15 マシュマロ入りのココア
突然爆発した地雷に、私は絶句してしまった。
こういう場合に備えて用意しておいた答えがあったはずなのに、度忘れしてしまってなにも言葉が出てこない。
「それは……」
「昨日東京で会った人は、仕事のことでいろいろご相談させていただいている人。鮎川シゲさんのことで嘘をつく理由がない人なんだ。鮎川紗枝さん、あなたは、本当は誰なのかしら。なにか事情があって身元を隠しているの?」
「私は……」
住み込みの家政婦が実は正体不明だったなんて、誰だってギョッとするよね。
私はどこから話せばいいのかな。
こんな形で桂木さんに私の過去を知られたくなかった。
私は、せめて卑屈に見えないことを願って、背筋を伸ばして返事をした。
「桂木さん、私が鮎川シゲさんの娘なのは本当です。ただ、養子なので血縁関係はありません」
「そういうことを聞きたいんじゃない」
「え?」
「僕は前に言ったよね。鮎川さんが困っていたら助けたいって。そうしたい理由も正直に話した。今現在、あなたはなにか困ってることがあるんじゃないの? 家電屋さんの店内で、本当は何があったの? この前かかってきた電話で、悩んでいるんじゃないの?」
「桂木さんに心配してもらうようなことではないので……」
桂木さんが眉を寄せ、聞き分けのない子供を見るような顔で私を見ている。
「鮎川さんは、あの日あたりからずいぶんと暗い表情をするようになった。自分では気づいていないのかな。あなたと少しは打ち解けられたと思ってたけど、まだ僕は信用ならない?」
「違います。桂木さんは信用できる人だと思ってます」
「じゃあなぜ」
「それは……恥ずかしいからです。桂木さんは、お日様の下を堂々と生きてきた人じゃないですか。そんな桂木さんに、私のみっともない生い立ちを知られたくありません。恥ずかしいんですよ。すごく恥ずかしい。私のことを誰も知らないこの町なら、普通の人間みたいな顔をして暮らせるかなって……そんな期待をして引っ越して来たんです。だから聞かれないことはしゃべりませんでした」
「気にしているのが生い立ちなら、あなたには責任がないことでしょう?」
「桂木さんが会ったという人は、私のことを怪しんでいたんじゃないんですか? 桂木さんだって、本当の私を知ったら、さすがに……」
すると桂木さんが立ち上がり、私の横に立った。
「五十の大人を甘く見て貰っちゃ困るな。その荒れた手を見れば、あなたがとてもまじめな働き者だってことぐらい、初日にわかったよ。それだけじゃない。あなたは人を羨んだり妬んだりしない強い心の持ち主で、何かから自分を守ろうと必死だ。その程度のこと、会話の逸らし方でとっくに気づいてたよ。そんなあなたが困っているなら、助けたいんだ。あなたからしたら余計なお節介なのは承知の上でね」
「なんで……。なんでですか」
悔しい。なんでそんなに優しくしてくれるのか。
意地悪されたり距離を置かれるのは慣れている。だけど、美幸さんや施設の仲間以外の人に、そんなに優しくされたことも守ってもらったこともないから『人前で泣かない』って掟を破ってしまいそうだ。
私は唇を噛んで、私を甘やかそうとする桂木さんを睨んだ。ああ、だめだ。涙が勝手に出てくる。
テレビで父の姿を見て以来、本当はずっと落ち着かなかった。父が話題になれば、刑事だけじゃなく、週刊誌や新聞の記者が私を探すかもしれない。そうなったら桂木さんに迷惑がかかる。桂木さんは気にしなくても、私が申し訳なくていたたまれない。
だけど(大丈夫だ、まだ大丈夫)と自分に言い聞かせてここで暮らしてきた。不安なんか一切感じていないことにしていた。なのに、『困っているなら助けたい』と言われたとたんに、『助けてください』と口から出そうになる。何も考えずに桂木さんにすがりたくなる。でもそんな資格が私にはない。
桂木さんが私に向かって左手を伸ばしたけれど、その手は迷うように途中で止まった。それから私の肩にそっと手を置いて、こう言った。
「なんでも言ってごらん。鮎川さんの生い立ちがどうであっても、僕はがっかりしない自信がある。困っていることがあるのなら、力になる。僕はそれなりに世間を知っているし、君が思っているよりも、ずっといろんな手段を持っている。君を助けるよ。安心して僕を頼りなさい」
それでも全てを話すことはためらわれた。黙っていたら、桂木さんは台所に向かった。
お茶を淹れるのかと思って立ち上がりかけたけど、「いいから、座っていなさい」と言う。
桂木さんは片手でカチャカチャと何かをしていたが、やがて優しい匂いが漂ってきた。丸く小さなトレイに載せて運ばれてきたのはココアと豆皿にのせられた大きなマシュマロが一個。トレイを受け取ったときに、ついに涙がこぼれてしまった。
「よかったらどうぞ。マシュマロは砂糖代わりだ」
「いただきます」
私はグスグスと鼻をすすり上げながら、マグカップの中にマシュマロを落として溶けるのを待った。桂木さんは私の右隣りに腰を下ろした。
桂木さんがティッシュを取って「はい」と差し出すから、受け取って頬と顎の涙を拭いた。
「こういう時の甘いものは、よく効くよ」
「はい」
「実はね、その鮎川シゲさんの友人と話をしていたとき、その人が『シゲさんから家と土地を貰っているなんて、その人は怪しい。詐欺じゃないか』って言い出してね」
「普通は……そう思うでしょうね」
「だから、はっきりさせておいたほうがいいと思ったんだ。養子になって、あの家を貰ったの?」
私は小さくうなずいた。
