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18 逃げない

 桂木さんの指示通りに県道を進み、到着したのは桂木邸から二十キロほど離れた岬だ。

 海に向かって突き出した岬の中ほどに、素っ気ない木造の建物があった。


「あそこ、カフェなんだ。知る人ぞ知るって感じのお店だよ。あの岬は通称鯛岬たいみさき。崖の下あたりで鯛がよく釣れることからそう呼ばれているそうなんだ」

「鯛埼町の鯛岬。縁起が良さそうです。よくこんな場所でお店を出そうという気になりましたよね」

「詳しいことは僕も知らないけど、オーナーはあそこに一人で暮らしていると言ってたな」

「そうなんですか」


 ここに一人暮らしって、すごい。台風のときに心細くないのかな。暴風雨が直撃だと思うけど、台風に家が壊される心配はしないのかな。


「それとね、ここはコーヒーがブレンドの一種類しかないんだ。店内では言いにくいけど、鮎川さんは緑茶かほうじ茶がいいかも」

「わかりました。コーヒーが酸っぱい系なんですね? では緑茶かほうじ茶を注文します」


 桂木さんはちょっと困ったような優しい笑顔で、「察しがいい人は話が早い」と言う。桂木さんは基本笑顔なんだなあと思いながら、桂木さんの斜め後ろを歩く。桂木さんはチラと振り返って一瞬だけなにか言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。


 店は『カフェ 鯛岬』というわかりやすい名前。

 店の前には日に焼けて白茶けた木製のテーブルと長椅子が三セット。店内に入ると四人掛けの席が三つ。窓を向いて設置されたカウンター席が五席。どの席も、海を見ながら寛ぐことを目的とした配置になっている。

 外の席には六十代の夫婦が、海を眺めながら無言でコーヒーを飲んでいる。お客はその二人だけ。


「いらっしゃいませ」


 奥から出てきた店主は、六十歳を軽く超えているような年齢のふくよかな女性だった。てっきり愛想の悪い気難しそうな男性が店主だとばかり思っていたのに、女性? この年齢で岬に一人暮らし? 世の中にはいろんな人がいる。


「外がいい? 中でいい?」

「中のカウンター席でもいいですか?」

「いいよ」


 カウンター席に私が先に座り、桂木さんは? と見ると、立ったまま壁の貼り紙を眺めてから私の右隣の席に座った。前から思っていたけれど、桂木さんは意外なことにパーソナルスペースが狭い。


「ん? どうかした?」

「いえ。素敵なお店だなあと思っているところです」

「何を注文する? お昼にはまだ早いけど、食事もできるんだよ」

「ええと、では……お団子とほうじ茶を」


 桂木さんが左手を上げ、オーナーが来た。


「お団子をひとつ、ほうじ茶を二つ。それと味噌クッキーをひとつ」

「はい。少々お待ちください」


 目の前が岬の突端で、その先はずっと海。店の背後は県道と山。もちろん辺りに家は一軒もない。こんな場所で独り暮らしをして、強盗とか、家の中で転んで骨折とか、そんなことは考えないのだろうか。


「ここは夕陽が沈む時間が一番人気なんだ」

「ああ、そうでしょうね。桂木さんはよくいらっしゃるんですか?」

「ときどき、かな。気に入りましたか?」

「はい。私、ここに来るために、自転車を買おうかと真剣に考えています」

「ニ十キロもあるのに? 僕の車を使えばいいでしょう」

「それは……だめです」

「なんで?」

「私用で出かけるときに桂木さんの車は使えません」

「そう……」

「すみません。でも、そういうけじめは、私の中で大切なんです。そうやっても言われるときはいろいろ言われますから。言われないように予防線を張って行動するのがもう、私の初期設定なんです」


 桂木さんは、それ以上なにも言わない。

 お団子と味噌クッキー、ほうじ茶が運ばれてきた。オーナーが気を利かせて、朱塗りの菓子切りフォークを二本添えてくれていた。


「せっかくですから、桂木さんもお団子をどうぞ」

「ありがとう。味噌クッキーもどうぞ」

「いただきます」


 私はあんこがたっぷり添えられたお団子を黙々と食べた。あんこは粒あんだ。お団子がふわふわもっちりで美味しい。あんこの甘さは控えめで、私は(小豆あずきってこんないい香りだったっけ)と思いながら口に運ぶ。


