16 勧誘
桂木さんのニットは柔らかくてチクチクしない。
(これはカシミアかしら。肌触り最高ね)なんて場違いなことを考えながら、私はじっと動かないでいる。
私のおでこは桂木さんの肩のあたりにそっと置かれているだけ。抜け出そうと思えば抜け出せる。
だけど桂木さんが本当に泣いているから、抜け出さなかった。
桂木さんの体温が、おでこを通して伝わって来る。
しばらくじっとしていたら、私の頭を抱えていた腕の力が抜けた。
「ああ、ごめんね。思いっきりセクハラだったね」
「いいえ。私のために泣いてくれる人なんて、施設で一緒だった美幸さんて人だけかと思っていました。この世にもう一人いたんですね。ちょっと感動しています」
腕を伸ばしてココアのカップを取り、ひと口飲む。甘いココアはぬるくなっていた。
「鮎川さんは強いね。だけど、鮎川さんが強ければ強いほど、鮎川さんが強くならざるを得なかった過去が見えるようで……ああ、年をとると涙もろくなって嫌だなぁ」
「やっぱり同情しちゃいますよね」
「同情、ではないよ。言葉ではなんと言えばいいのか……。僕の貧相な語彙から選ぶとしたら、保護欲、だろうか。欲という言葉がついてしまうと自分のためだけの感情だね。難しいな、言葉は」
「助けたいと言っていただけただけで、私はもう十分です。そう言えば、深山さんも桂木さんに助けてもらったことをとても感謝してました」
深山の名前を聞いて、桂木さんが「え?」と驚いた。
「深山君? 彼、ここに来たの?」
「いえ、警察の人が来る前にここを出なければと思ったので、あとを任せられる人を探してほしくて私が呼び出しました」
「そう。鮎川さんは出て行くつもりだったんだね」
「でも、こんなにお世話になっているのに、利き腕を骨折して一人暮らしの桂木さんを残して出て行くことはさすがに申し訳なくて。深山さんに相談しました。勝手なことをして申し訳ありません」
「そうか……」
桂木さんは深呼吸してから目尻の涙をスッと拭った。
「鮎川さんには、ここにいて家事を担当してほしいんだけどなあ」
「刑事が来るかもしれません」
「いいよ。僕が同席するよ。こう見えて法律にはそこそこ詳しいんだ。人権侵害をしたら抗議する」
「マスコミも来るかもしれません」
「来させりゃいいさ。あなたはむしろ被害者でしょうに。当時子供だった人を苦しめて、訴えられる覚悟はあるのかって聞いてやるさ」
「被害者、ではないですよ。両親が詐欺で手に入れたお金で育っているんですから」
「そんな言い方はやめなさい。あなたはどうすることもできない子供だったんだから」
桂木さんは考え込んでいる。私はココアをちびちびと飲むことに専念した。
どうしたものか。この優しい人に確実に迷惑をかけるとわかっていながらここにいるのは、それはそれでつらいものがある。
「僕は以前、根も葉もないことを週刊誌やネット記事に書かれたからね。それ以来、自分を守るために弁護士と契約しているんだ。毎月顧問料を払っているんだから、使わないともったいないでしょ?」
「使うって、私のためにですか?」
「もちろん鮎川さんのためにだよ。だって、あなたの今の雇用主は僕でしょ? 僕は自分が雇っている人が不利益を被ってるのに黙って見ているつもりはないよ」
「いえ、大丈夫ですから。弁護士だなんてそんな、あまりに……」
「気が重い?」
「……はい」
「はぁぁ。鮎川さん。あなたはあなたを傷つける人だけじゃなく、助けようとする人にまで背中の針を立てる」
背中の針? ハリネズミ? ヤマアラシ? いや、どっちでもいいか。そうか、桂木さんには私はそう見えるのね。
「弁護士は敷居が高いと思うかもしれないけど、そんなことはないから。大丈夫だよ」
「私がここを出て行けば済む話ですので」
「出て行きたいの?」
「ここが嫌だといってるんじゃないですよ? ここで働くのは大変にありがたいです。居心地もいいです。でも」
「僕に借りを作りたくないんだね」
「はい。返せそうにありませんから。これ以上誰かに対して後ろめたい思いを抱えるには、私の両腕はもう、荷物でいっぱいなんです」
「そうか……」
桂木さんは、天井を眺めるだけで何もしゃべらなくなった。
私はどうしたらいいのかわからなくて少し困ってる。こんな無条件の親切に慣れていない。
かつてお付き合いした人たちは、私の生まれ育ちを知らないから親切にしてくれた。けれど最初の恋人は、親が興信所だか探偵事務所だかを使って私の身元調査をした途端、逃げ出した。傷ついたけれど、それが普通だろうと納得した。納得したけど傷ついた。
だからもう二度と同じ傷がつかないよう、結婚の話が出るようになったら別れてきた。一年か二年、長くて四年。そばに居てくれてありがとうと思いながら逃げ続けた。大杉港には浮気されたけど、それでも感謝はしている。四年間そばにいてくれてありがとうって。結婚できなくてごめんねって。
ついにマシュマロ入りのココアを飲み終えた。もう、この話を終わらせる頃合いだ。
そっと立ち上がり、流しに運んでマグカップを洗う。
どうしたら桂木さんに対して失礼にならずに、ここを去ることができるのかな。大人なんだから、善意の手をパシッと払いのけるようなことはしたくない。感謝を込めて握手をして出て行きたいよ。
「鮎川さん」
「はい」