「財産が欲しかったわけじゃないので、相続放棄の書類を渡してあったんです。でも、それはシゲさんに捨てられました。あの家を受け取ってほしいって、亡くなる直前に言われたんです。すぐにでも旅立ってしまいそうなシゲさんの気持ちを思ったら、とても断れませんでした。私、シゲさんの家に五年くらい家政婦として通っていて、養子の話は私からお願いしました。苗字を変えたかったからです」
手遅れではあるけれど、真実を言うなら今しかない。
果たして桂木さんは、逃亡犯の娘を家政婦として雇える人だろうか。犯罪者の中でも、よりによって詐欺師だ。その上私は高齢者の養子になって財産を受け取っている。誰が聞いたって怪しい女だ。
「詰んじゃってますね、私」
「そうなの?」
「だって、苗字を変えたかった理由を説明するには、自分の生い立ちをお話ししなきゃならなくて、生い立ちをお話しすれば、桂木さんに嫌悪感を持たれます。八方ふさがりでしょう?」
「それ、僕に嫌悪感を持たれたくないって理解でいいのかな?」
「嫌悪感を持たれたくないし、同情もされたくないです」
「そうですか」
どうせ一度はここを出て行こうとしたのだ。真実をしゃべって居づらくなったら、出ていこう。
マシュマロは全部溶けて、白く細かい泡になって浮かんでいる。
「ローマの花火の意味を知っているかって、私、『ろ』のときに言いましたよね。あれ、専門用語なんです。詐欺師の世界の」
「詐欺師」
「はい。数千回に一回、開かないパラシュートがあって、飛行機から飛び下りた人がそのまま地面に激突することを『ローマの花火』って言うらしいです。すごく運が悪かったとき、詐欺師はそう言うのだと本で読みました」
「それで?」
「桂木さんは四葉ハウスの不動産詐欺事件を覚えていますか」
「四葉ハウス……たしか、詐欺師のグループが四葉ハウスを騙して、他人名義の一等地を売りつけようとした事件だよね? 当時、ニュースや新聞ですごく話題になったから、そのくらいは知ってる」
「その地面師グループの主犯が私の父です」
「……」
びっくりしたでしょう?
私は絶句している桂木さんの顔を、ほろ苦い気持ちで眺めながら、ココアを飲んだ。美しい顔の人って、他の人なら間抜けに見えるような表情でも美しいのね。
「父はそれまでもちょこちょこ地面師をやっていたらしいんですけど、捕まりませんでした。そして、準備に何年もかけて、四葉ハウスを相手に大きな詐欺を仕掛けたんです。額は数十億。だけど手付金を受け取ったあとで計画がバレて、夫婦で国外に逃亡しました。いまだに捕まっていません。海外に逃げたことは刑事さんが教えてくれました。私に連絡が来ているんじゃないかって、何度も何度も聞かれました。私がどこへ逃げても警察に追いかけられて尋ねられました。刑事事件は海外にいる間は時効の執行が止まりますから。事件はまだ生きているんです」
桂木さんはまだ無言だ。
「警察が私の職場に来ていろいろ聞くものだから、私、どこに就職しても居づらくなっちゃうんです。このご時世だから露骨に辞めろとは言われませんけど、さすがに居づらくて……。それで社長になりました。自分が社長なら、首になる心配がありませんから」
「家電屋さんのテレビに映っていたのって、もしかしてご両親?」
「父です。カメラで撮影されていることに気がつかずに、善人の顔で熱心に話をしていました。『ああ、今もまだ詐欺をやってそうだなあ』と思いました。逃亡犯なのに撮影に気づかないなんて、父も年を取って衰えたんでしょうね」
「『ろくでなしのくせに笑顔は善人』って、お父さんのこと?」
「はい。内容を説明する時は一般論でお話しするつもりでした」
桂木さんは『解せない』という顏で首をかしげた。
「でも、あなたは事件には関係ないでしょう?」
「そうですけど、あの事件、今もすごく興味を持たれているんです。ノンフィクションもフィクションも、何冊も本が出ているし、テレビで取り上げると、今でもそこそこ視聴率が稼げるネタだそうです。週刊誌も同じです。取材に来た人がそう言ってました」
「それで?」
「それで、その両親の唯一の家族が私ですから。興味は私にも向くんです。両親が海外逃亡したあとは、校門の前や養護施設にも来て。就職すれば会社まで追いかけられて取材されました。今なら考えられないことですけど、当時はそうでした。学校でいじめられたのも、それが原因です。だから苗字を変えて名前も別名を名乗って、無記名記事と家政婦の仕事で生きています。私の父は柿田守。私の名前は養子になる前は柿田彩恵子でした。字は彩りに恵まれる子供です」
桂木さんは前を向いたまま考えこんでいたが、眉間にわずかなシワを作って質問してきた。
「君は当時子供だったわけでしょう? 両親が海外逃亡して、あなたはどうしたの?」
「小学六年で児童養護施設に入りました。それも自分から。学校の帰りに交番に行って、『親が帰って来ません。助けてください』ってランドセルを背負って訴えたんです。なかなかしっかりしている小学生でしょう? あはは」
笑って話をそこで終わりにしよう。そしてこの家を出て行けばいいや。
桂木さんは左手で額を押さえてうつむいた。横から見る桂木さんの鼻の頭が赤いから、驚いて思わず顔を覗き込んでしまった。
すると桂木さんは私の手からマグカップをそっと取り上げ、片腕で私の頭を自分の肩のあたりに抱え込む。
「ええと、桂木さん?」
「そんな悲しい声で笑わなくていい。ああ、ちょっとそのままでいてくれる? 五十のおじさんが泣いてるみっともない姿、見られたくないんだ。少しだけそのままでいてください」