17 キンポウゲ 『ほ』
前の晩は遅くまで私の歓迎会と称する飲み会があり、深山奏は私の部屋の隣に泊まった。
私は翌朝、いつも通り五時に起きて台所を片付け、冷凍庫にあったシジミでお味噌汁を作った。桂木さんと深山奏が結構飲んでいたから、ここはシジミでしょう。
朝の六時半に桂木さんが起きてきて、深山奏を起こした。
「今日は新規の顧客と顔合わせがあるだろう? 遅刻しちゃだめだよ」と桂木さんは父親みたいな態度。起こされた深山奏は、シャワーを浴び、まだ濡れた髪でシジミのお味噌汁を飲んでいる。
「深山さん、お酒は残っていませんか? もし残っているようなら駅まで車で送りますよ」
「そうしてもらおうかな。タクシーを頼むつもりだったけど、悪い。頼む」
「お任せください」
深山奏は私の作った朝食を完食し、「行ってきます」と桂木さんに挨拶をしてから助手席に乗った。駅に向かう途中、「ドトールに入ってほしい。鮎川さんに話がある」と言う。
(私が社員に勧誘されたことだな)と思ったので、黙ってドトールの近くのコインパーキングに車を入れる。
「やっぱりここでいいや、人に聞かれたくない話があるんだ」
「なに?」
「鮎川さん、桂木さんの家政婦嫌いの理由を聞いた?」
「ううん。なにかあったの?」
「桂木さん、仕事がめちゃくちゃ忙しい時期に家政婦を雇ってたんだよ。そしたらその家政婦さんが桂木さんに惚れたんだろうね。桂木さんはそれに気がついて、すぐにその人との契約を切ったわけ」
「うん」
「桂木さんはあの通り配慮の人だから、『しばらくの間、会社の近くのホテルに住むことになった』って理由にしてさ。で、自宅で寝ているとき、夜中に人の気配で目が覚めたら、契約を切ったはずの家政婦が桂木さんの寝顔を覗き込んでいたんだって」
「うわっ」
想像しただけで冷や汗出るわ。
「その人、こっそり合鍵作ってたんだよ。恐ろしくないか? その人がもし包丁とか持ってたら、洒落にならない話だからね。その人は逮捕されたけど、初犯だったし住居侵入だけだから、執行猶予ついてすぐに世間に戻ったんだよ」
あまりにぞっとする話だ。桂木さんの心労を思うと、おなかが痛くなる。
「美形で金持ちで優しいだろ? とにかく桂木さんは女の人に執着されるんだよね。女性運が悪いっていうレベルを超えて、気の毒としかいいようがない」
「そんな経験してるのに、よく私のことを雇ってくれたわよね。私が桂木さんなら無理だわ」
「だからだよ。桂木さんがここまで女性を信用するっていうか、距離を詰めてるのはすごくレアなんだって。しかも今度は鮎川さんを社員にするって言うしさ。よっぽど鮎川さんを手放したくないんだなと思った」
「社員の件は断ろうかと思ってる。私が桂木さんの近くにいるせいで、あんなに親切な人に迷惑かけたら嫌だもの」
「はあ? 鮎川さんて……」
「なによ」
「すんごく鈍いのな。気がついてないの? 桂木さんの気持ち」
「桂木さんがなにを考えているかなんて、わからないよ」
「よくそこまで鈍感でいられるよね。桂木さんはね、鮎川さんを気に入ってるんだよ。女性としてね。鮎川さんが相手なのは俺は不本意だけどね。桂木さんは、多分遠慮があるから自分の気持ちを言い出さないんだろうけど」
「桂木さんの遠慮ってなによ?」
「年が離れすぎてるでしょ?」
「いやいやいや、ないわ。いくら歳が離れていても、桂木さんが私なんかを女性として見るなんてないよ。私が絶世の美女ならともかく。深山さん、それはない」
一瞬、頭を抱きかかえられたことを思い出したけど、あれは違うやつ、と打ち消した。深山奏は『馬鹿かこいつは』と考えているのが丸わかりの表情で私を見ている。
「え。深山さん、本気で言ってる?」
「あそこまで整った顔だとね、相手の顔に美しさは求めないんだと思うよ。容姿にコンプレックス持ってる金持ちの男ほどお嫁さんが美人て、よく言うでしょ? あれの逆だね」
……気のせいかしら。私今、流れるようにディスられてない?
