14 水川刑事と深山奏
「はい」
「ああ、やっと電話に出てくれた。久しぶりだね、彩恵子さん」
「お久しぶりです、水川さん」
「彩恵子さん、あなた、自分の素性を隠すためなのかな? ずいぶんいろいろ工夫しているんだね。今は鮎川姓になってるんでしょ?」
「はい」
「相変わらずぶっきらぼうだなあ、お父さんから連絡は来ましたか?」
「いいえ」
「そうですか。あなたのお父さん、この前テレビに映っていてね。マニラにいることがわかったんだ」
「そうなんですか」
ああ、やっぱり気がついた人がいたのね。
「お父さんがマニラにいると聞いても驚かないんだね」
「フィリピンに逃げたと教えてくれたのは水川さんじゃないですか」
「まあね。あなたの所在を知りたかったから少し調べたよ。あなた、家政婦の仕事で知り合ったご老人から、土地と建物を貰ったんだね」
「はい。でも水川さん、あれは鮎川さんが自ら手続きしてくれたものです」
「わかってますよ。正式な公正証書遺言だ。手続きには一点の曇りもなかった。あれ、彩恵子さんから持ちかけたの?」
「違いますっ!」
きっとそう疑われると思ったから、相続放棄の書類を作ったんですよ。
「まあ、そう興奮しないで。そうだろうね。あなたはお母さんとはタイプが違うものね」
「なにが言いたいんですか?」
「別になにも。お父さんから連絡が来たら、必ずこの番号に連絡ください」
「はい」
「頼みましたよ。お父さんから連絡が来たのを黙っていると、それはそれであなたを警察に呼ぶことになるからね。それと、鯛埼町で火災保険の保険金も手に入れているね。今、まだ鯛埼町にいるの? それとも東京?」
「言いたくありません。また職を失いますから」
「調べる手間が省けるから教えてほしいんだけどな」
「今、仕事中なんで切りますね。それと、火事の火元は判明してますから。私が火をつけたわけじゃありません。誤解しないでください。では失礼します」
私はそこで電話を切った。
どうしよう。警察が聞き込みを始めたら、私がここにいることなんて半日でバレる。おなかの中が、ギリギリと締め付けられるように縮こまるのを感じた。
「残念だけど、もうここもダメか」
その日から、私は忙しく動き回った。
保険金が振りこまれている口座の残高を確認し、美幸さんに事情を説明して「もしものときはしばらく同居させて」と頼んだ。
やましいことはしていないけれど、桂木さんに同情されながら出て行くのは、あまりに惨めだ。水川刑事がここに聞き込みに来る前に出て行きたい。
キッチンの壁に深山奏の連絡先が貼ってある。桂木さんになにかあったときのための貼り紙だ。
私は深山奏の連絡先にショートメールを送った。
『話したいことがあります。都合がいい時に電話をください。鮎川紗枝』
深山奏は二分後に電話をかけてきた。
「なに?」
「私、近日中にこの家の家政婦を辞めようと思います」
「へえ。契約を途中で投げ出すの? それはそれは」
子供の仕返しか。だけど深山に頼みごとをしたいから、今は喧嘩を買うわけにはいかない。
「桂木さんのギプスが取れるまでまだかかりますから、お世話をする人が必要なんです」
「そうだね」
「深山さんはここに住み込めないんですか? 桂木さんは家政婦を入れたくないらしいですし」
「チッ」
舌打ちされた。深山奏め。
「あのさ、桂木さんは事情があって、家政婦は入れたくないわけ。僕があなたの代わりをしたいけど、こっちも手一杯なんだよ。だからあなたに今出て行かれると困るんだ。違うわ、困るんです」
「ため口でいいですよ。心に敬意のない敬語は無意味ですから」
「チッ。はぁ。あなたに今出て行かれると本当に困るんだよ。なんで急に出て行くわけ?」
「一身上の都合です」
「無責任だよ」
「申し訳ございません」
「いいよ、心に敬意のない敬語は」
こんな場合なのに、思わず笑ってしまった。
「なに笑ってるのさ。辞める理由は電話じゃ話せないようなことなの?」
「はい」
「僕とあなたの電話なんて、誰も盗聴しないよ!」