「鮎川さん、このお団子、初めて食べたけど美味しいね」

「お団子もあんこも美味しいですね。どちらも手作りですかね?」

「手作りらしいよ。味噌クッキーも手作り。この素っ気なく思うほどの素朴な味、たまに食べたくなってここまで来るんだ」

「ではいただきます。あ、ほんとだ。お味噌の主張は強くないんですね。懐かしい味って感じです」


 二人でお団子と味噌クッキーを食べてお茶を飲んだ。

 外の席のご夫婦をなんとなく眺めて、私が桂木さんと同年代だったらよかったのにな、と思った。年齢が近ければ、こうして並んでお団子と味噌クッキーを食べていても違和感は持たれないのに。

 と、そこまで考えた直後に(ん? それはなんで?)と自分で驚く。

 私、桂木さんと一緒に居ても違和感なく見られたいの? あれ? 私、いつの間にそんなことを願うようになったの?


「鮎川さん、うちの社員になる話、受けてもらえるのかしら」

「それは……」


 正直、頼れる人が美幸さんしかいない私には、ありがたい話だけど、返事ができない。両親が捕まったら? 裁判が開かれたら? 私のところに警察やマスコミが来るだろう。裁判にも引っ張り出されるかもしれない。いや、絶対に引っ張り出される気がする。

 それ、桂木さんにかなり迷惑をかけるよね?


「桂木さんに迷惑をかけたくないです」

「またそれか。頑固だねえ。いいって言ってるのに」


 苦笑する桂木さん。


「私、今まで自分を守ることだけでいっぱいいっぱいで。お付き合いしている人に結婚を申し込まれそうになると『あなたに飽きた』って言って逃げたり、相手に嫌われるようなことを繰り返して別れ話に持ち込んだり。そのくせ一人でいるのは寂しくて、誰かにお付き合いを申し込まれれば交際して」

「なかなかだなあ」

「私は最低なクズですから。でも、素性を知られて別の世界の生き物を見るみたいな視線を向けられるくらいなら、罵られて嫌われるほうが楽です」


 桂木さんはそれにも返事をせず、追加で緑茶を二つ注文して、窓の外を眺めている。そして視線を外に向けたまま、口を開いた。


「あなたの名前は伏せて、弁護士に相談したんだけど」

「えっ。なにをです?」

「あなたに対して繰り返される人権侵害を、今後どうやったら防げるか。いざとなったら裁判ていう手もあるよ。昨今の週刊誌離れで経営が苦しいところは、裁判沙汰や賠償金の支払いを嫌がるだろうし」


 桂木さん。私は名誉の回復なんて望んでいません。裁判なんてしたら、謝罪されるメリットより注目を集めてしまうデメリットが恐ろしいんです。私はただ、静かに暮らしたいだけなの。


「なにもしたくないです。今の一番の望みは、桂木さんの名前に泥を塗るような存在になりたくないだけです」

「僕? 僕なら既に女遊びの派手な成り上がりって評価がついてるけど? 何を書かれても今更だよ。近しい身内がいないっていうのは、こういうときに都合がいい。それで、もう一度聞くけど、鮎川さんは社員になってくれるのかな。それは嫌なのかな?」

「ええと」


 深山の『桂木さんは女性としてあなたを気に入っている』という推測は当たってるのかな。それを信じていいのかな。深山の予想が大外れだった場合『私も桂木さんと一緒に暮らすのが楽しいです』と言った瞬間に、恐怖の対象になってしまうんじゃないの? 深山奏、私は桂木さんを傷つけたり疲弊させたりする存在になるのだけは勘弁よ。


「深山さんに、桂木さんが家政婦を入れたがらない理由を聞きました。女性運が悪かったとも聞きました。私は、そういう人の仲間入りをしたくありません。今が十分楽しくて、これ以上を望んだら、今持っている幸せを手離すことになりそうで、勇気が出ません」

