し離れた床で眠る。私の吸う息吸う息がぜんぶお酒臭い。こりゃ桂木さん、明日は二日酔い確定だ。
時計を見ると、もう深夜の二時だ。
桂木さんが寝ながら吐いたら絶対に起きなくてはと緊張していたら、結局四時くらいまで眠れず。
幸い桂木さんは吐くこともなく熟睡していたが、ずっと左側を下にさせていたらつらいだろうと、四時に一度仰向けにして、顔だけは横向きにした。
私が眠気に負けたのは朝の五時くらいだったろうか。
パチッと目が覚めて時計を見たら、五時ニ十分。
「うう、眠い」
そう声に出してから(桂木さんは? 生きてる?)と隣をみた。
桂木さんは起きていて、身体を私の方に向けて私を見ていた。
「おおおおおはようございますっ! すみません、眠ってました」
「ごめん。思いっきり迷惑をかけたみたいだね」
「いえ。迷惑なことなんてありません。ご無事でよかったです」
「ご無事って、僕が酒の飲み過ぎで死ぬと思ったの?」
「吐いたものが気管に詰まったら怖いと思って。すみません、万が一が怖くて勝手に隣で寝ました。今、コーヒーを淹れます」
「うん。ありがとう。あとね、お味噌汁もお願いしていい? 朝ごはんは食べられそうにない。鮎川さんはちゃんと食べてね。あと鎮痛剤もお願いします。洗面所のキャビネットにある」
「はい。お味噌汁の具はなにかご希望がありますか?」
「んー、豆腐? 軽いものならなんでもいい」
「わかりました」
薬を出し、お湯を沸かしている間に私が使った布団を二階に運んだ。コーヒーを淹れて飲んでもらっている間に出汁を取る。桂木さんがずっと黙っているから、リビングの壁掛け時計の音がやたらはっきり聞こえる。
絹ごし豆腐を小さな賽の目に切り、ネギを少々。とろろ昆布も少しだけ。
「どうぞ。熱いので気をつけてください」
「うん。いただきます」
桂木さんは静かにお味噌汁を飲んでいて、相変わらず無言。
マットレスは桂木さんがお味噌汁を飲み終わってから片付けようかな。
「僕、鮎川さんにどんどん借りが積み重なっているよね」
「まさか!」
「いや、もう、誠に面目ない」
頭を下げる桂木さんは無理に笑顔を作っているけど、あきらかに元気がない。頭痛だろうか。
「桂木さんはお仕事で飲まなきゃならなかったんですから。面目ないなんて言わないでください。私こそ出過ぎた真似をして。不愉快でしたら申し訳ありませんでした」
桂木さんはなにも言わず、時折「はぁぁ」とため息をつきながらお味噌汁をお代わりした。二杯目は「具は入れないで」と注文が入った。
二杯のお味噌汁を飲み終えて、桂木さんは覇気がない感じに自分の部屋へと入って行った。
私はマットレスと格闘しながら桂木さんの部屋の前まで運び、ノックした。かすかな返事が聞こえたような、気のせいのような。
廊下にマットレスを放置するわけにもいかず、もう一度ノックして「失礼します」と声をかけてから部屋へと運び込んだ。桂木さんは振り返りもしない。
なにか怒ってるの? なんで?
ベッドメイクを完了し、「失礼しました」と言って部屋を出ようとしたら、呼び止められた。
「鮎川さん。昨夜は寝てないんじゃない?」
「私が勝手に心配していただけです。昼寝しますから、大丈夫ですよ」
「鮎川さん、なにか欲しいものはない? 働き者の鮎川さんをほぼ徹夜させたと思うと、身の置き所がないほどいたたまれないんだけど」
「そんな。欲しいものは……ないんです。桂木さんがテキーラを無理して飲んだりしないでも済むといいなと思うくらいです」
「うん。そうか。あなたはそうだよね。ありがとうね」
桂木さんがしょんぼりしながら笑顔を作って「もうあんな飲み方はしないよ」と言って仕事を始めた。
私は目が覚めたときからずっとドキドキしている。『平静を装っても跳ねる心臓』これだ。
目が覚めたときに見た桂木さんが、まるで大切な人を見つめているような表情で私を見ていたから。
「いや、ないって」
私は苦笑して頭を振り、掃除をし、ライターの仕事をする前にウォーキングに出ることにした。
歩いている間、深山奏の言葉が頭の中で繰り返し甦る。
『桂木さんはね、鮎川さんを気に入ってるんだよ。女性としてね』
それが本当だったら……どうしたらいいのか。そもそも、それが忠臣深山の壮大な勘違いという可能性もある。
逃げ出さないと決めたけど、余計なことを言ったりやったりして、桂木さんに嫌われるのは嫌だ。
「あの表情は忘れよう。消去消去。それが平和」
一時間のウォーキングを終えて桂木邸に戻っている。
残り百メートルを切ったところで気がついた。桂木邸の門の前に車が止まっていて、ドアフォン越しに桂木さんと会話している刑事の水川さんがいた。