「深山さん」
「なに?」
「桂木さんが私を女性として見てるって意見には同意しがたいけど、傷つけないように気をつける。私は深夜に寝室になんて絶対に行かないから安心して」
深山は少し口を開け、眉を寄せて今度は『こいつはなにを言ってんだ?』という顔になった。いちいち表情がうるさい。
「まあ、鮎川さんにその気がないなら俺はこれ以上なにも言わないけどさ。桂木さんは多分、自分の本音を最後まで言わないと思うよ。それこそ死ぬまでね。鮎川さんのことを助けるだけ助けて、もし鮎川さんに好きな人ができたら、笑顔で祝福するだろうね。鮎川さんの気持ちを第一に考えて、間違っても自分が奪い取ってやるなんて思わないはず。桂木さんはそういう人」
「深山さんの勘違いだと思う」
「鮎川さんがそう思うなら聞き流して忘れていいよ。僕は桂木さんには白井ジュリアみたいな人と結ばれてほしいんだから。とにかく、僕は桂木さんには幸せになってほしい。それだけ。じゃ! 送ってくれて助かった」
そこまで言うと、深山奏は車を降りて駅へと歩いて行った。
「白井ジュリアって誰」
検索したら日系ハリウッド女優だった。オリエンタルな印象を前面に出したストレートロングの黒髪。楚々としたたたずまい。メイクは自然で、ハリウッドのアジア系女優にありがちな目尻を吊り上げたアイラインもアイシャドウもない。確かに深山の言うとおり。桂木さんによく似合う女性って感じ。
それを見てから運転席のサンバイザーをパタンと動かし、鏡を見た。思わず苦笑してしまう。白井ジュリアが真っ白な牡丹の花なら、私は……キンポウゲ?
「やめとこ。自分を卑下するのは素性だけで十分よ。さて、帰ろうか」
スタートボタンを押そうとして、もう一度サンバイザーの小さな鏡を見る。ごく薄くお化粧をした地味な三十歳の女がこっちを見ている。うん、やっぱりキンポウゲ。しかも少ししおれているような。
家に帰ると、桂木さんは黒縁メガネで書類を読んでいた。
「おかえり。深山君を送ってくれてありがとう」
「運転は大好きですから」
「そんな感じだね」
「はい。ラジオをつけて、のんびり景色のいい道を走って、コンビニのおにぎりと温かいペットボトルのお茶を買って、どこかでゆっくり景色を眺められたら幸せです」
「ずいぶん簡単に幸せになれるんだなあ。鮎川さん、今日、ライターの仕事は忙しいの?」
「いえ。締め切りが迫っている仕事はありません」
「では、海辺の道をドライブしませんか? 僕もその幸せな一日の仲間入りがしたいです」
「それはかまいませんけど、桂木さんはコンビニのおにぎりなんて食べたことあります?」
「馬鹿にしないでよ。コンビニのおにぎりなんて、東京にいた頃に飽きるほど食べてたよ。よし、じゃあ、今から行きましょう」
「あ……はい」
出かける前にやっておくべき家事を考えるけど、なかった。
この家は洗濯物を外に干さず、洗濯機が乾かす。だからこういうときも『出かける前に干さなきゃ』『早く帰って取り込まなきゃ』がない。この家に間借りするようになってから(洗濯って、意外に行動を制限するものだったんだ)と気づいた。
桂木さんは濃いグレーのセーターの中に白いシャツ。コットン素材のオフホワイトのパンツ。そして手ぶら。かくいう私もハンカチとスマホをジーンズのポケットに突っ込んであるだけ。胸に下げているお守りの中の一万円札が、非常時用。たいていの買い物はスマホ払いだ。
「海岸沿いの県道でいいんですか?」
「うん。西に向かって進んでくれる? 久しぶりに行ってみたい場所がある」
「わかりました」
「ナビには入れてないんだ。ごめんね」
「いえいえ。桂木さんの声がナビ代わりですね。頼りにしています」
助手席に座り、シートベルトを片手でするのに手間取っている桂木さん。手伝うべき? と思ったけど、身体を近づけることになる。ためらっているうちに、桂木さんは自力でカチンとベルトを固定できた。