桂木さんはソファーにもたれかかって天井を眺めている姿勢から、スッと背筋を伸ばして私を見た。
「なんでしょう」
「うちの社員になりませんか。そうすれば僕が正式にあなたを守ることができる。ライターの仕事もサポートできる。別件の契約で家政婦として美味しいアラビアータも作ってもらえるし、僕は自分が役立たずだと憂鬱にならなくて済む。あなたのことで顧問弁護士を使うことも、全く問題ない」
「桂木さん……」
思わず駄々っ子を諫めるような口調になってしまう。
「そこまでしていただかなくても私、自殺したりしませんよ? 結構お気楽に生きてます」
「救急車で運ばれたときにね」
「はい」
「あなたがいてくれてよかったなあと思ったんだ。火事に遭って大変そうだからと手を差し伸べた鮎川さんが、僕のために泣きそうな顔をして裸足で飛び出してきてくれた。救急車を呼んでくれて、病院の外で何時間も待っていてくれた。どれだけありがたくて嬉しかったか。あなたがいてくれてよかったんだ」
「はあ」
全てを持っていそうな桂木さんが、普通の人みたいなことを言うのが不思議だ。ふとウォーキング中の会話を思い出した。
「桂木さん、夕食どきに路地を歩くといい匂いがするって言ってましたよね?」
「言ったね」
「失礼なこと言うようですけど、もしかして、少し羨ましかったんですか?」
「うん。ふふふ、当たりです」
「へえ。そうなんですね。意外です」
「僕は欲張りな人間なんだけど、他の人たちがごく自然に手に入れているものは、ことごとく手に入らなかった」
「たとえばどんなものですか?」
桂木さんは私の問いかけには答えず、話を変えた。
「脚立ごと倒れて腕の骨が折れて、立ち上がれなかったときね、ポケットからスマホを取り出せるだろうかと試したんだ。だけど、ちょっと身動きしただけで激痛でね。無理だった」
「それはそうでしょう。骨が折れたってことは、神経も傷ついたでしょうし」
「あのとき唐突に『火葬場で焼かれるとき、僕が今持っているものは全て無意味だな』って、空を見ながら思った。小学生だってわかるようなことを、骨折して動けなくなってやっと実感したんだ。相変わらず愚かだなあって、自分にがっかりした」
桂木さんは、いつもの穏やかで明るい表情に戻っている。
「ということで鮎川さん、僕の会社、メディアストーンの社員になりましょう」
「……考えさせてもらってもいいですか」
「そうね、三十秒くらいなら時間をあげよう」
「みじかっ!」
「ははは。ぐだぐだ考えた答えがいい答えとは限らないよ」
さっきまで泣いていた私が、桂木さんの強引さに思わず笑ってしまった。
するとチャイムの音。モニターを見たら深山奏が、哀し気な雰囲気で立っている。深山奏、耳も尻尾も垂れてるぞ。
「深山さんですよ。門を開けていいですよね?」
「僕がいいって言う前に来たから開けなくていい」
「もう、なに言ってるんですか。東京から車を飛ばして来たんでしょうから、可哀想ですよ。開けますからね」
私は返事を待たずに門のロックを解除した。
リビングの大きな窓越しに、深山奏の車が入って来るのが見える。
やがて深山奏は発泡スチロールの箱を抱えてリビングに入ってきた。
「桂木さん、カニを持って謝罪に参りました」
「僕、それほどカニが好きってわけじゃないよ?」
「ええ? そんなこと言わないでくださいよ。この前カニを持ってきたら『いい仕事をした』って褒めてくれたじゃないですか」
「そうだったっけ?」
「もう……桂木さん、鮎川さんとは仲直りしましたから。どうかお許しください」
「そうなの? 仲直りしたの? 鮎川さん」
「はい。『俺の桂木さんを甘く見るなよ』って自慢されました」
「なにそれ。あっ、深山君、カニはジップロックに入れてから冷蔵庫に入れてくれる? そのままだと冷蔵庫が生臭くなっちゃうから」
「はいっ!」
深山奏は、見えない尻尾をふりふりしながらカニをジップロックに入れ始めた。
「それとね、鮎川さんが我が社の社員になったから」
「え?」
「えっ」
私と深山奏が同時に声を出した。
「老い先短い人の希望を優しく受け入れるのも、若者の役目だよ」
「桂木さんが老い先短いって。あと五十年は現役でいけるじゃないですか」
あら、私が社員になる話には反対しないんだ? ていうか私、まだ返事してないのに。
「深山君、そういうことだから、今から鮎川さんの歓迎会をしよう。好きなワインを選びなさい」
「えっ。どれでもいいんですか?」
「いいよ」
「やった! じゃあ、あれを開けますよ、レストランでは恐ろしくて頼めないシュヴァル・ブラン」
「なんでもいいよ。好きなのを好きなだけ飲みなさい。僕はもう、働いて稼いだ分はじゃんじゃん使うことにしたんだ」
「シュヴァル・ブランは冗談です。手柄を立てたわけでもないのに、怖くて飲めません。桂木さん、なにかあったんですか?」
桂木さんはそれには答えず、やわやわと笑っている。私も微笑むだけでなにも言わなかった。
私は(本当に甘えてもいいのかな。ここにいてもいいのかな)と考えている。
深山奏はワインのボトルを手に「やだなあ、僕だけ仲間外れですか」と文句を言っている。
この家は、なんて居心地がいいんだろう。
(もうちょっとだけ、あと少しだけこの家にいたい)と思いながら、私はおつまみを作るために冷蔵庫を開けた。