「ふうん」


 そこからまた二人とも沈黙した。

 お昼時になり、ぽつりぽつりと客が入って来る。皆、「ランチをお願いします」と言って好きな席に座って海を眺めている。


「もう少し考えてからお返事をしてもいいですか」

「もちろん。好きなだけ悩んでいいよ」

「ありがとうございます」

「よし、そろそろ帰ろうか。鮎川さんの仕事の邪魔をしたくない」

「ありがとうございます」


 帰りは二人とも無言で、ラジオが間を取り持ってくれた。

 その日は桂木さんが午後から東京へ出かけ、夕食は出先で食べると連絡が来た。

 次の日も桂木さんは朝から仕事で東京へ。私は桂木さんを車で駅まで送り、そのまま駅前のレンタカーを借りてこの前のカフェに向かう。


 開店時間が十時なのをこの前確認しておいた。今日は狙って口開けの客になる。

 私は中に入り、前回と同じカウンター席に座った。


「いらっしゃい。また来てくれて嬉しいわ」

「覚えていてくださったんですね」

「覚えてるわよ。素敵な二人だなって思ったから。注文が決まったら声をかけてくださいね」

「あっ、では味噌クッキーとほうじ茶を」

「はい、かしこまりました」


 開店と同時に来たのには理由がある。あのオーナーにどうしても聞いてみたかったのだ。


「お待たせしました味噌クッキーとほうじ茶です」

「お仕事中申し訳ありませんが、五分だけお話させてもらえませんか?」

「いいですよ。他のお客さんが来なければ、五分と言わず何分でも」

「ここに独り暮らしだと聞いたんですけど、台風とか、強盗とか、一人のときに怪我をしたりとか、考えたりしませんか?」


 オーナーさんは目ジリに優しそうなシワを作って笑った。


「ああ、そのこと。その質問、開店当時からずっとされていますよ。お客さんは道を歩いているときに車が突っ込んでくることを想定しながら歩きます?」

「いえ」

「でしょう? それを言い出したら外に出られないでしょう? それと同じです。来るか来ないかわからない不幸に怯えて暮らすっていう考えは、私の中にはないんです。強盗は明日来るかもしれないけど、死ぬまで来ないかもしれない。だけど私がやりたかったカフェを開けば間違いなく楽しい。だから一人暮らしでカフェ。それだけです」

「そうですか」

「お客さんはこの前と同じ席に座ったでしょう? でも、この店は座る場所によって、見える海の感じが違って見えるんですよ。よかったら、ほかの席も試してみてくださいね」

「わかりました。今から外の席に移ってもいいですか?」

「どうぞどうぞ」


 外に出て、崖の突端に一番近い席に座ってみた。

「へええ」

 カウンター席からは見えなかった崖下が見える。波が繰り返し岩にぶつかって、白く砕けている。次の波も、その次の波も、延々と岩にぶつかって砕けては引いていく。


 店の中から見える穏やかな海とは、かなり印象が違う。

 私も勇気を出して生き方や考え方を変えたら、こんなふうに見える景色が変わるんだろうか。


 その日、私は桂木さんが帰宅の電話をかけてくるのを待った。

「この家に居させてください」と頼む覚悟を決めたのだ。警察やマスコミが来たら、その時は私が毅然と対応しよう。怖いけど、今度は逃げないで耐えてみようと思いながら待った。


 きっと大丈夫。私は打たれ強い。打たれ慣れてる。

 桂木さんの言葉に、どれだけ救われる思いがしたことか。きっと、桂木さん自身にはわからないほど私は救われている。

『ひたすら逃げ続ける生き方を変えてみよう』と思った。


 本当はとっくに気づいている。

 私の中にあるこの感情がこれ以上育たないことを願ってる。

 女性に執着され続けて苦しんできた桂木さんが望んでくれるなら、私は桂木さんの近くにいたい。


 両親に置いて行かれたあの日からずっと、私は自分を守ることだけで精一杯だった。

 そんな私に桂木さんは『逃亡犯の娘でも、警察やマスコミが来るような人間でも、ここにいていい』と言ってくれたのだ。


 私は初めて、世間から逃げ回るのをやめようと思っている。


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書籍『海辺の町で間借り暮らし』
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― 新着の感想 ―
[一言] カフェのオーナーの話、すごーく納得です。 なんだかジーンとしました。 私には深い内容の18話でした。
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