「そうね。でも、詳しい事情は電話では言いたくない。どうなのかしら? 私の代わりが見つかる当て、ありますか? それとも見つかりそうもないのかしら。そこだけ返事してください。桂木さんを一人で置いて出るのは気が引けるんです」
深山はしばらく「んんんん」とか「はあああああ」とか言っていたが、私は黙って待った。やがて深山が何かを決めたらしく会話が再開された。
「よく聞いて。その家から駅に向かって進むと県道の左手にガロっていうスナックがあるから。そこに二十時半に来て。僕が対処できることなら、なんとかするよ。とにかく勝手に出て行くのはやめろ、じゃない、やめてください」
「……」
「相談を持ちかけておいて返事もなしかよ!」
「わかりました」
そこで唐突に電話は切れた。深山奏、あなたは桂木さんのためなら、嫌っている私の頼み事でも聞いてくれるのね。見直したわ。
夜の七時半すぎ。仕事中の桂木さんに「ウォーキングしてきます」と断って家を出た。
スナックガロはあまり流行ってないらしい。私の他にはカラオケで歌っているおじいさんが一人いるだけだった。今時珍しいロングカーリーヘアの女性が注文を取りに来た。
「ご注文は?」
「コーラをお願いします」
「コークハイじゃなくて?」
「はい。コーラで」
グラスに氷がたっぷり入ったコーラは、ストローで一回吸ったら終わりそうな量しか入ってない。それを飲まずにかき回していたら、深山奏が入ってきた。
「早いな」
「お願いをする立場ですから」
「ママさん、僕もコーラで。あと、なにか食べる物」
「今日はおでんと刺身、モツ煮、あとはおにぎり」
「じゃ、刺身とモツ煮とおにぎり」
「はい、ちょっと待っててね」
一度トイレに立った深山奏が戻ってきて私の顔を見る。
「で? なんで急に辞めるわけ? なんか失敗でもしたの?」
「してない。だけど近々、私の親のことで刑事が尋ねて来そうだから」
「刑事って、あんたなにをしたの?」
「私じゃないの。私の親。だけど、私のことを追いかけてるマスコミとかがいるのよ。刑事が動くとマスコミも動くから。私の親のことで桂木さんに迷惑をかけたくないの。それに、居づらくなってから出るより、今のうちに出て行きたい。桂木さんて、迷惑をかけても助けてくれそうだけど、それは私が嫌なのよ」
「ふうん」
深山奏は、カラカラとストローでコーラをかき回している。私は黙ってその手元を見ている。桂木さんはこの人のことを『気の毒な生い立ち』と言っていた。気の毒な生い立ちという以上、親絡みで苦労してるんだろうと思った。だから深山には刑事が来ることも話しやすい。
「わかった。家政婦は辞めないでほしい」
「なんで。私の話を聞いてた?」
「聞いてたよ。あのね、桂木さんが女性を家に入れてあんな風に寛いでいるのは、かなり珍しいことなんだ。それに、あなたが家政婦として真面目に働いてるのはわかってる。家がきれいだしね。本当にあなた自身は関係なくて、親のことなんだよね?」
「うん」
「じゃあいいよ。逃げる必要ないじゃん。堂々としていれば?」
それはあのつらさを経験してないからそう思うんだろうね。
「刑事に近所で聞き込みされてごらんなさいよ。どれだけ雇い主に対して申し訳なくて肩身が狭いか。深山さんは経験がないからそんなこと言えるのよ」
「あるよ、経験なら」
「あるんだ?」
「俺の父親は飲酒運転でひき逃げして捕まってる。相手に重傷を負わせた上に飲酒がばれるのを怖がって逃げたんだ。がっちり保険に入ってたって、飲酒でひき逃げだからね、保険金は一円も出なかった。相手は学生だったから、賠償金は億を超えたんだ。うち、貯金を洗いざらい差し出してマンションを売り払っても足りなくて、自己破産して、両親は離婚だよ」
「……そうだったの」
「そうだよ。親父さえ酒を我慢していれば、被害者含めてみんなそのまま平凡に生きられたのにさ。たいして酒好きでもないくせにさ。最悪、逃げなきゃよかったのに。馬鹿な人だよ」
そこでお刺身とモツ煮とおにぎりが来た。お刺身は美味しそうなマグロの赤身だ。