チラッと桂木さんの横顔を見る。まっすぐな鼻梁、薄めの唇。額の生え際に少し白髪。ヒゲはない。そういえば桂木さんの無精ヒゲを見たことがない。ヒゲが薄そう。髪は豊かなのに。
「なあに? 今、僕の顔を見ていたでしょ。僕とドライブじゃ御不満でしたか?」
「そっ、そんなわけないじゃないですか。車は好きな車ですし、ずっと憧れていた『海辺の町をドライブ』ですし!」(それにかっこいい桂木さんと一緒ですし)
最後の部分は心の中だけにして車をスタートさせた。
静かに発進した車で県道に出る。平日の朝なのに、道は空いている。今日も海の青が心を明るく励ましてくれる。
ラジオをつけていいかどうか迷いながら走っていたら、しばらくしてから桂木さんが話し始めた。
「今日は僕から『ほ』のかるたを発表します」
「ぜひ聞かせてください」
「『ほっとできる人とできない人』どうだろう」
「いいと思います!」
「うわぁ、口調に全然心がこもってない。ここ最近聞いた中でで一番心がこもってなかった。お笑い芸人さんにそれを言う人がいたよね。詩吟の人」
「ああ、あれは『あると思います!』ですよ」
そう言ってから、自分の『いいと思います』の言い方が芸人さんにそっくりだったことに気づいて笑ってしまった。桂木さんも笑い出す。二人で結構長い間クスクスと笑ってから、桂木さんが話題を変えた。
「そう言えば、鮎川さんは肌が弱いんだね」
「ええ、そうですけど。顔ですか? 見苦しいですか?」
「ううん。手。働き者の手だよね。その手を見たときに、『この人は真面目なんだろうな』と思った。夢中になって家政婦の仕事に取り組む尊い手だよ」
ええと。ついさっき、深山に流れるように顔をディスられたばかりだけど、今は手を褒められてるのよね? 桂木さんは遠回しの嫌味や皮肉を言ったりしない人だものね。
「運転中なので手を隠せませんが、私は肌が弱いくせに手入れを怠っていて。手が荒れまくっているので、とても耳が痛いです」
「どうして。耳が痛くないでしょうに。僕は鮎川さんの働き者の手を『尊く美しい』って褒めてるんだよ?」
「桂木さん……手を隠せないときに褒めるのはやめてください。恥ずかしいです」
「ごめんごめん。気がついたときに言っておかないと、と思ったものだから」
手を隠しようがないときに手を褒めてくる桂木さんが、ちょっとだけ恨めしい。いたたまれなくてラジオをつけた。
ラジオからはエド・シーランの新曲が流れてきた。私はエド・シーランの声が好きなのでつい聞き惚れてしまう。
「エド・シーランが好きなの?」
「桂木さんがエド・シーランをご存知とは!」
「また年寄りだと思って馬鹿にして」
「馬鹿にしたわけじゃありませんけど、エド・シーランは意外で……」
「彼の歌って、どれも恋愛にのめり込んでいる男の気持ちを歌ってるでしょ? 手を変え品を変えして歌い続けている。僕は恋に悩んで眠れないとか、何も手につかないとか、若い頃からその手の経験が一度もないんだ」
ここは笑いに変えるべきかと思ったけど、深山にあの話を聞いたあとだけにさすがに茶化せない。私は口を閉じたまま車を走らせる。
「周囲の人にはお前は運が悪かったと慰められてきたんだ。だけど、そんな経験が続いたのは、もしかしたら僕の側に人として大切な何かが欠けていたからかもしれない、と数年前から思うようになったな」
「違います。いろんな女性がいますから。桂木さんはとことん女運が悪かったんですよ。そんなことも稀にはありますって」
「そう言ってくれてありがとうね」
桂木さんが、やわやわと笑っている。
深山奏は『僕は桂木さんに幸せになってほしいんだよ』と言っていた。
深山よ。忠臣深山よ。にわか桂木ファンの私も、その思いは同じです。