深山は一味唐辛子をモツ煮にたっぷり振りかけて食べ始めた。視線をモツ煮とお刺身に向けたまま、深山がしゃべる。
「そんな状態で、まあ、母親が過労とストレスで心を病んじゃってさ。僕は学校になんて行っている場合じゃなくて。高校中退でバイトを掛け持ちで働いていたんだ。そうしたら、桂木さんが助けてくれたんだよ。親父が以前に桂木さんの会社の先輩だったってだけなのに、『出世払いでいいよ』って、学費から生活費から全部出してくれてさ」
「桂木さんはきっと、深山さんが出世してもお金を受け取らないんでしょうね」
深山が驚いた顔になった。
「その通り。へえ。わかるんだ? 桂木さんは『その額のお金はあってもなくても僕には同じだよ』って。『でも、君にとっては大金でしょ』って。『もっと稼ぐようになったら返して貰うね』って」
「深山さん、苦労したのね。ごめんね、古女房とか言って」
「別にいいよ。本当のことだと思ったし」
「深山奏」
「フルネームで呼び捨てかよ!」
「私、あなたのこと見直したわ」
「は? どんな上から目線だよ。とにかく、桂木さんはあんたの事情程度で態度を変える人じゃないから。器が違うから。だから辞める必要なんかないよ」
「刑事が来ても?」
「うん」
「近所に聞き込みされて噂になっても?」
「そうだよ。桂木さんを甘く見るなよ」
「そう……わかった」
そこで深山奏はまたトイレに行き、戻って来るといきなり頭を下げた。
「鮎川さん、僕も悪かった。あの時は申し訳ありませんでした」
「いいわよ、お互い様だし。私も年上なのに大人げなく嚙みついたわ」
「僕のこと、めっちゃ煽ったよね?」
「うん」
「あんなことしていると、いつか誰かに殴られるよ?」
「あなたは手を出せないと思った」
「チッ!」
舌打ちしてから、深山奏はフッと笑った。
私は勧められるままに深山奏のマグロのお刺身をひと切れ味見させてもらい、流行らないスナックのお刺身が美味しくて悶絶した。海辺の町は魚が美味しいよ。できればずっと、この町にいたいなぁ。
深山奏は「明日も早くから忙しいんだ」と言って早々に帰る様子。帰り際、私が深山奏の車の窓をノックして、窓ガラスが下がるのを待って声をかけた。
「深山奏、デートするときは水分を控えた方がいいよ」
「なんで?」
「膀胱に余裕がない男はモテない」
深山奏は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてから「うるせえ! ほっとけ!」と叫んで車を出した。私は来た時よりもずっと明るい気持ちで桂木邸に帰ることができた。
翌日から緊張して暮らしたけれど、電話から一週間が過ぎても水川刑事は現れていない。
◇ ◇ ◇
その日、桂木さんは東京に出かけていて、夜の八時過ぎに「東京駅で買ってきたよ」と言って香炉庵の東京鈴もなかをお土産に持ち帰ってきてくれた。鈴もなかが大好物の私は、素で大喜びしてしまい、「そんなに好きなんだね」と桂木さんに生暖かい感じに微笑まれてしまった。
夜の十時ごろ。
お茶を淹れて一緒に鈴もなかを食べていると、桂木さんが改まった感じで話を始めた。
「鮎川さん、しばらく前に電話が来たことがあったでしょう? 窓拭きしていたとき。あのときから、ちょっと変だね」
「そうですか? 気のせいですよ。私はいつも通りです」
「そうかなぁ。それで、立ち入ったことを聞くけど、あなたと鮎川シゲさんはどういう関係だったの?」
「どういう関係って、親子ですけど」
「そう……。今日東京で会った人が、偶然だけど鮎川シゲさんの古い友人だった。この家のことを話題にしたら、その人がこのあたりで生まれ育ったと言い出してね。当時は学区がとても広くて、鮎川シゲさんとは小学校が一緒だったそうだよ」
(待って。待って。待って)
私の心臓が変なリズムで動いた。
「だから自然とあなたの話になったんだ。鮎川シゲさんの娘さんが、今うちで働いているんですよって。そうしたら『鮎川シゲさんには子供はいない、結婚すらしていない』って言われたんだけど。それ、本当?」